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秘密の日

 カントリーハウスに比べればそう広くは無い屋敷には、よく物音が響く。

 馬車の音は顕著で、リンネを仮眠からすぐに呼び起こした。


(お帰りになったのね)


 今はシーリントンの夜番の時間だが、主の帰還を知って寝こけているわけにもいかない。

 リンネは手早く身形を整えて自室を飛び出した。

 急ぎ足で玄関へ辿り着くと、すでにシーリントンが出迎えのためかドアに手をかけたところだった。

 彼はリンネの姿を見とめると、少しだけ不思議な苦笑する。

 まるでリンネがやってきて困ったような顔だ。

 ここでどうしてそんな顔をするのか。

 意図のわからない表情を不審に睨んだが、シーリントンがいよいよドアを開けたので、リンネはいつもの無表情を自分の顔に張り付けてシーリントンに続いて玄関ポーチへと出た。


 ポーチに停まった馬車からは、すぐにジルラールは降りてこなかった。

 その代わり珍しく御者台から飛び降りてきた御者が馬車のドアを開けた。

 玄関にともされたランプが馬車から這い出てくる人影を照らし出す。


(二人……)


 出かけた時とあまり変わらないジルラールが、誰かを抱えて降りてきた。

 ゆっくりと御者の手も借りながら現れたのは、まるで赤ワインのように鮮やかな色をした髪の女性だった。

 ゆるく上品に巻かれた華やかな髪とは違って深い紺色のドレスは地味ながら布地を大胆にカットしていて、そこから覗く腕や背中が余計に白く映えた。


「おかえりなさいませ」


 リンネはシーリントンの声にはっとする。

 ぼんやりと二人が玄関ポーチの短い階段を昇る様子を見ている場合ではない。

 いつもよりも慌てて頭を下げると、ふと二人が立ち止まる気配がする。


「遅くなってすまないね」


 少しだけ疲れたジルラールの声が苦笑気味に降ってくる。


「いえ。夜が明けなくて幸いでした。――そちらの御婦人は?」


 シーリントンの問いにジルラールは苦笑を深めた。


「古い友人だよ。話をしていたら酔いが回ったようでね。この様子では道端で寝てしまいそうだったから連れて帰ってきたんだ」


 仕方なくてね、と付け加えて「リンネ」とこちらを呼ぶので顔を上げる。


「介抱を頼めるかな。客間までは僕が運ぶから」


 女性ならばリンネが抱えて運ぶ方が適役だろう。


「でしたら、私が」


 言いかけたリンネをジルラールは軽く片手で遮って、


「シーリントンには他にやってもらうことがあるしね。僕が運ぶよ」


 そう言って女性の腕を肩に乗せたままジルラールは廊下を歩きだす。


(……それなら、私の手はいらないのでは)


 客間まで運ぶのならジルラールが彼女を介抱すればいいのだ。


(……いえ、何を馬鹿なことを)


 自分の拗ねたような考えに驚きながら、リンネはジルラールたちの後を追った。


 幾つかある客間のうちの一つに女性を運び入れたジルラールは、やれやれとカウチに彼女を横たえた。狭くは無いはずのカウチだが、女性の豊かな髪が散らばりまるで彼女のためにしつらえたような格好だ。


「僕はちょっと着替えてくるよ。目が覚めたら水でもやってくれ」


 それ、とジルラールが指したのは依然として目が覚めない赤ワイン色の女性。

 自分の主の女性の扱いについてリンネは然程知るわけではないが、領民の女性にも貴賎なく丁寧に接する彼からすれば、ぞんざいな扱いだ。

 それがなんとなく気安い関係にも見え、どこかへ置いてきたはずの拗ねたリンネが仕事の邪魔をする。


(私には関係のないことよ)


 そう断じてリンネは己をばっさり切り捨て台所に水差しを取りに行った。


 水差しを持って部屋へ戻ると、すでに女性はカウチから身を起こしている。

 少し急ぎ足で近付くと、気付いた彼女は不思議そうな顔でリンネを見遣った。


「ここは…?」


 まだ少し酔っているのかもしれない。彼女の呼気には甘いような酒精が残っている。


「ハウスリングのメインハウスでございます」


 そう言って、リンネはカウチのそばのサイドテーブルに水差しを置いた。

 女性の方は頷くか頷かないかの様子で茫洋と部屋を眺めていたが、やがてリンネに視線を向ける。


「お水をくれないかしら」


「かしこまりました」


 彼女の言葉を待ってカウチのそばで待っていたのだ。

 リンネは素早くグラスに水を注ぐ。

 明らかに誰かに命令しなれている彼女だったが、リンネが音もなく水を差し出すと少し目を瞠った。


「見ない顔ね。新しく雇われたの?」


 女性にしては少し低いが滑らかな声で美しく微笑まれ、リンネは少しだけ見とれそうになった。同性からしても妖艶で美しい人だ。


「……はい。昨年から雇われております」


「名前は?」


「リンネと申します」


 家名は名乗らなかった。祖父のことを知っているのではないかと思われたからだ。貴族にしては使用人に優しく接してくれるこの女性がどのような立場か知らないし、昨年からの騒動でも分かった通り、もしもジルラールと敵対する、特に親戚筋だった場合にどのように波紋するか分からない。

 

