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思い出の日

 ぶるる。



(……何の音だろう)


 生き物の鼻息だろうか。

 それに草の匂いがする。


 一人で使うには広すぎる使用人部屋に植物はない。

 それに草の匂いと動物の匂いがする場所ではなかったはずだ。

 薄く目を開けるとカーテン越しにしては強すぎる朝日が差し込んでいた。


―――目が覚めた。


 リンネは自分の周囲を見回して、頭を抱える。

 

 ここは、馬小屋だ。


(……やってしまった)


 伯爵が大切にしている二頭の馬がやっと起きたかというようにリンネを眺めながら飼葉の残りをもしゃもしゃと食べている。

 馬は敏感な生き物だ。きっと夜中にリンネが入り込んできて迷惑をしたことだろう。しかしさすがは伯爵の馬たちで、たまに見かける使用人の顔を覚えていたらしい。特に騒ぎたてもせず、朝までリンネに寝床を貸してくれたのだ。

 広い厩舎は馬十頭を余裕で賄えるほどの広さがあるが、今は二頭だけとなって寂しい様相だが手入れだけはされている。隙間風も少なく、リンネ自ら持ち込んだ毛布と厩舎の隅に積まれている藁に包まれていたお陰で風邪を引かず済んだようだ。


 リンネは、幼い頃からの癖がある。


 嫌なことがあると、厩舎に籠ってしまうのだ。


 人に会うことが嫌でもどうしても寂しくて、馬の居る場所に潜り込んでは一人で泣いていたことがある。

 寄宿学校には貴族の子弟の授業のために馬が居り、貴族の家には必ずといっていいほど厩舎はあるので、不自由はなかった。

 どうやらはリンネは幼い頃、馬が大好きだったらしい。

 それが両親の死によって馬を手放してしまい、自分が馬を好きだったことを忘れてもこうして厩舎にやってくる。

 

 近頃ではこの癖も治ったはずだったが。


 よっぽどのことだったのだろう。

 ジルラールに、出て行けと言われたことがリンネの中で失くしたはずの癖さえ呼び起こすほど嫌なことだったのだ。


(……これからどうしようかしら)


 すでに日は昇り、いつもならばリンネが朝食の準備をして伯爵にコートを選んでいる頃だ。

 しかし解雇を言い渡された身では何をしていいのか分からない。


(まずは荷造りかしら)


 何気なく厩舎を見回していると何だか懐かしい気分になる。

 両親を亡くしたばかりの頃はいつも何かに怯えて厩舎の馬に迷惑をかけていた。


 だが、この厩舎の作りに見覚えがあるのはなぜだろうか。


 こうして泣き疲れてぼんやりと厩舎で座り込んでいると、いつも誰かが探しに来てくれたようにも思う。

 祖父だったのかもしれない。

 けれど、記憶の片隅にあるのは祖父の厳しい声とは異なる優しい声音。


―――またここに居たんだね。僕のお姫様。


 ふざけた言葉がよく似合う、白い手袋の人。

    


 ぼんやりとした頭で厩舎の明かりとりから差し込む日差しを眺めていたリンネは、猫のように微かな足音に気付くのに遅れた。


 朝日で銀の髪を輝かせたその人は今日も優雅な姿だ。

 ただ、完璧とは言い難いベストとタイだけのとてもくだけた装いで。

 糊のきいたシャツも磨かれた靴もズボンのしわまで計算されたようだというのに、コートだけがない。

 片眼鏡の奥のコバルトブルーを面白がるようにリンネに向けて、いつものように胡散臭く微笑んだ。




「またここに居たんだね。僕のお姫様」

 


