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満月の日

 春から夏にかけてはシーズンと呼び、貴族にとっては社交の季節である。

 主立った貴族たちはこぞって皇都へ出かけ、煌びやかな情報戦を演じるのだ。そんな彼らが秋から冬にかけて何をするかと言えば、田舎に引きこもるのである。

 それぞれが持つ大小様々な領地には彼らのセカンドハウス、カントリーハウスがある。それは王都に持っている本宅、そして領地にあるはずの城とはまったく別のもので、郊外に建てられる別邸だ。

 気候の穏やかな王都とは違い、田舎は冬には雪深くなる土地が多いというのにわざわざ雪に囲われるように貴族たちはやってくる。

 彼らが楽しみにしているのは、田舎でしか食べられない秋の味覚と狩りであった。


「じゃあ、行ってくる」


 栗毛の精悍な馬に乗った伯爵はハンチング帽のひさしからコバルトブルーの眼差しをリンネに向けた。

 この屋敷にはリンネ以外に使用人はいないが馬は二頭居る。毎日伯爵自ら世話をしているのだ。

 温かそうな毛織のコートを着込んだ彼は、八百屋のおじさんから借り受けた人懐こい犬と共にこれから森へと向かうという。

 馬には弁当と火薬、そして銃身の長い銃が備え付けられている。


 狩りに行くのだ。


「行ってらっしゃいませ」


「今日はちょっと頑張ってくるよ。期待に応えなくてはならないしね」


 見送りに深々と礼をしたリンネにジルラールは少しだけ苦笑して馬を繰り屋敷を後にしていった。


(あまり期待はしてないんだけど)


 すっかり寒くなってきた秋の朝靄にリンネは独りごちる。

 前回も前々回も、意気揚々と出かけたジルラールは結局、森でブドウやきのこを狩って帰ってきたのだ。

 気恥ずかしそうにリンネに差し出すので、今年の新酒だといって農家から分けてもらえたワインをいつもより大めに注いでやった。

 ブドウは干しブドウになるし、きのこはシチューの良い材料だ。

 それだけでも十分だったし、街へ行けば猟師たちが売りに出す肉は手に入る。


 しかしそうも言っていられなくなってしまったのだ。


 伯爵というのに八百屋のおやじに頼まれてしまったのだ。

 そのおじさんは娘に兎の襟巻を作りたいらしいが、自分では狩りなどできないし、猟師から買おうとするとひどく吹っ掛けられたらしい。              

 おじさんの話を聞いた伯爵はそれなら自分がと言いだした。

 彼の狩りの腕前をおじさんも知っていたらしく、最初のうちは遠慮していたがジルラールのにこやかな勧めに先日頷いたらしい。

 それならせめて犬を、と可愛がっている犬を貸してくれたようだ。

 おじさんはきっと成果が無くても許してくれるだろう。


 今日はどこの部屋を掃除しようかと考えながら、リンネは屋敷へと戻った。

   


 しかし、そう時間の経たないうちに広大な屋敷の窓を拭いていると外から犬の鳴き声が聞こえてくるではないか。

 キャンキャンと急かすような犬の声は勝手口、森の方から響いてくる。

 リンネは慌てて勝手口へと急いだ。

 途中通りがった大きな振り子時計はまだ正午前を指している。


(まさか、怪我でもなさったんじゃ)


 不安で居てもたってもいられなくなって、リンネは普段なら絶対にやらない駆け足で勝手口に向かいドアを押し開けた。


 そんなリンネの前に駆けてきたのは一匹の犬。

 白と茶色の元気な犬がわんわんとリンネ目がけて走ってくる。

 まるで褒めろと言わんばかりにリンネを見上げてくるので、どうしたものかと犬が駆けてきた方を見遣ると、やがて馬の蹄の音も聞こえてきた。


「―――リンネを呼んでくれたのか。賢いじゃないか」


 まだそう高くない日の中に出てきたのは、今朝見送ったばかりの伯爵だった。

 コートどころか馬具もほとんど汚れておらず、借りてきた犬も疲れた様子がない。


「お帰りなさいませ。……随分お早いようですが」


 リンネの不審そうな顔を笑うと、ジルラールは彼女の前で馬から降りた。


「うん。もう獲ってきたからね」


「血は大丈夫?」とリンネに問いながら、伯爵は馬の腹にくくりつけた獲物を視線で指す。

 くくりつけてあるのは、確かに兎のようだ。


「この辺りの兎は毛の長い種類でね。三羽もいれば立派な襟巻になるよ」

 

 リンネが以前勤めていた貴族の屋敷で見たことのある兎よりも幾らか毛が長くてふかふかしている。


「兎を捌いたことある?」


「毛足の短いものならありますが……」


 これほど長い毛で、しかも襟巻にしたいのならリンネの腕では台無しにしてしまうかもしれない。


「じゃあ僕が捌くよ。リンネは彼に昼食を用意してあげて。兎を追ったり、リンネを呼んだりと今日はよく働いたからね」


 彼、と指されたのは八百屋の犬だ。伯爵にご馳走になると分かったのかお行儀よくワンと吠えた。


「かしこまりました」


 貴族が自分で調理など珍しいが無いことではない。狩り好きの者なら自ら捌いて焼いて食べるぐらいはするのだ。貴族の子弟なら狩りの作法と共に教え込まれる。


 それにしても、とお仕着せの足元に侍る犬の頭を撫でながら、リンネは馬小屋に馬を引っ張っていく主を見送る。


(……いくらかかったのかしら)


