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アップルパイの日

 春が華やかに深まりを見せるにつれ、皇都にあるハウスリングの屋敷も華やぐ……といったことはなかった。

 

 実質的な日々の生活は領地に居る時と変わらない。

 リンネは変わらず屋敷の手入れや日々の生活における家事全般を一人でこなし、ジルラールは舞い込んでくる夜会の招待状への返事を書き続けていた。皇都へ入ってからは領地に居た時の倍の量はあるので、ジルラールが瀟洒な書斎から出てくるのは稀だ。

 

(街中とは思えない静かさだわ)


 使われていない部屋の掃除をして回りながら、リンネはふと庭へと目をやる。

 領地にある庭はほとんど敷地と一体化していて、昔はあったというバラなど藪に飲まれて消えているが、この屋敷の庭は手入れが行き届いている。

 そう広くはないが、春の花が整然と居並ぶ庭には手入れする者の誇りさえ満ちている気がする。

 都会でありながら花から花へふわふわと蝶の舞う様子は長閑なものである。

   

 客室をようやく掃除し終えて廊下へ出ると、お仕着せをまとった管理人が軽く手を挙げ微笑んだ。


「やぁ、リンネ。今日も綺麗だね」


「……あなたも変わらず軽薄ですね。シーリントンさん」


「君は真面目なところも可愛いよ」とうそぶきながらシーリントンはリンネと一緒に廊下を歩きだす。


 領地と少し違うといえば、シーリントンが居ることだろうか。

 彼は食糧の調達から馬の手入れまでこなし、たまに庭師の真似事までするというから本当に器用な男だ。

 リンネの出来なかった男の仕事をほとんど引き受けてくれるので、ジルラールの手を煩わせなくて済む。


「今日はリンゴと砂糖を仕入れてきたんだ。何か作れる?」


 うきうきと大の男が言うので、リンネは呆れて溜息をつく。


「……わかりました。アップルパイですね」


 ここ数日で分かってしまったことだが、このシーリントンは大の甘党らしく、よく甘いものを仕入れてくる。リンネが少しだけだがお菓子を作れると知ると、材料を持ってくるようになったのだ。


(まぁ……朝から籠りきりだものね)


 今日も大量の招待状が届いたので、ジルラールは朝食を終えてからずっと書斎に籠りきりだ。昼食も手紙を書く片手間に取ったので、そろそろ小腹も空く頃だろう。


 そう思い直して、やたらと嬉しがるシーリントンを後目にリンネは台所へと向かうのだった。


 アップルパイを作るのはリンゴを煮るのが手間だが、パイ生地は昨日ミートパイを作った残りがある。今日の夕食にパイ包みでも作ろうと思っていたので、使ってしまうのはやぶさかではない。


 リンネがお菓子を作りに台所に立っている間中、シーリントンは落ち着かないようであれやこれやと手伝いを申し出てくる。お仕着せが汚れるだろうといくら断っても何か手伝うというので、彼が慣れているというのでかまどで何か焼く時には任せることにしている。

  

「こんな感じでどうかな」


 今日もアップルパイの出来をリンネに見せてくれるので、照りよく仕上がったパリパリの生地を確かめて頷く。


「ああ、美味しそうだなぁ」


 シーリントンのような三十路も越えた男がうっとりとした顔で言うのでリンネは少し距離を取ってみるが、アップルパイは良い出来だ。

 溶いた卵を塗られたパイ生地は黄金色に輝いていて、ぱりぱりと見ているだけで音がしそうだ。パイの良い匂いと共に香るのは甘く似たリンゴの甘酸っぱい芳香。

 見目の良い方をジルラールへの皿に乗せ、少し形が崩れてしまった方をシーリントンの皿に盛ってやる。

 台所にも関わらず、そのままナイフを入れようとするので待ったをかける。


「これがあるともっと美味しいですよ」


 ついでに作っておいた練乳のクリームを添えるとシーリントンの鼻の下がますます伸びた。


「ああ、最高だよ!」


 少し濃く入れたミルクティーを添えてやると、彼は脇目も振らずに食べ出した。がつがつとしながらも見た目は上品に咀嚼してしまうのだから器用なものである。

 主人であるジルラールよりも先に食べてしまうのは本当は使用人に許されていないことなのだが、シーリントンの物欲しそうな顔を知っているのか、ジルラールは呆れた顔で許可したのだ。


