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お屋敷の日

 ハウスリングという土地は、都から遠い。


 ということを、これほど実感したことはなかった。


 皇都へ行くためには、まずハウスリングの小さな港から船に一日乗らなければならない。それから隣の領地の大きな港で客船に乗り換え三日。さらに大きな街まで馬車で一日行き、大きな街で鉄道に乗り換える。この鉄道の旅が二日かかり、終点の先が皇都の端にある街である。そこから一日かけて馬車で皇都の中央にある貴族街まで辿り着いて、ようやくジルラールが所有するメインハウスに行きついた。


 あしかけ、八日の旅である。


「ようこそ、お待ちしておりました」


 長旅でくたびれたリンネと何故か楽しそうなジルラールを出迎えたのは、管理人という三十路絡みの男だった。普通にしていても何処か微笑んでお仕着せを来た男は少し短めのこげ茶色の髪を綺麗に整えていていかにも都会の垢ぬけた雰囲気を纏っている。


「久しぶり、シーリントン。グリーファはどうしたんだ?」


「お久しぶりでございます。父は今、腰を痛めておりまして」


 シーリントンと呼ばれたその男はごくごく自然な動作でジルラールのトランクを持ち、リンネの旅行鞄まで持とうとするので、リンネは疲れてはいたが固辞した。

 そんな彼女にふ、と意図の分からない笑みを向けて、シーリントンはジルラールにさっと向き直る。これはジルラールが久々の我が家の様子を何気なく見回している時のことで、抜け目のない男である。


 そんな男に連れられて案内され、リンネは改めてハウスリング邸に目を向けた。


 皇都にあってはそれほど大きくはない屋敷である。

 主人のための部屋と応接間、客間を合わせて二十ほどで、玄関もバルコニーも自領にある屋敷よりもこぢんまりとした印象だ。

 しかし手すりなどに施された細工は繊細で美しく、ハウスリングのカントリーハウスが厳格な紳士のような印象であるのに対し、鱗のような灰青の屋根をまとった貴夫人のようである。


――こうしてのんびりと屋敷を観察しているのは、部屋を用意してくると言って応接間にジルラールと共にリンネは置いて行かれてしまったからだ。

 勝手も知らない屋敷でうろうろとしていてはかえって邪魔になるからと、リンネは手持ち無沙汰のまま屋敷を観察することになってしまった。

 応接間一つ取っても調度品は優雅な曲線を描くものが多く、屋敷の印象に合わせてある。

 そんな家具の中に収まっていると、肘掛け椅子に腰かけるジルラールは見た目だけなら貴公子なので本当に絵の中にいるようだ。


「……紅茶でも、入れてまいりましょうか」


 どこか退屈そうな主人はリンネの声にようやく現実に返ってきたようで、目をぱちぱちとさせた。


「ああ……いや、今はいいよ。それより疲れただろう?」


「座ったら?」と事もなげに近くのソファを勧めてくるので、リンネはいつものように断った。使用人と同席する主人がどこにいる。


「台所ですら何処にあるのか分からないので、あとでシーリントンさんに屋敷のことを伺うことにします」


「え!」


 どこにそんな驚くことがあるのか。声を上げたジルラールは慎重に愛用の片眼鏡を直しながら少し険しい顔をする。


「屋敷の案内なら僕がするよ」


 使用人に案内を申し出る屋敷の主がどこにいる。

……いや、ここに居るが、ここは使用人が他に誰もいないハウスリングの領地ではない。

 しかしリンネはふと気付いて、


「皇都では使用人を他にお雇いになるのですよね?」


 まさか夜会に出ようかというのに、という言葉は辛うじて飲み込んだが、ジルラールはあっさりと肯いた。


「まさか」


 さすがのジルラールであっても少しぐらいの常識は持ち合わせてあったのか。

 ホッと息をついたリンネの耳を変人は容赦なく襲う。


「シーリントンとグリーファ、それから君の三人だよ」


 グリーファは腰を痛めてたんだっけ、と呟く片眼鏡の変人をリンネはじとりと睨み据えた。


 この変人に何を言っても無駄だとは分かっているが、それでもリンネは心の中で叫ばずにはいられなかった。



(この、変人貴族!)


 

 貴族がひとたび夜会に出るとなるとその屋敷は朝から上へ下への大騒ぎとなるものだ。

 主人の身支度はもちろんのこと、夜会までに食べる食事、馬車の手配、招待状の確認、留守番の確保などなど、主人の要望に合わせて雑用は山のように出てくる。

 夜会で出て行っている間こそのんびり出来るが、いつ帰ってくるか分からない主人の帰りを待っていなければならないのだ。大抵が寝ずの番となる。


(それが、三人ですって…!?)


