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ポンプの日

 記憶をたどった秋が過ぎ、雪に閉ざされた冬を越えると温かな日差しが舞い込んでくる。

 昼でも締め切っていた鎧戸を開けられるようになってくると、雪はすでに融けている。

 森に鮮やかな緑がちらほらと見かけられるようになった頃、美しき田舎領主は例にもれず突飛なことを言いだした。


「ポンプをつけよう!」


 ポンプとは、水を汲み上げる装置で、井戸から桶で汲みあげるよりも数倍早く水を手にできるというものだ。

 田舎では稀なその装置をいち早く伯爵宅で設置してみて、使い勝手が良いようなら領民にも薦めてみようという。

 

 先日、一泊してきた皇都ですでに技術者と話をつけてきたらしく、ジルラールは意気揚々とリンネに話して聞かせたというわけである。


 皇都に近い町ならば、ポンプは珍しいものではない。金持ちの集まる街では成功した商人などがこぞって屋敷の井戸に取り付けているし、彼らの仕事のおかげで潤った町では隣近所が金を出し合って共用の井戸に取り付けているところもある。

 しかし都から遠くなるにつれ、その普及の裾野は薄くなり、登場からしばらく経つものの長閑な田舎では未だ高嶺の花であった。


「この屋敷で取り付けるのは良いのですが、市井では少々値が張るものなのではないですか」


 田舎にわざわざ出向いてくれる技術者が少ないし、都会よりも出張費がかさむので更に高額だ。

 それに、リンネはポンプを触ったことがない。

 貴族はああいった機械を好まないので、貴族の邸宅でポンプはあまり採用されていなかったのだ。


 リンネの問いにジルラールは怒らないものの「うーん」と唸って、


「よし。技術屋と相談してみるよ」

 

 いそいそと楽しげに出かけて行った。


(……しばらく静かでいいわ)


 冬の間に溜まった埃を家具から払い落しながら、リンネはその背中を見送ったのだった。



 しかしやってきたばかりの春は、様々なものを呼び込んでくるらしい。

 ポンプの話から数日後、今度は大量の手紙が送られてくるようになった。

 すべて、夜会への招待状だ。

 

 貴族たちの春、シーズンの始まりである。


 春から夏にかけては貴族たちの社交の季節である。秋から冬にかけて仕入れた仕事の話からデビューを飾る子女たちの結婚まで、様々な駆け引きがここで行われる。貴族たちにとって秋や冬はシーズンに向けての準備期間で、彼らの一年は春から始まるといっても過言ではない。


 連日送られてくる招待状に、さすがのジルラールも書斎の机にかじりついている。

 出席するにせよ欠席するにせよ、招待状には返事を書かなければならないからだ。

    

「――本日の分をお出ししておきます」


 ジルラールがようやく書き終えた返事は実に二十におよび、十ずつを束にして郵便屋に預けてしまうことにした。どうせ今日も招待状が届くだろうから。


「あー…しばらく手紙なんか見たくないよ」


 日頃、いつ仕事をしているのか分からないほど、サンルームでゴロゴロしているジルラールだが、ここ一週間は朝から晩まで書斎に籠りきりだったのだ。だらり、とだらしなく椅子にもたれかかると猫がやるように大きく伸びをする。


「大体、夜に出かけるのは嫌いなんだよ」


 疲れているだろうと思い、持ち込んだ紅茶をリンネが入れているとジルラールがそんなことを溢す。


「ガーデンパーティもあるのではないのですか?」


 シーズンに夜も昼もない。

 昼間は庭で、夜にはホールで、というように開かれるパーティは恐ろしく多く、シーズンの貴族は春の花々を漂う蝶のように忙しい。


 リンネの疑問にジルラールは溜息のように返した。


「庭でバラも見ないで会社の株はどうのこうのと喋るだけさ。夜は夜で、軍人共の辺境話を聞くだけ。あーやだやだ」


 どうやら彼には女性を口説くという選択肢はないらしい。

 紅茶を差し出すと嬉しそうな顔をする様はまるで子供だ。

 しかし客観的に見て、ジルラールはすでに結婚して子供の一人もいていい年頃のはずだ。


(そういえば)