 リンネはきっと猟師から買い受けたのだと信じて疑わなかった。


 

 こうして兎は伯爵に無事解体され、八百屋のおじさんへと届けられた。

 おじさんは大層喜んで何度も伯爵にお礼を言い、兎の肉の半分を礼だと言ってきかないでこちらに受け取らせた。

 しかし帰り際、おじさんがリンネに近寄って耳打ちしてきた。


「……伯爵さまは、兎をどれぐらいの値で買いなさったんだろうか」


 やはり、おじさんもジルラールが狩ってきたとは信じなかったようだ。


 おじさんとリンネの疑いの目を一向に気にしない様子の伯爵だったが、時々こちらを見遣っては苦笑するので、何を考えているかはお見通しのようだった。

 それでも何も言わないので、リンネの方も兎の値段を出納帳で調べるような真似はせず、おじさんにもそれを告げなかった。

 しばらくは兎のパイなどの兎尽くしとなったので、少々ジルラールをうんざりさせる程度でこの伯爵の狩りの腕前の件は終わりとなる。


―――はずだった。


 それは幸運か不運だったのか。

 後のことを思えばジルラールの狩りの腕前について、もう少しだけリンネは考えるべきだったのだ。


 どうして彼はいつも何も持たずに帰ってくるのか。


 なぜいつも狩りに必要のないはずの実用的なサーベルを携えて行くのか。



 その答えが彼女の前に現れたのは、ある静かな夜のことだった。



 その日、リンネはなぜか物音がした気がして目が覚めた。

   

 ハウスリングの屋敷は気の遠くなるほどの部屋数と広さを備えているが、現在住んでいる人間はジルラールとリンネだけだ。

 夜ともなるとそれは一層顕著になり、ジルラールが上階の寝室に入るとリンネの住む使用人部屋のある一階はねずみの足音さえ聞こえそうなほど静まり返る。

 そのため、身じろぎすらも大きく響くので、リンネはなるべく早くに明かりを落として眠るよう心がけている。

 一人だけの使用人部屋はたった一人のメイドにはもったいないほど広いが、夜ともなると古い屋敷特有の不気味さが顔を出すのだ。

   

 だから、今夜もなるべく早くに布団へと潜り込んだリンネだったが、今夜に限って目が冴えて仕方がない。

 どことなくそわそわとしていくら寝がえりを打っても目を閉じてじっとしていても眠気はやってこなかった。

 これはいけないといつぞやもらったハーブを枕元に置いてみたり、今日拭いた窓の数を思い出してみたりとあれこれやって、ようやくリンネは眠りについた。


 その矢先のこと。



 コトリ。



 本当はもっと小さな音だったか、大きな音だったか分からない。

 ただ、リンネはどこからか物音を聞いた気がした。


 ねずみが居るのか。

 森の動物が屋敷まで来ているのか。


 リンネのまどろみを邪魔するように音は続く。



 コトリ。


 ガタリ。



 こう続いては気になって仕方ない。


 布団を被ってやり過ごすには、この屋敷は古かった。

 何かしら自分で納得する理由を見つけなければ、嫌な想像で冷や汗を掻くことになる。

 たとえば、昔住んでいた人の心残りがあるのではないか、などと考え始めれば想像は留まるところがなくなってしまう。


 リンネは渋々、だが腹に力を込めるようにランプに火をつけ、暖炉のそばに置いてある火かき棒を掴んだ。

 明かりと振り回せる物を持ったことで、気持ちはいくらか楽になる。

 寝巻代わりの薄物のワンピースの上にカーディガンを羽織って、リンネは下ろし髪のまま部屋を静かに出た。

 足も部屋履きのままなので、絨毯の上も石の廊下も衣擦れ以外に音は出ない。

 時々キィキィとランプの金具が鳴るぐらいだ。

 こうして廊下に滑り出てみると、物音は一階の奥から響いてくる。


 ガタリ。


 ゴトリ。



 部屋で聞くよりも重たい物が動く音だ。


(まさか、泥棒?)


