赤ワインの日
ダンスの日からしばらく経って、ジルラールはようやく重い腰を上げた。
「三日後、夜会に行くから」
朝食のついでにそんなことを言う。
(み、三日ぁ!?)
通常、夜会の準備は一週間はかかる。ドレスを用意しなければならないレディがいないので、これは最低限の日数だ。
手にしていた紅茶入りのポットが揺れたのを自覚したが、リンネは努めて冷静を装ってジルラールにカップを渡す。
「馬車の手配はシーリントンがやるけれど、着て行くコートはリンネが選んでね」
確かに夜会用の正装も持ち込んではいる。
持ち込んでいるが、どういった夜会なのか分からなければ選びようがない。
リンネは渋々訊ねることにした。
「……どういった夜会なのでしょうか」
そもそも誰が主催の夜会なのかさえ知らないのだ。といっても、貴族の事情などリンネが知るはずもないのだが。
「ほら、この前来た客が居ただろう。ミシェル」
「はい」
「あれの実家が主催でね。呼ばれたらとりあえず顔を出しておかないとあとがうるさいんだ」
そんなおざなりな。
しかし、親しい者だけが集まるパーティなのだろうか。
「だから、堅苦しく考える必要はないよ」
そう言って少しだけ面倒くさそうにジルラールは紅茶を飲む。
「シーズンに一度開かれる、皇家主催の夜会だというだけだから」
朝日を浴びてきらきらと光る主の銀髪を紅茶で染めたいと思っても、誰も文句は言わないはずだ。
心の中だけにとどめていたあれこれが滲み出ていたのか、その日ジルラールは実に真面目に書斎に籠り、シーリントンはリンネに軽口を叩かなかった。
それどころか夜会のことを話し合おうということになり、シーリントンの父であるグリーファを連れてきてくれることになった。
昼食を終えてシーリントンは一度家へと戻り、やがて辻馬車で帰ってきた。
よっこいしょ、と鷹揚にシーリントンと共に降りてきたのは壮年の紳士だ。しかし贅肉はついておらず、すらりとしている。腰さえ痛めていなければ、コートを着こなす立派なロマンスグレーに見えた。
シーリントンに杖を渡されゆっくりと玄関前に立つリンネに彼は手を挙げる。
「やぁやぁ。君がリンネだね。噂通り、綺麗で可憐なお嬢さんだ」
紳士はごくごく滑らかな動作で、出迎えたリンネの手を取り口付けようとした。
「こら! 若いお嬢さんと見ればすぐこれなんだから!」
肩口を叩かれ、苦笑すると紳士は傍らの婦人を自分の手に添えた。
並んだ婦人は白いものが混じっているものの美しい黒髪の優しそうな女性だ。
彼女はにっこりと微笑んでリンネに握手を求めた。
「こんにちは。リンネさん。息子がお世話になっております。まぁまぁ、本当に可愛らしいお嬢さん。シーリントンがご迷惑をおかけしたでしょう?」
この親たちにしてシーリントンあり。
リンネは婦人の微笑みに曖昧に応えて、管理人一家を屋敷の応接間へと招いた。
「改めて紹介しよう。これが妻のアリア。君に迷惑をかけている馬鹿息子がシーリントン。そして私がグリーファだ」
「リンネ・ガーランドと申します。半年ほど前から伯爵さまにお仕えしております」
よろしくお願いいたします、と添えると管理人一家は各々座ったソファで朗らかに笑った。
「君のことはかねがね聞いているよ。エンドランの孫娘さんだね」
グリーファはそう言って、少しだけ遠くを見るような目をする。
「あのエンドランが病とはね…。いや、私より年が上だったから、そういうことなんだろう。葬式の日はゆっくりと君と話せなかったが…」
「……いらしてくださっていたのですか?」
グリーファの言葉に驚いて、ワゴンで入れかけていた紅茶をこぼしそうになると、リンネの様子に彼は目じりにしわを溜めて優しく微笑んだ。
「ああ。エンドランには世話になったからね。彼は私にとって友人で、盟友だった」
懐かしむような声に、リンネまで頬が緩んだ。
あの堅物の祖父を知る人が、伯爵の他にも居る。
そのことが不思議と心を温かくしたのだ。
「私たち家族と、ジルラールさまも一緒に参列していたのよ。坊ちゃんはお話していないのかしら?」
リンネの様子を気遣うようにアリアが言う。
あのジルラールを坊ちゃんというアリアのことも気になったが、リンネは別のことに驚いた。
(伯爵さまが?)