「パイがさくさくとしててリンゴと…これは少し砕いたリンゴだね! 甘くてジャムみたいな中身がクリームとダンスして口の中でパーティが開かれてるようだ!」


 食べながら感想まで言ってくれるのでジルラールに出す前の良い目安になる。


「良いようですね。では、旦那様にもお出ししてきます」


 至福の時を過ごしているらしいシーリントンを置いて、リンネはワゴンに紅茶とアップルパイを積んで台所を後にした。


 階段の脇にワゴンを置いて、三階の書斎まで昇ると大きな溜息が聞こえてくる。どうやらジルラールがちょうど飽きた頃合いらしい。

 ノックと共に「お茶ををお持ちしました」と声をかけると「待ってたよ」と返事が返ってきた。

 盆を持ち直して部屋に入ると、書き損じと出来あがった手紙の束に埋もれた書斎でジルラールはやや疲れた顔でリンネを迎えた。


「ちょうどいいところで来てくれたよ。さっき今日の分の返事を書き終えたところなんだ」


 机の端に置かれたレターケースに積まれた束はゆうに五十を超えるだろう。

 貴族の事情はよく分からないリンネだったが、この招待状の数は少々異常に思えた。


「今日のお菓子は……アップルパイだね!」


 紅茶とアップルパイがテーブルに並ぶのを見ながらわくわくと来客用のソファまでやってくる様子はまるで子供だが、この伯爵の容姿は確かに一級品だ。

 しかし、容姿だけで社交界にこれほど招待を受けるとも思えない。


 リンネの疑問をよそに、紅茶をカップに注ぐと「ありがとう」と言うもののいそいそと口をつけ、ジルラールは疲れを吐き出すように息をついた。


「ああ、生き返る。でも体がもうがちがちだ」


「ここしばらく、ずっと書斎に籠りきりでしたから」


 領地に居るジルラールは、サンルームで昼寝をしてだらだらと過ごしてはいるが、朝から馬の世話に屋敷の修繕にと意外と体を使って立ちまわることが多い。

 リンネの知らぬ間に雨漏りのする屋根を直していたりするから、それは止めてくれと何度も言ってみたが、先々代もそのような人だったらしく、その背を見て育ったジルラールも例外に漏れることはなかったようだ。