 そう、ふざけた言葉を良く透る声で紡ぐのだ。


 リンネが思わず目を見張ると、彼は呆れたように笑みを深くする。


「レディになってもまだここに逃げ込むんだね。探しやすいからいいけれどね」


 まさかまだ夢の続きかと目を瞬かせてみるが、リンネの頭はすでに寝ぼけていない。


「……あの」


 思い切ってコバルトブルーを見上げると「なぁに?」と子供を甘やかすように彼は応えた。



「……私は、まさか旦那様と昔、会っていますか?」


 まだ自分の中で確信など得ていない。

 だが、夢から抜け出してきたようなその人はあっさりと頷いた。


「うん。まだ君が小さい頃ね。学校に行けない年頃だからってしばらくこの屋敷で一緒に暮らしていたよ」


 遊びに来ていたどころの話ではないらしい。


 まだ明確に思い出せないリンネだったが、断片だけ思い出すとするすると紐がほどけるように何かが噴き出してくる。

 そう。厩舎どころか玄関ポーチも見覚えがある。


「思い出せないのも仕方がないよ。あの頃とは似ても似つかないからね。もう庭は荒れてバラも咲かないし、屋敷の中は君の見た通りだ」


 ジルラールはリンネのそばにある柱に背中を預けて厩舎をぐるりと見渡した。


「僕を思い出せないのも仕方ない。小さい頃のリンネは僕から逃げ回ってばかりだったし、僕の顔をまともに見たことがないから」


 意地悪なんかしてないよ、と彼は言うが、リンネにはその得体の知れない所が怖くて逃げていたのだ。


―――思い出せば思い出すほど、彼を苦手だったことしか思い出せない。


 初めて会った頃のジルラールは、それは美しい青年だった。 

 子供心に恐ろしい生き物だったのだ。

 無駄にきらきらしている銀の髪も、微笑みを浮かべるコバルトブルーの双眸も、綺麗な綺麗な白い手袋も、どれも自分では触れてはならないものとしか思えなかった。

 そんな、リンネにすれば化け物じみた青年が追いかけてくるのだから、小さな子供が逃げ出したところで誰が責められようか。

 それでも、ジルラールは怒るどころか逆に優しく慎重に、リンネを探し出しては厩舎から連れ出した。 

 青年というより少年といってもいいぐらいのまだ体の出来あがっていない体格であったにも関わらず、五歳前後の子供を抱き上げては庭やバルコニーに連れて行って泣きだすリンネをあやし続けたのだ。

 根気があるというより、もはや執念じみている。

 そんな恐怖体験を幼いリンネが記憶の奥底に封印したとしても、仕方のないことだ。

 

 髪をかきむしりたくなった渋面のリンネを見下ろして、元凶であるジルラールはふっと笑いをこぼした。


「いいんだよ。思い出さなくて」


 

 思い出して欲しくなかったから。 



 低く呟いた声は、彼の孤独を吐き出すようで。



 微笑みを刻んだ仮面のような顔を見つめて、リンネは口を引き結ぶ。

 自分はもう、何も言えない幼い子供ではないのだ。


 ジルラールは、リンネを自由だと言ったが、リンネの自由は働くことだ。

 自分で決めた仕事をし、自分で考えて働く。

 

 リンネはすでに決めていた。



「―――私は」


 まっすぐな声に、仮面がひび割れ、驚いたようなコバルトブルーが顔を出した。



「……私は、祖父の遺言があってあなたにご奉公しました」


 

 使用人がたった一人きりなど正気の沙汰ではない。

 掃除はいくらやっても行き届かないし、庭は雑草を刈るぐらいが関の山で整えるなど夢のまた夢。屋敷の周りは広大な森で人気はなく、街へ出たところで住民全員が顔見知りのような田舎だ。


