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別れの日

 すっかり冷えた体を癒すために温かい茶を入れ、たくさんある居間の一つにジルラールとリンネは入った。

 リンネが茶の用意を整えて戻ると、ジルラールが暖炉に火を入れ、その前に一人掛けのソファを置いて何か考え込むように目を閉じて座っていた。

 その様子を横目にリンネは紅茶を入れようとポットに手をかける。

 夜着にカーディガンを羽織っただけのリンネの手は寒さにかじかんでいて、かたかたとポットとティーカップが小さく鳴る。

 この震えが寒さのためだけかといえば嘘になるが、それでも逃げ出そうとは思わなかった。

 

 先ほど騒動の起こった物置は簡単に片付けてそのままにしてきている。

 どのみち詳しいことは朝にならなければ分からないのだ。


 今は、ジルラールの話を聞く方が先だった。


 その当人は昼間と変わらぬコート姿でソファに深く腰かけたまま、瞑目している。

 リンネが戻ってきたことに気がついているだろうが、それよりも自分の思考から抜け出せないようだった。

 彼の傍らのサイドテーブルに音を立てずに紅茶を置くと、ようやくジルラールは顔を上げた。


「―――ありがとう」


 いつものように微笑んだ彼だったが、どこか引きつって見えたのはリンネの錯覚か。

 紅茶を一口飲み息をついたジルラールはリンネに向かいのソファを勧めた。

 リンネが戸惑うと、


「話が長くなるから」


 有無を言わせず座らせた。


 リンネの困惑を見つめていたジルラールだったが、彼女が改めて向き直ると自分は暖炉へと視線を投げてしまう。

そんな彼をリンネの方も静かに見送って、自分も暖炉の火を見つめた。


 てらてらと暖炉を静かに舐める火は、思わず触れたくなるほど温かいが触れればリンネの手はたちまち爛れ、焼け落ちる。


 それは、ジルラールに似ていた。


 彼は誰もが触れたくなるような容姿と人柄を持っているが、その内面に火のような獣を飼っている。

 それは氷河のように冷たい瞳を持ち、鮮烈な雷鳴のように他者を冷酷に排除する。

 もしもそれに触れてしまったなら。


 その愚か者はためらいもなく食い殺されてしまうだろう。

「―――僕は」


 ぱちり、と薪の爆ぜる音に負けるほど静かな声で獣が口を開いた。


「僕は、ハウスリングの長男なんだ。両親は政略結婚でね。僕が生まれた後、父も母もすぐに浮気や不倫に耽ったよ」


 貴族の間ならよくある話だ。

 ジルラールも分かっているのか、表情も変えずに火を見つめている。


「そうして生まれてきたのが弟や妹だったんだけど、父は愛人を家に連れ込んでしまう人でね。それを母は嫌がって、ことごとく追い出し続けた」


 当然だったかもね、と息をついてジルラールはサイドテーブルの紅茶に口をつけた。


「でもそのたびにハウスリングの財産や使用人までも分散してしまって、とうとうその醜聞のおかげで領地まで国に没収されそうになったんだ。―――国は直轄地を欲しがっているからね。ハウスリングは田舎だけどそこそこ豊かな土地だから、いい標的になった」


 ハウスリングは由緒ある古い家柄だ。縁戚も多く、豊かな土地にあって王都から遠い。支配者から目をつけられるのは少し考えれば誰でも分かることだった。


「厳しい祖父が生きていた頃はまだ良かったんだ。祖父は一時騎士団にも居たこともあるそれはそれは逞しい人でね。国のちょっかいが来ることも分かっていたから、放蕩息子の父に見切りをつけて僕にハウスリングの当主の座を譲らせたんだ。父の方も元々当主の座にあることを疎んで放蕩三昧をやっていたみたいだから、解放された途端に家を出ていってしまったよ。僕が13の時だ」


 成年もしていないうちに当主の座を譲られることは珍しいことではないが、貴族の子弟ならば十三歳などまだ学校に通っている年齢だ。


「寄宿学校を退学してこの屋敷に戻ったのが14の時。その頃にはもう使用人は君のおじいさまのエンドランとメイドの二人だけだった。でも祖父は一人暮らしにはちょうどいいと笑っていたよ。本当に豪快な人だったな」


 先々代のことを思い出したのか、ジルラールはふっと懐かしそうに微笑んだ。だが、すぐに暖炉にくべるように笑みを消してしまう。


「思えばあの頃が一番楽しかったかもしれない。僕は祖父とエンドラン、もう一人のメイドに鍛えられて育った。僕には親が五人も居るんだよ。でも三人はもう居ない。残っているのは本当の両親だけ」


 リンネが思わず暖炉から主に目を向けると、彼もこちらを見つめていた。


「僕が当主になってからは愛人たちが利権を欲しがって色々な妨害を受けていてね。僕がどんな条件も飲まないものだから中には物騒なこともあったよ。―――だからエンドランは君のそばにずっと居られなかった」


 毎年一度だけ会う祖父はとてもリンネに厳しくて、帰郷が嫌でたまらなかったこともある。

   