 一方、女性の方は「ふーん」と頷いただけで他に何も訊ねては来なかった。質問の代わりかにっこりと微笑む。


「私はハヴィ。ジルとは古い友人ってところかしら。よろしくね」


 ジル、とはジルラールのことだろうか。


 そんなことを思いながら、リンネは模範的に一礼して「よろしくお願いいたします」と返した。


 ハヴィはもう少し眠るというので、客間の寝室を用意したが、用意しているうちに彼女はカウチで眠ってしまっていた。


「……ハヴィ様。ベッドの用意が整いました」


「うーん…。いいわよー…ここで眠るから…」


 寝ぼけ眼の彼女はリンネの呼びかけに応えはするものの眠ってしまう。

 どうしたものかと溜息を小さく漏らしていると、ジルラールが客間に顔を出した。いつものベストとタイ姿だ。


「眠ってしまった?」


「はい…」


 どうすればいいかと主に視線を投げかけると、ジルラールは何故か穏やかな顔で笑った。


「ここはもういいよ。適当に寝かせておくからリンネはもう休んで」


「でも…」


「今日は朝から大変だったんだ。明日は一時間遅く起きていいからね」


 そんなことはできないと思いつつも、主人の指示には従うしかない。


「……かしこまりました。では、失礼いたします」


 おやすみなさいませ、と声をかけると「おやすみ」と返ってくる。その返事に乗って、少しだけ甘い香水と酒の匂いが漂ってくる。

 ハヴィの香水か、それとももっと別の誰かのものか。


 その香りを避けるように、リンネは客間を静かに辞した。

 

 その道すがら、シーリントンが何かの書類を抱えて行き違った。


「お休みですか」


 そんなことを尋ねてくるのでリンネは努めて表情を崩さないようにした。


「旦那様は客間でお客様のお相手をされています。私は必要ないとのことでしたので、下がらせていただきました」


「ははぁ」


 どこかおかしな答えだっただろうか。

 シーリントンは何も言わずにしたり顔でリンネの顔を眺め、やがて「お休みなさい」と廊下を去っていった。


 残されたリンネはどこか釈然としない気分のまま、自分の部屋に戻り、もやもやとした腹を抱えたまま眠りについたのだった。




 そうした翌日。



 何か自分でも分からないものを抱えて眠ってしまったリンネの寝起きはすこぶる悪く、しかし体は勝手に時間通りに目を覚ますので気分と体がまるで水と油のように相容れず、リンネは船酔いをしているような心地で台所へと向かった。


「おはよう」


 若干顔色の悪いリンネと違い、台所で紅茶を飲んでいたシーリントンはいつものように小ざっぱりとした様子だ。


「昨夜は泊まったんですか?」


 そう尋ねながら窯を見遣るとすでに火が焚かれて湯も沸いている。シーリントンが火を入れたのだろう。


「ああ。朝早くに一度、家に帰ったけどね」

 

 さっき来たところだよ、と言い、シーリントンはリンネにも紅茶を勧めてくる。

 断る理由もなかったので、リンネは素直に紅茶入りのカップを受け取った。

 はちみつでも垂らしてあるのかほんのりと独特な甘い香りがする。甘味は庶民には贅沢品だ。それは貴族に仕える使用人も同じこと。

 飲む前に睨んだシーリントンは明後日の方向にわざとらしく視線を逸らせた。リンネが強く責めないと知っていてからかっているのだ。

 使用人にお腹いっぱい食べさせようとするジルラールのことである。彼がこんなことで目くじらを立てないとリンネも分かっているが、線引きは必要だ。


(あの人は、貴族なんだもの)


 シーズンになれば着飾って夜会へ行き、昨夜のように女性を伴うことだってある。

 それが社交なのか私情なのか、使用人であるリンネが口を挟むべきことではないように。


 溜息をつく代わりに口に含むと、紅茶の茶とはちみつのふんわりとした甘味がリンネの腹を少しだけ温めた。

 じんわりと沁みていく紅茶がリンネに空腹と、昨夜のもやもやが思い出されてくる。どうやら忘れていたわけではないらしい。

 何となくげんなりとした気分でリンネは台所を後にし、洗面の用具などをワゴンに乗せて客間に向かった。

 本来なら優先すべきは主人のジルラールだが、昨夜からジルラールに客人の世話をするよう言われている。ジルラール本人に夜はもういいと言われたが、様子を見に行くぐらいはしておくべきだろう。


 客間に辿り着いたリンネは少し深呼吸してから戸をノックする。


「おはようございます。お目覚めでしょうか」


 それほど早朝というわけではないが朝と言える時間だ。

 まだ起きていないかもしれないとも思ったが、思いのほかしっかりとした返事が返ってきた。


「どうぞ。入って」


 失礼いたします、と素直に部屋へと入ってリンネは後悔した。


「ああ、こんな格好でごめんなさいね」


「まったくだよ。さっさと着替えろ」


 昨夜と同じベストとタイ姿でジルラールがソファに腰かけたままで、窓から少し離れたところに居るハヴィにうんざりとした様子でぞんざいな言葉を投げた。

 よく見れば客間のローテーブルには所狭しと酒瓶が並び、朝日に似合わない酒の匂いが部屋に充満している。

 どうやら、リンネを追い出したあと二人で迎え酒を楽しんでいたらしい。


「助かるわ。ちょうど顔を洗いたいところだったの」


 リンネを振り返って微笑んだハヴィは昨夜と同じような艶やかさで、上半身裸だった。

 まだ化粧の残る顔からは疲れと二日酔いが見て取れたが、それでもハヴィは美しかった。

 たとえ、


「それと、申し訳ないんだけど着替えを用意してもらえないかしら。サイズはあなたのご主人さまと一緒だから」


 女物のドレスをまとっていた、男であろうと。



                

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