考えてみればあの日、あの時間に教会に居たのだから葬式に参列していてもおかしくない。
だが、あの目立つ人を覚えていないというのもおかしな話だ。
職業柄、人の顔を覚えることには長けているつもりだったが、あの日来ていたという管理人一家のことすら覚えていない。
(どうして…)
思い出話から、次第に夜会の話へと移ってもリンネの心はもやもやと曇った。
それからしばらくグリーファやアリアから夜会についてのことを聞いてから、紅茶を振舞って終わりとなった。
管理人夫婦はリンネの紅茶とお茶受けに出したクッキーを褒めてくれたが、それをどこか上の空で返事をしてしまった。
元から表情の少ないリンネのことなのでばれていないと思っていたのに、夫婦が帰りに着いたあと残ったシーリントンが、にやにやと笑って二人を見送ったリンネの傍に立つ。
「どうしたの」
「……何がですか」
どこか拗ねたような声でシーリントンに答えたあと、しまったと思う。これではリンネが上の空だったと白状しているようなものだ。
「おじいさまの葬式のこと、驚いたんだろ?」
案の定言い当てられて、リンネは言葉を窮した。
参列してくれた人の顔を覚えていないなど、失礼にあたることだ。
仕方がなかったとグリーファたちは許してくれたが、それは言い訳にならない。
「仕方ないさ。……きっと旦那様もそう言う」
「……旦那様が?」
思わずシーリントンを見上げると、彼はまるで子供をあやすような優しい顔で微笑む。
「聞いてみるといい。旦那様は渋るかもしれないけど」
そう笑って、シーリントンは屋敷の中へと戻っていく。夕食に使う薪でも補充してくれるのだろう。そういうマメな男だ。
(……旦那様が、渋る?)
ジルラールは使用人に鷹揚だ。
リンネの質問には必ずといっていいほど応えてくれるし、シーリントンに対しては彼女に対してよりももっと気安く応えている。
そんな彼が応えを出し渋るかもしれないという。
だとすれば、主人の気分を害する質問はするべきではない。
(……別に聞かなくてもいいのなら)
必要のない質問ならしない方がいい。
これは甘言でも忠言でもないのだ。
どちらにとっても、益になるとも思えない。
リンネの自己満足だけなら、我慢してしまえばいい。
そう片付けて、リンネは夕食の準備に屋敷へと戻った。
リンネの小さなしこりは残ったままだったが、夜会への準備は順調に進んだ。
グリーファはきちんと助言をくれたし、時々アリアが手伝いにきてくれ、細かいことをリンネに教えもしてくれた。その仲介をシーリントンが完璧にこなしたこともあって、リンネは今までの経験と、少し学んだだけでジルラールを送りだす準備を整えることができた。
気がつけば夜会を明日に控えていた。よくも三日で馬車の手配から正装用のコートの準備まで出来たものだ。
全ての準備を整えたあと、リンネは管理人一家に木の実入りのパウンドケーキを振舞った。ブランデーで漬け込んだ木の実がほどよく甘い、リンネが得意なケーキだ。管理人一家はそれを喜んで受け取ってくれ、夕暮れには屋敷を後にしてしまった。
伯爵からは彼らとも夕食をと言われていたが、一家は久々の団欒を楽しむといって我が家へ帰っていったのだ。
そんなわけで、今夜は久々にリンネは伯爵と二人きりの食卓を作ることになった。