「君には申し訳なかったと思ってる。両親を亡くした幼い君を、僕は自分の都合でずっと独りにしてきたんだ」


 コバルトブルーの双眸を伏せて、ジルラールは薄い唇を一度閉じ、


「……恨んでくれて構わない」


 暖炉の火に照らされる白皙の容貌は変わらず整っていたが、まるで傷を負った狼のように見えた。


 恨んで、いいのだろうか。


 彼は貴族で、リンネは使用人だ。

 貴族が職務上、使用人にどんな仕事を課そうと彼らの胸三寸だ。


 けれど、ジルラールはエンドランを親と呼んだ。

 彼はリンネの祖父を親として、家族として暮らしていた。


 リンネには縁遠い感覚だ。

 寄宿学校は常に自立することを求められたし、使用人として働き始めたらどれだけ若かろうが求められることは大人と同じだ。

 手助けはたくさんしてもらったが、一人で生きてきた。

 両親の記憶は薄く、祖父であるエンドランとは家族らしく過ごした経験もない。

 同じ家族というのなら、ジルラールの方がよほど家族らしく暮らしていただろう。

   

 それでも、ジルラールを恨んでいいのだろうか。


「赦して欲しいとは言わないよ。君を無理矢理ここへ連れてきたことも」


 どういうことかとリンネがジルラールを不審な目で見ると、彼はいつもの調子で微笑んだ。


「遅かれ早かれ、君がエンドランの孫だと知れ渡るのは時間の問題だった。エンドランは最期まで僕の傍に居た人だからね。僕の権利書や証書を狙う輩に君が狙われる可能性があった。だから、君をここへ連れてきた」


 でも、と軽やかに変人伯爵は言う。


「その問題も今夜片付いた。―――君の安全は確保できたよ。安心して次の奉公先に行くといい」


 紹介状には君のいいところをたくさん書くよ。



 奇妙なほど明るい声は暖炉の明かりの届かない暗がりに吸いこまれ、リンネを真っ暗な闇へと誘ってふわりと消えた。





 それから、どうやって返事をしたのかリンネは覚えていない。

 とにかく今夜はもうゆっくりと休むように言われるまま、部屋へ戻ってベッドに潜り込んだ。

 明かりを消した部屋は暗闇に包まれていて、目を閉じると更に深い闇が広がった。


 ただ、思い出されるのはジルラールの言葉。



―――元々、君を一時避難させるために僕の元へ呼び寄せたんだ。元の雇用主たちも承知済みだよ。


 ではなぜ、あんな破格の待遇を用意したのか。


―――君の支度金として使ってもらえればいい。僕の見込んだ通り、君は無駄使いをするような人ではないからね。


 ではもう私は……。


―――君は自由だよ。夢があるなら僕は喜んで応援するし、奉公先の心配はしなくていいよ。紹介状はちゃんと書かせてもらうから。




 長年、祖父に世話になったからといって、主人であるジルラールに孫のリンネの身の安全まで気にする必要があったのだろうか。


(いいえ)


……あったのだろう。


 そういう人だから、祖父は我が子の死の悲しみや孫との生活を捨ててまで彼に仕えていたのだ。

 今際の際までジルラールに尽くして、リンネを寄越した。



(……でも、もう私は必要ないようです。おじいさま)



 きっと、祖父はジルラールを一人にしたくなかったのだ。

 何でも一人で抱えてしまう、そんな孤独な人に孤独で居てほしくなかった。


 そしてリンネも。


(おじいさま)


 

 いつのまにか、あの変わり者の伯爵に仕えてみようと決めていたのに。







―――ゆっくりと沈んでいく意識の向こう側で、誰かが泣いている。



 それが自分だと気付くのには時間はかからなかったが、まず自分が入りこんでしまった建物の大きさに驚いた。

 巨大な玄関ポーチで取り残され、右も左も分からない。


 すると記憶よりも大きなしわだらけの手が現れ、リンネの手を引いていく。

 きちんと定規でも背に差しこんでいるようなお仕着せのコートはぴんとしていてリンネの小さな手にはなかなかつかめない。

 ようやく袖口を掴むと連れられてきた美しい庭で知らない少年が待っていた。


「さぁ、ご挨拶なさい。お前が将来にお仕えするお方だ」


 抑揚のない聞き慣れた声に促されて少年を改めて見上げると、銀髪の髪をした彼は困ったように微笑んだ。


「それは彼女が決めることだよ。エンドラン」


 そうコバルトブルーの目を直立不動の人に向け、次にリンネに視線を合わせて微笑む。


「こんにちは、小さなお嬢さん。泣いていたようだね。何か怖いことでもあったのかな?」



―――とても怖いことと悲しいことがあったの。



「そう。それは大変だったね。じゃあ、僕が楽しいことを教えてあげよう。この屋敷には楽しいこともたくさん詰まっているからね」



 差し出された白い手袋が綺麗で、差し出した人の銀色の髪も綺麗で、リンネは眩暈を起こしそうになっていた。


 そんな彼女の小さな手をそっと取って、風変りな少年はにっこりと笑う。



「まずはレディの名前を伺いたいな。僕はね―――」



 バラの美しい庭園で微笑んだその人は、こう名乗った。



 ジルラール・ド・ハウスリング、と。


             

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