 リンネがこの屋敷に来てからかれこれ半年は経つが、彼が女性を連れてきたことはない。

 やってくるといえば、卵売りの婆ぐらいである。

 町でこそ娘たちに憧れられているようだが、皇都でのジルラールの評判をリンネはまったくといって知らない。

 もっとも、侍女として主人についていくレディースメイドならまだしも、リンネの仕事は屋敷の掃除が主だったので、上流階級の詳しい噂など知るはずもないのだが。     

 それからしばらく休むと言うので、リンネはジルラールを放って掃除へと戻った。やがて郵便屋が配達に来たので、ついでと今日の分の手紙を預けることにする。


「毎日、大量ですねぇ」


 まだ若い配達員はそばかすの残る頬を人懐っこく掻きながら手紙の宛先を確かめて鞄に詰める。


「でも、ご領主さまがまだここに居らっしゃるのは珍しいですね」

 

 手紙の受け取りにサインをしてそんなことを言う。


「そうなんですか?」


「ええ。いつもなら、雪が終わる頃にはもう皇都に発っておられますよ」


 ここ数日で幾分顔見知りとなった彼は、言い終えてから少しだけ「しまった」という顔をする。

 それから、このことを自分から聞いたと領主さまには言ってくれるなとリンネに言って、そそくさと屋敷を去っていってしまった。


(用意していたお茶が無駄になっちゃったわ)


 いつも町から離れているここまでご苦労だとジルラールから振舞うよう言われていたのだ。だから、裏口のドアの横に小さなテーブルとイスまで用意していたというのに。


(まぁ、仕方ないわ)


 こんな町外れにやってくるだけでも時間を取るのだ。これ以上余分に費やす暇もないのだろう。


(それにしても)


 いつもならばすでにこの屋敷に居ないとはどういうことだろうか。

 今年の冬は雪が多かったわけでも温かくなるのが早かったわけでもないらしいから、雪解けもいつも通りだというのに。


(皇都のお屋敷で何かあったのかしら)


 そんなことを思いながら、リンネは残されてしまった少し冷めたお茶を飲み干すのだった。


 今回も束となってやってきた手紙を書斎の主であるジルラールに届けると、彼はやはりうんざりとした顔になったが、一通の手紙に目を止めて、その場でペーパーナイフを手に取るとそそくさと開いた。

 いつもは「また明日」と書斎机に放り投げてしまうというのに珍しいことだと、何となく手紙を読む様子を眺めていると、ジルラールは今までにないほど早く読み終えて、その手紙も書斎机に放り投げてしまった。

 よく見れば手紙の他にカードらしきものが一緒だ。やはり今回も夜会の誘いだったようである。


「……旦那様」


 紅茶でも淹れましょうか、と言いかけたリンネをジルラールの溜息が遮った。


「ごめん、リンネ。先に謝っておく」


「……何でしょうか」


 嫌な予感しかしない。

 思わず不審気な顔になったリンネにジルラールは苦笑する。


「数日中に皇都に行かなきゃならなくなった。……あの夜会には必ず出なきゃならないんだ」


 あの、と長い指が指したのはやはり書斎机に投げたカード。

 

「分かりました。荷造りを整えておきます」


 一度夜会に出るとなると、なし崩しにひと月は皇都に居ることになる。トランクは何処にあっただろうか、と頭の中で探り始めたリンネに、ジルラールは更に続けた。


「君も用意しておいてくれ」


「私も、ですか?」


 リンネが出かける必要があるのだろうか。

 ジルラールにはリンネの他に使用人がいない。となれば、彼が留守のあいだ屋敷を守るのはリンネである。

 リンネの疑念が届いたのか、ジルラールは「ああ」と頷く。


「僕が居ない間は馬を敷地内の草原にでも放しておくから大丈夫。家はこの有様だからねぇ。金目の物なんかないから泥棒も入らないさ」


 町の自警団にも頼んでおくしね、と言って笑う。先頃の泥棒騒ぎは、伯爵の持つ証書を狙っていたようなのだが。


「屋敷の回りには夜になれば狼が出る森もあるからね。野盗も嫌がって来ないんだよ」


 ジルラールは「ね?」と笑うが、リンネは渋い顔になる。

 金目の物がないと思ってるのはジルラールだけだ。この屋敷には高価な調度品が溢れているし、彼も知らない抜け道があるかもしれない。


「……僕が心配なのは、そんな物じゃないんだよ」


 消えるような声で呟き、ジルラールは息をつく。


「とにかく、君も行くんだ。僕のコートを選んでくれなきゃ」


 そんな理由で連れ回される使用人の身にもなってほしい。

 心配事は多いが、雇用主の意見は絶対だ。リンネは渋々「わかりました」と頷いた。


 

――こうして、春の静かな日々は去り、遅ればせながら伯爵家も慌ただしいシーズンを迎えたのである。




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