ジルラールは近頃忙しく、夕食を食べたあとも書斎に籠って夜遅くまで仕事をしていた。どうやら領地での仕事と皇都での仕事が重なっていたらしい。そのうえいつもの招待状への返事を書かなくてはならない。そのため、ここのところはシーリントンが泊まり込んでジルラールの仕事の手伝いをするということもしばしばだった。
「こんなに静かなものだったかな」
メインの鴨肉を食べ終えてからジルラールがそんなことを溢す。
忙しい時はジルラールが夕食を終えてからシーリントンがリンネと夕食をとっていた。
シーリントンはジルラールの話相手も務めるから、夕食は彼らの話をリンネが静かに聞いていることが多かった。
にぎにぎしいというわけではないが、この静かな食卓が普通だったカントリーハウスに居る頃が今ではどこか遠い。
「……シーリントンさんは楽しい方ですからね」
そう言いながらリンネが久しぶりに開けたワインを注ぐと、ジルラールはじっとその水面を見つめる。
「……まぁ、悪い男ではないよ。あの病気は酷いものだけどね。グリーファそっくりだろう?」
「ええ、まぁ…」
分裂して出来た子だと言われても納得できそうなほどそっくりな親子である。
「アリアさんが居てくれて助かりました」
「アリアには僕も頭が上がらないよ」
苦笑したジルラールを何だか久しぶりに見る気がして、リンネは我知らずほっとするような心地になった。貴公子の顔でも、領主の顔でもないジルラールの表情を見るのは久しぶりのような気がしたからだ。
「……良かった」
リンネを見遣ってジルラールがそんなことを言うので、不思議に思って見返すと、
「本当はね。少し心配していたんだ」
ワイングラスを手にして、ゆっくりと水面を揺らし、ジルラールは優しく目元を綻ばせた。
「突然、君を皇都へ連れてきてしまったからね。ハウスリングが恋しくなってしまうんじゃないかと思ってたんだ」
何を馬鹿なことを。
リンネは以前の奉公先では皇都近くの屋敷で働いていたので、都会に怯えることはない。どちらかといえば、ハウスリングの田舎よりも懐かしいほどだ。
「僕は早く帰りたいよ。ハウスリングに。君と二人で暮らしているあの家に」
彼女の不審そうな顔を見上げてまた笑うと、ジルラールはワインを口に含んだ。深く赤いワインがどこか嘲笑うような色をしていて、リンネは訳もなく少しだけ不安になった。
翌日は朝からシーリントンとアリアが駆けつけてくれ、三人で夜会への準備を整えた。今夜はシーリントンがリンネと交代で留守番をする。
午後のお茶の時間を過ごしてからジルラールに正装を着せ、夕方の時間ぴったりにやってきた馬車へと送り出す。
「じゃあ、行ってくるよ」
そう三人を振り返ったジルラールは、リンネの知るどの伯爵でもなかった。
いつもは猫の尻尾のように一つにまとめてある銀の髪が丁寧に三つ編みにされ、肩口に流れている。髪色に合わせたコートとベストは銀鼠。そしてタイは昨夜ジルラールが飲んでいたような赤ワイン色。古めかしい片眼鏡は切れ長の瞳をどこか神経質そうにも見せたが、少しだけ甘く微笑めば印象はコバルトブルーの瞳はがらりと華やかになった。
最後に長い指を白手袋で包んだ姿は、煌びやかであろう社交界でも目を惹く貴公子となっていた。
リンネの知らないジルラールだ。
見知らぬ背中を見送って、リンネは少しだけ小さく息をついた。
(変な気分だわ)
彼は正真正銘ジルラールだというのに、遠く、去っていく知らない背中が伯爵をどこかへ連れ去ってしまうような。
――その夜、ジルラールは夜半を過ぎてから帰ってきた。
馬車に、見知らぬ女性を乗せて。