 ジルラールは男なので、女主人ほど身支度に時間はかからないはずだが、それでもリンネの仕事が減るわけではない。

 それにグリーファという古参の一人は動けないらしい。

  

――いったいどうやって切り盛りしていたのですか。おじいさま。


 リンネが半ば途方に暮れた頃、シーリントンがジルラールとリンネを迎えに応接間に戻ってきたのだった。



 しかし呆けたままではいられないのが、ハウスリング家であるらしい。


「……これはいったいどういうことでしょうか」


 呻いたリンネをシーリントンはチョコレート色の瞳を瞬かせて見遣る。


「見ての通り、寝室だけれど」


 それは間違いない。他にも書斎や応接間、衣装部屋まであったのだから。

 春に咲く花々をあしらった調度品は白と青を基調としていて、品よく主を迎えることだろう。

 この目の前に鎮座する天蓋付きのベッドでさえ豪奢でありながら、きっと寝心地は良いのだろう。


「――もしかして、こちらにお客様がお泊りの予定があるのですか?」


 リンネに女性の客人の世話をさせたいというのなら、今の今までシーリントンが丁寧に部屋の案内をしてくれたのも頷ける話だった。


「いや、君の部屋だよ」


「部屋を変えてください。お願いします」


 間髪入れずに返したリンネに、シーリントンは困ったように眉を歪めた。


「これ以上、上等な部屋は無いんだよ?」


「使用人の部屋で結構です!」


 ジルラールの部屋と同じ階に案内された時からおかしいとは思っていた。

 この豪華な部屋はジルラールの部屋の向かいだ。

 どうやら屋敷を案内してくれるらしいと早合点したリンネが悪いのか。


 眩暈をこらえてリンネは不思議そうなシーリントンを睨む。


「……申し遅れましたが、私はハウスリング領のカントリーハウスに雇われた使用人です。掃除から料理まで全般をお世話しております」


「知ってるよ。だからこの部屋を案内したんだけど…」


「気に入らない?」とお伺いまで立てるものだから、リンネはとうとう溜息をついた。主と同じでこのシーリントンの頭のネジもどこか外れているらしい。 


「とにかく私は出来れば台所に近い部屋に。あとであなたの部屋も教えてください」


「ええ? 早速お誘い?」


 どこまでも軽い調子の管理人を胡乱に見上げると「分かったよ」と彼はようやく頷く。


「残念ながら、俺はこの屋敷には住んでいないんだ。毎日通いはするけどね」


 そう言いながらシーリントンはリンネと共に貴夫人の部屋から出て、手入れの行き届いた廊下で苦笑する。あまりにも自然にエスコートするので、リンネは文句を言い忘れたほどだ。このシーリントンという男、異常なほど女性の扱いに長けている。


「どうせこの屋敷には君とご主人さま以外居ないんだから、好きな部屋に泊まればいいよ。手入れは親父が完璧にしていたしね」


「お父様…グリーファさんにお会いすることは出来ますか? 夜会のことのお話も伺いたいですし」


「本当に真面目だなぁ」とシーリントンは人懐こい顔で笑い、


「君みたいな可愛い女の子なら親父も大歓迎。ただ、まだ腰が治ってないから調子のいい時に屋敷まで連れてくるよ」

 

「ありがとうございます」


「お礼はキスでいいよ」


「今度、紅茶の一杯でも入れて差し上げますね」


 取りつく島もないとシーリントンが再び苦笑いしたところで、コンコンと鳴る。


「――紅茶は僕が先だ」


 いつの間にか開いた向かいのドアにもたれかかり、ジルラールが珍しく不機嫌そうに立っていた。


 ジルラールは旅行用にと着ていたオーバーコートを脱ぎ、今朝選んだはずのコートをすでに脱いでいる。リンネの選んだ名残といえば、すでにタイだけだった。相変わらずコートの選びがいのない主人である。

 リンネの少し呆れた視線にも慣れたのか、不機嫌なままシーリントンに固い口調で言う。


「君はもう戻ってグリーファに僕が着いたことを知らせてくれ。あとはリンネに任せるから」


「しかし…」


 シーリントンは不審そうに少しだけ眉をしかめたが、すぐに元の軽薄そうな笑みに戻った。今度はからかうような色がある。


「かしこまりました。では、また明日参ります」


 そう言って去り際にリンネに微笑みかけるのも忘れない。


 まさか初対面で冷たい視線を投げることもできないので、リンネは小さく会釈してシーリントンの優雅な背中を見送った。女ったらしは明白だが、その足運びは静かで完璧だ。きっと性格さえ治せばどこの家でも重宝される有能な執事となるだろう。

 思えば先ほど案内された部屋も完璧に整えられていた。


「……シーリントンのことは気にしないで。女の子に誘いをかけなければ死んでしまう病気のようなものだから」


 溜息混じりのジルラールに、リンネは「なるほど」と思わず頷いた。酷い例えだがきっと正鵠を射ている。


「でも」とドアを放れたジルラールはリンネに向かって苦笑する。


「本当にこの部屋使わないの? 別に部屋は空いてるんだし使っていいんだけど」


 ジルラールが指すのはリンネの後ろにある貴夫人の部屋。

 リンネは再び眩暈がするような気分で息をついた。


「……シーリントンさんにも言いましたが、使用人部屋をください。なるべく台所に近いような」


 リンネの言い分にジルラールは拗ねるように目を細めた。


「ここなら僕の部屋が近い」


 それはそうだろう。

 主の部屋がジルラールの部屋なら、貴夫人の部屋はきっと奥方のための部屋だ。

 そんな部屋に一介の使用人が泊まれるはずもない。


「旦那様のお部屋が近くとも、お世話をするにはここは何もかもから遠すぎます。私に何もするなと仰せですか」


 使用人としてはリンネは不遜な態度だったが、彼女に仕事をさせないのなら今しがたシーリントンを追いだした理由にならない。

 正論にジルラールは顔をしかめた。怒ったというより叱られた子供のように「分かった」と応えて、リンネを台所に近い部屋へと案内してくれる。

 その部屋というのも、まるで客室かと思われるほど整ったものだったのだが。


 このハウスリングという家は、リンネにとってつくづく常識を試される場であるようだ。    



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