「皇都では遠乗りもできないからなぁ。体に鉛でも溜まったみたいだよ」


 ジルラールは馬の運動も兼ねての遠乗りも好んでいたから、なおのことなのだろう。


「ですが、夜会に出れば一度や二度はダンスを踊るのではないのですか?」


 それで運動不足の解消にはならないかもしれないが、気分転換ぐらいにはなるだろうか。

 そう言いかけたリンネを遮って「ああ!」とジルラールは珍しく素っ頓狂な声を上げる。


「しまった…! ダンスがあるのか!」


 今の今まで忘れていたといった顔は見る見る内に色が悪くなり、優雅な貴公子が苦虫を潰したようになった。


「ああ、そうだよ! ダンスがあるんだ!」


 ガーデンパーティならいざ知らず、夜会にはダンスは付き物だ。

 どんな小さな身内だけのパーティでも、必ずといっていいほどダンスはついて回る。そして出席する男性は一度や二度はダンスを踊らなければ礼を失すると聞いたことがある。


「……ダンスは苦手でしたっけね。そういえば」


 いつの間にやってきたのか、アップルパイを食べ終えたらしいシーリントンが書斎の戸を返事を待たずに開けて呆れた顔をする。


「忘れ物だよ」


と、シーリントンが手にしていたのはクリーム。

 そういえば、溶けるからと別にしていたのを忘れていた。

 リンネが受け取るとシーリントンはどうしようか、と言うように視線を送ってくる。その視線の先は頭を抱えるジルラールである。

 まさか完全無欠の貴公子のように見えるジルラールが、ダンスが苦手とは。 

 リンネは一人唸っているジルラールから距離を置いてアップルパイにクリームを落とした。

 あまりにも長く悩んでいそうだったので、紅茶とアップルパイを差し出しておく。 案の定、食べ物の香りに反応したのかジルラールはおもむろに顔を上げて今度はリンネをじっと見つめてくる。


 片眼鏡の奥のコバルトブルーがやけに真剣なので、嫌な予感を感じてリンネはすぐ後ろに下がったが……行動が遅かった。


「リンネ」


 すでに何かを決めた顔でジルラールが口を開く。


「……はい」


 主人に呼ばれたからには返事をするのが使用人だ。


「ダンスの練習に付き合ってくれ」


 リンネは心の中でうんざりと溜息をついた。


 ジルラールはいつものように旨そうにアップルパイを平らげた。         いつも思うが、料理人でもないリンネの作った物をジルラールは残したことがない。使用人は少なくとも貴族なのだから舌は肥えているはずだが、彼は肉が少々焦げていたところで文句も言わない。彼がうんざりしたのは兎料理が続いた時だけだ。


「さぁ、行こうか」


 二杯目の紅茶を飲んでから、おもむろに彼はリンネに手を差し出してくる。

 白い手袋の手とにこにことしたジルラールの胡散臭い顔を見比べて、リンネは渋々頷いた。差し出された手に自分の手を重ねなかったのはせめてもの抵抗だ。


 この屋敷は客室と共にホールが二つあって、大きな方は晩餐会を開けるほど広いが今はテーブルも椅子もない。先々代の時代に取り払われてダンスルームとされてしまったらしい。

 ピアノが隅に置かれているだけのホールには晩餐会が行われていた頃の名残りか大きなシャンデリアが三つもついている。


 かつんかつんと響く足音についてホールの真ん中まで来るとジルラールはリンネを振り返る。


「……あの」


「ん?」


 覚悟を決めたリンネが見上げると、ジルラールは首を傾げる。


「私は踊れないのですが」


 貴族の子女も通う寄宿学校では確かにダンスの授業もあった。あったが、リンネは得意ではなく、どうせ使うこともないと練習をしたこともない。単位が取れるぎりぎりの点数を先生におまけでつけてもらったほどだ。


 あまり愉快ではないリンネを他所にジルラールは上機嫌に手を差し出してくる。


「そんなことはないよ」


 どこからの自信がそう言わせるのか。

 訝るリンネの後ろからぽろんとピアノが鳴る。


「伴奏はお任せください」


 いつの間にかシーリントンがピアノの前に腰かけている。ピアノも弾けるらしい。器用も度を超すと異常だ。


「さぁ、レディ。私と踊ってくださいませんか」


 珍しくジルラールはコートをきちんと着ている。今朝、リンネが選んだ少し明るい灰のコートにモスグリーンのタイ。

 恰好は普段着だが、優雅に差し出す所作は一流だ。


 ピアノが静かに曲を奏で始める。


 いち、に、さん、に、に、さん。


 三分の二拍子のワルツだ。

 一小節目はダンスを誘い、ステップを踏み出すのは二小節目から。

 

――もうすぐ一小節目が終わる。


(ええい!)


 リンネは腹を括って辛抱強く待っていたジルラールに手を重ねる。


「さ、いくよ」


 引っ張り上げられる。

 

 そんな強引さも伴って引き寄せられたというのに、リンネはふわりとジルラールの傍に立たされた。


 いち、に、さん、に、に、さん。


 軽やかなピアノのフレーズに沿って踏み出した一歩は、恐ろしく軽かった。


 いち、に、さん、に、に、さん。


 ターンをすれば、まるで風になびくようにリンネのお仕着せのスカートはふわりと翻る。きっと、夜会の正装であったならドレスが花のように広がっただろう。


(どこが、苦手なのよ!)