 片田舎のカントリーハウスとはいえ由緒ある領主の屋敷である。

 どの調度品も価値は確かだし、第一この屋敷には警護する者もいない。


(……そうだったわ)


 貴族の屋敷は金目の物で溢れている。

 だから、爵位の高い貴族ならば自前で私兵を持っているし、普通の貴族は執事や従僕が身辺警護の意味も持っている。

 だが、このハウスリングにはリンネというメイドが一人きり。

 警護などできるはずもなかったのだ。


 リンネは火かき棒をぎゅっと握るとランプの明かりをそっと消した。

 戦う心得などまるで無いが、泥棒を追い払うぐらいはリンネの役目になるだろう。


 折りしも、満月の日である。


 影さえ踏んで歩けばこちらは見えず、月明かりに照らされた者はよく見える。

 近づくにつれ大きくなっていく物音は一階の物置から届くようだった。

 暗闇から目をこらせば、夕方にその前を通った時には確かに閉まっていたはずのドアが開いている。


 ごくりと喉が鳴りそうになるのをこらえて、リンネは息を殺してドアに取りついた。


 

 ガタリ。


 ゴトリ。



 カチャリ。



 物色しているというよりも、何か目的の物を探しているような物音だ。

 古いタンスを開けたり閉めたり、戸棚を開けたり閉めたり。

 この物置にある物は屋敷の中でも特に古い家具や品物ばかりだ。

 しかし、宝石の類などは一切ない。



 コトリ。



 小さな靴音を聞きつけて目をやると、暗闇に人影がある。


 あれが泥棒か。


 火かき棒一つでは驚かせることぐらいが関の山だ。

 リンネはランプを床に置いて火かき棒を両手に持つと、バッとドアを開けて大声を開けた。




「この泥棒!!」




 火かき棒を大きく振りかぶり、うまく驚いた風の人影に向かって振り下ろす!



 ブン!



 風を切ったリンネの狙いは的確だった。


 しかし。



 パシン!



 狙いが的確過ぎたためか、いとも簡単に人影は火かき棒をリンネの手ごと捕えてしまうではないか。

 腕を取られてようやくリンネは相手が男であることを知った。

 恐れてなどいられない。

 思わず湧き上がる恐怖を吐き出すように、リンネは大声を出そうと息を思い切り吸って顔を上げたが、口をついて出たのは金切り声ではなかった。



「……旦那さま?」



 月明かりに飛び出した恰好となった二人は、互いの顔を確認して目を見開いていた。

 リンネが振り下ろした火かき棒を彼女の手ごと掴んでいるのは、昼間と変わらないコート姿の銀髪の変人紳士。

 雇用主でもあるコバルトブルーの瞳はリンネの姿を目を丸くして捉え、次の瞬間はっとしたように彼女の肩を抱きかかえた。



 パン!



 乾いた音と共に何かが砕け散る。

 リンネが悲鳴を上げる前に、銀色の髪が月明かりに軌跡を描いて音の元へと飛び出していた。

   

 彼の先にはもう一つ人影がある。

 こちらへ向けているのは、拳銃だ。


 息が詰まりそうになりながらも咄嗟に身を低くしたリンネが次に見たのは、わずかな光を反射して見慣れたコートの背中が一息にサーベルを抜き放つところだった。




 ザン!




 音さえ切り裂くようなサーベルが拳銃へと振り下ろされ、当の持ち主はあっさりと凶器を手放してしまう。

 どう見ても分が悪いと悟ったのか、今度は窓に手をかけ慌てて外へと転がり出る。

 抜き身のサーベルを携えたまま、素早く拳銃を拾い上げたその人は迷いもなく侵入者へと銃口を向けた。




 パン!




 銃声の後に続いて庭を覗くと逃げて行く人影は片腕をだらりと垂らしたまま走り去っていく。

 森へと続く暗がりへと人影が吸い込まれていくと、ようやく銃口は下げられ、誰ともつかない溜息が洩れた。

 サーベルが静かに鞘に収められていくのを床に座り込んだまま見上げ、リンネはどこか夢見心地で鈍色の刃を見送った。

 きちんと鞘に収まりサーベルが彼の愛用品に戻った様子を眺めていると、彼もまた彼女の様子を注意深く観察しながら、手に持っていた拳銃を慎重に手近な化粧タンスの上に置く。

 リンネの心まで見逃すまいとするようなコバルトブルーの双眸にいつもの微笑みはなかったが、静かな瞳は物悲しく見えた。

 静かに見下ろされてリンネはようやく頭の中に言葉を取り戻す。


 あの人影をどうして撃ったのか。

 どうしてこの物置に居るのか。


 それから、


「……旦那様は、いったい何者なのですか?」



 サーベルと拳銃を扱い、いとも簡単に人を傷つけた彼は長閑な領地を治める伯爵とはあまりにもかけ離れている。

 いつもカウチで昼寝をしていたのは、猫ではなくこんな猛獣のような気配の人だったのだろうか。

 月明かりを浴びても昼間と変わらぬ姿をしているというのに、銀の髪は刃のように見え、コバルトブルーの双眸は冷たい氷河を見るようだ。

 目を合わせているだけで、リンネは凍えるような不安を覚えた。


 彼女の顔が曇っていくのを見守っていた彼だったが、やがて深く溜息をつき、氷を溶かすようにいつもの笑みを浮かべた。


「僕の名前は、ちゃんとジルラール・ド・ハウスリングだよ」


 そう言って、いつもように貴族らしくなくメイドのリンネに手を差し出してくる。


「―――どこから話そうか」



 月明かりに照らされながら、困ったようにも見える微笑みと手袋に包まれた手をリンネは見つめた。

 

(いったいどうして、あなたは仕えていたの。おじいさま)


 この困り顔で猛獣のような、孤独な人に。



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