「でも」


 人見知りのリンネを友達と呼ぶ人がいる。

 頼れる顔見知りの街の人たちがいる。


 それから、いつも見守って、リンネをからかう人がいる。



「私は、あなたに仕えたいと思ったから、今日まであなたにお仕えしてきたのです」



 片眼鏡の双眸が大きく見開いた。

 薄い唇で何か言いかけ、でも言葉を探すように再び閉じる。



「だから」



 解雇しないでほしい。


 そう言えばいいのか。

 だがそれはリンネの勝手な都合だ。

 ジルラールを取り巻く問題は思った以上に複雑で根が深い。

 時に命の危険さえあるから、リンネを急いで連れ帰るような真似をしたのだ。


 結局リンネも続きを言えなくなって、俯いて押し黙る。


 黙り込んだ彼女の代わりに、今度はジルラールが大きく溜息をついた。



「―――いいよ。やっぱり僕の負けだ」


 何の事だか分からずリンネが顔を上げると、困ったように微笑んだコバルトブルーが待ち受けていた。


「別の屋敷はあるけれど、この屋敷は古くて僕は気に入っていてね。でも一人で維持管理するのはちょっと無理がある」


「……じゃあ」


 リンネの言葉尻を掴んで、カントリーハウスの主はにっこりと微笑む。


「リンネ・ガーランド。君に僕の手伝いをしてほしい。給金は弾むよ」


 そう言って差し出された白い手袋にリンネは少し怯んだが、苦笑しながらその手に自分の手を重ねた。


「はい。よろしくお願いいたします」


 答えたリンネの手を引いて立たせると、ジルラールは満足そうに口の端を上げる。


「さっそくだけど、紅茶を入れてくれるかな。……あと、コートも選んで欲しいんだけど」


 子供が一番叶えたいわがままを言うように微笑むので、リンネはいつものように応えてやった。


「かしこまりました。旦那様」





 それから、いつものように掃除に食事の準備にと忙しく過ごしていたリンネだったが、ある日ジルラールが書斎へと彼女を呼びつけた。

 何事かとリンネが訪れると、



「……何なんですか、これは!」



 書斎机に置かれているのは美しい装飾の施された剣だ。実用的ではないそれには、実用以上の価値があった。


「現陛下の御下賜の剣に、こんなに勲章まで!」


 御下賜の剣とは、王が直々に領地を保証した領主に贈られる剣のことで、領主の中でも特に信頼が篤くなければ持つことが許されない。

 その他にも戦場で功績を上げたものに叙勲される勲章が五つも出てきた。

 


「伯爵位を証明するものなんて幾らでもあるじゃないですか!」



 いつだったか、伯爵位を証明できないとジルラールは言ったはずだ。

 当の伯爵さまは怒鳴り散らすリンネを書斎机から呆れるように見つめてくる。どうでもいいことだがどうして毎朝選ばせたコートを脱いでしまうのだろうか。今日もいつものベスト姿だ。


「今すぐには証明できないと言ったはずだよ」


 納得しきれない彼女を宥めるように彼は勲章の一つを手で弄ぶ。


「僕なんか少ない方だよ。父ですら勲章を十は持っていたんだからね」


 祖父はもっと多いよ、と言うが近頃では戦争自体が少ない。今から三十年以上前ならばあちこちで戦争は起きていたというが、ここ十年ほどで起きたといえば隣国との小競り合いだ。それも世代交代で無くなって久しい。

 ジルラールが参加した戦争も今では歴史の教科書の隅に載っている。


「まだ僕が叙勲していなかった頃は御下賜の剣を狙う者が多くてね。最近、ようやく剣や勲章を奪っても僕から財産や爵位をむしり取れないと分かったようだけど、たまに功を急ぐ使用人の一部が僕の屋敷に盗みに入る」


「物騒な時代だよねぇ」と呑気なことを言っているが、近頃巷で問題になっていることだ。物流が激しくなってきているこの時代、平民が貴族並みの財力を身につけて、中には貴族の位を戴く者さえ出てきている。そんな時代の暗部に使用人の犯罪が目立つようになってきている。昔は奉公先といえば親も同然で、貴族の方も使用人をそれは大事にしたが今は違う。互いに金で繋がる仕事関係になってきているので、貴族の方は気に入らなければ容赦なく解雇し、使用人の方では盗みや強盗まがいの罪に走る者さえ出てきた。


 苦虫を潰すような顔をしたリンネに、渦中の人はのんびりと微笑んで机で頬杖を突く。


「リンネも僕から何か欲しいかい?」


 たとえこんなからかいを寄越す主人にも寛容にならなくてはならないのだ。使用人の心の状態は推して知るべしである。

 リンネは怒りを吐き出すように息をついた。


「今日の昼食は何がよろしいかお答えください」


 模範的な解答は気に入らなかったようで、今度はジルラールが溜息をつく。


「何でもいいよ。兎以外ならね」


「かしこまりました」


 今日は豆があるから、煮込みスープでも作ろうか。


 しかし仕事に頭を切り替えたリンネの背中に忍び笑いが追いかけてくる。



「君のお願いなら何でも聞くよ。考えておいて」



 頭の堅い自覚は、ある。

 そんなリンネがお願いなど容易く出来ないことを知っているのだ。あの伯爵は。


(また厩舎に籠りたくなったわ)


 だが駄目だ。

 厩舎は居場所が知れてしまっている。

 リンネが隠れてしまったら、まず探しに来るのだろう。


 あの長い銀の髪をなびかせた、孤独で優しい変人が。



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