 ジルラールのリードはリンネが今まで経験したことのないほど自然で確実だ。

 ダンスの教師でさえ、彼には及ばないかもしれない。

 恐らくシーリントンのピアノも専門職並みの腕前だ。

 

「……うーん。やっぱり久しぶりだから鈍ってるな」


 正確なステップを踏みながら、ジルラールはやや不満そうに呟く。

 リンネが驚いて見上げると、彼は苦笑した。


「運動不足のようだ。リンネが上手く踊れていない」


「……申し訳ございません」


 リンネが下手なのは弁解のしようがない。

 だが、ジルラールは首を横に振る。


「いいや。リンネが踊れないのは僕のリードが悪いせい。ダンスの相手には一欠片も雑念を抱かせちゃ駄目だからね」                       

 雑念とはどういうことか。

 リンネの不思議そうな顔が面白かったのか、ジルラールはまるで悪戯を思いついたように微笑んだ。


「ダンスのステップの拍子を数えさせるようならまだまだ。それに」


と、言葉を切ったかと思えば彼は身を屈めてリンネの耳元へ唇を寄せる。


「他の男のことを考えさせては駄目なんだよ」


 ぞわり、と背中を何かが這い、リンネは身をよじりかけるが背にはしっかりとジルラールの手が回っている。


「旦那様!」


 逃げようもなくて思わずリンネが睨みつけると、ジルラールはあはは、とあっけらかんと笑って姿勢を戻す。

 素知らぬ様子で曲に乗る小奇麗な顔が憎たらしい。

 リンネの方は、頬が熱くても冷やすことすらままならないというのに。


 不機嫌を隠すことも出来ないでいると次第に拍子が遠のいて、頭の中で必死にめくっていたステップの教本がピアノの音色に溶けて消えていく。


 そうしていると、リンネの体はジルラールに導かれるままふんわり浮いて、そのままワルツにゆだねられた。


 まるで、雲の上でも歩いているかのようだ。



(ああ、そうか)


 

 巧みなダンスに、如才ない会話。持ち前の整った容貌に少し悪戯っぽく微笑まれれば、どんな貴夫人も悪い気はしないだろう。

 変人だが、ジルラールは間違いなく社交界でも注目される貴公子だ。

 

 領地のカントリーハウスでは見られなかった彼の貴族としての遍歴が、あぶりだしのようにダンスと共に浮き出してきたようだった。


 それは確かに、そこにあったというのに。


 いつもよりも近い距離に居る彼が、どこか遠く、届かない気がした。

 リンネがいくら手を伸ばそうとも、届かない、そんな遠くに。



 ワルツを二度ほど踊ると、大抵はへとへとになる。

 リンネの方は息が上がっていたが、ジルラールは久しぶりに体を動かしたからかすっきりとした顔で、書斎に戻っていった。


 あとで紅茶でもお持ちしようか。

 

 そんなことを考えながら台所に戻ると、アップルパイが半分だけ残してあった。

 どうやらシーリントンが気を利かせたらしい。冷めた紅茶とアップルパイを眺めて、リンネは溜息を一つ溢す。


 あのダンスを、ジルラールは夜会で披露するのだろう。

  

 パートナーの女性の手をとって。


 女性の美しい顔を想像する前に、リンネはざくりとアップルパイにフォークを突き刺す。

 さくさくとしたパイを普段よりも大きく切って、口に放り込む。

 甘酸っぱいリンゴと香ばしく仕上がったパイ生地が口の中で溶けていく。


(何を考えてるの)


 湧きあがった自分の心が分からない。

 ささくれだつような気持ちを落ち着けるように、リンネは冷めた紅茶を飲み干した。


(どうかしてるわ)


 どう間違ってもあり得ないことだ。


 あの変人とワルツを踊るのは自分だけであって欲しい、なんて。



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