届かない日
リンネに幼い頃の記憶は少ない。
それはわずか五歳にして両親を失ってしまったからでもあったし、それからの祖父との暮らしとも言えない、家族と呼べるものと離れた生活は、リンネに温かな家庭の記憶そのものを薄れさせていた。
それでも、ほんの少しだけ思い出は、ある。
亡くなった両親が、リンネの誕生日を祝ってくれたこと。
それから、祖父がリンネを連れて出かけたこと。
これは、まだ両親が亡くなってすぐのことだったから、よく覚えている。
そのお出かけはリンネが寮に入るまでのあいだ十数回に及んだが、リンネはその場所をよく覚えていない。
ただ、広い庭と大きな屋敷があったので、それは貴族の邸宅だったかもしれない。
しかし、厳格で仕事にいっさいの妥協を許さなかったエンドランが、物心のついたリンネを自分の仕事場、つまりは雇い主である貴族の屋敷へ連れていくことはなかった。
彼の住居は常に貴族の屋敷だったが、たまの休みに里帰りするリンネを迎えたのは、普段は使われないリンネとその両親が住んだ家だった。
夏休みや冬休みは郊外のさらに果てにあるその小さな家で数日を過ごす。そこでエンドランはリンネを文字通りしつけた。メイドとして必要なことから、学校でもこうまでしないというほどの勉強、果ては貴族が学ぶようなマナーまで。
何でも出来なければ生きていけない。
そう言って、エンドランはリンネを誰よりも厳しく教育し、彼女が学校を卒業する頃には彼女に最初の奉公先を用意した。
その頃に、ようやくリンネはエンドランが名門貴族に仕えていることを知ったが、結局、彼は亡くなるまで自分の居場所を孫娘に明かすことはなかった。
それは、本当に不自然なほど。
リンネは祖父に近況報告として手紙を書いていたが、送り先は休暇にしか利用しない古い我が家宛。それ以外の連絡先は一切知らされず、リンネのこれまでの雇い主はいずれも祖父の代わりに彼女の後見人となっていた。
リンネは、自分のこの環境を疑問に思ったことがなかった。
遠い地だが、戦争もある。戦場でなくとも、身寄りのない者は大勢いる。
そんな者たちの後見人を貴族が務めることはさして珍しいことではなく、親元を離れて暮らすことなど、奉公人の誰もがそうだった。
だから、さして疑問に思わなかったのだ。
これまで。
「じゃあ、リンネさんは実はとても良いおうちのお嬢様なのね」
今ではすっかり顔見知りになった、雑貨屋の娘の何気ない言葉を聞くまで。
下ろしたままの亜麻色の緩いカーブを描く髪を指でくるくると巻きながら、彼女は続けた。
「だって、私たちみたいな庶民が一軒家を持つなんてできないもの」
そう、出来ないのだ。普通の庶民には。
家を建てるという行為は、それだけで金持ちの象徴だ。
貴族は先祖代々の土地から、商人は自らで成した財産から、大工や設計技師を集めて家を作ることが出来る。
しかし庶民ではそうはいかない。
ほとんどの者がその日その日に食べるために稼いで暮らしているというのに、貯蓄などなかなか出来るものではない。
だから、商人や貴族の財産となっている長屋などを借りて住むのが一般的で。
「どうしたの?」
「……何でもないわ」
リンネと同年代だという雑貨屋の娘、ミリーゼは首を振ったリンネを不思議そうに見遣ったが、やがて雑貨屋のカウンター越しに伯爵の噂話へと話題は移っていった。
伯爵にどこそこの娘が声をかけられたという他愛もない話を聞きながら、リンネは自分の置かれていた少し特殊な環境を思い返していた。
ミリーゼは、リンネにとってほとんど初めて会う人種だ。学校へ通っていた頃は、周りのほとんどが貴族か商家の子供で、奉公へ出れば言葉を交わすのは奉公人だ。
彼らは自分の人生の大半を自分の家のことや主人に縛られていたので、ミリーゼのように親元で守られて、リンネから見ればきままな暮らしをしているような娘と話す機会はほとんど無かったのだ。
仕事以外で社交的ではない方のリンネの交友関係が限られていたから尚更だった。
「じゃあ、領主さまによろしくね」
自分の話をひとしきり話し終えると、ミリーゼはリンネを解放する。
まるで突き放すような行動だが、不思議と嫌味がない。
ミリーゼは不思議な少女だった。
ジルラールに憧れているというのに、常にそばに控えるリンネに嫉妬するということがない。
自分の聞いた噂話や、町で起こったささいなことをリンネに聞かせ、リンネから伯爵の日常を垣間見るだけで満足しているようなのだ。
どんな身分でも娘という生き物は時に驚くほど嫉妬深いということを経験で知っているリンネは、彼女の純粋な憧憬が奇妙に見えた。
彼女にすれば、伯爵もリンネもまるで舞台の上の役者のようなものなのかもしれない。
ミリーゼのはしゃぎようは、どことなく珍しい生き物を見つけた時の様子に似ている。
雑貨屋を出て町に出ても、やはりここはのんびりとした空気が漂っていて、二度目の休暇となるリンネだが未だ何となく馴染めないでいた。
リンネは、今まで忙しい社交シーズンに駆り出されるために王都に近い街で暮らすことが多かった。
だから、このハウスリングのような田舎町には単純に説明できない違和感のようなものを拭えないでいる。
だが、町の人間にはあまり伝わらないようで、リンネは行く先々で挨拶をもらい、伯爵によろしくと伝えられる。
領主であるジルラールに連なる唯一のメイドだからということもあるのだろうが、町の人の言葉に媚びはなかった。
リンネを受け入れようとする人たちが居るからこそ、ぎこちなさを感じるリンネも再び町に出ようと思うのかもしれなかった。
(少し寄り道しようかしら)
今日のジルラールは一人で書斎にこもっている。
いつもならば、紅茶と一緒に出す菓子はすべてリンネの手作りだが、出かけた時ぐらいは職人の手によるものを出してもいいかもしれない。
そう道を曲がりかけたリンネの腕を、ガッと何者かが掴んだ。
それだけでなく、力任せに路地裏に引っ張り込むと、そのままリンネの口にハンカチを当てた。
声をあげる間もなかったリンネは自分を抱え込もうとする腕の中でもがいたが、硬い腕は外れない。
それは、とっさのことだった。
リンネはさっとしゃがみこむ。
釣られて彼女を掴む腕が緩み、リンネは素早く立ち上がって一歩下がる。
未だ腕を捕まれたままだったが、リンネは暴漢の正体を見ることが出来た。
知らない男だ。
そのまま路地裏に溶けこみそうな暗い色の三つ揃い、中肉中背の風体だがその目は剣呑にリンネを睨んでいる。
誰だと問うたところで、男が答えるとは思えなかった。
睨み合いは分が悪い。
リンネは捕まれた自分の手首を返す。
そうして出来た隙間から無理矢理、腕を引いた。
手は外れた。
「この……!」
男は焦ったような、怒ったような顔で怒鳴り、リンネにつかみかかろうと身を乗り出してくる。
リンネは男を振り返らず走った。
大通りに出れば店もあれば人通りもある。
しかし方向が悪かったのか、路地裏の長く続く薄暗い道。
後ろから迫る男の足音は、庶民が履くような布と皮で出来た安い靴ではない。堅い皮と木を張り合わせた硬質な靴音だ。
貴族か。しかし、貴族ならば普通は人を雇う。
何のためにリンネを捕まえようとするのか。
そんな疑問がよぎったが、逃げることが先決だった。
走れば走るほど、男の靴音が近くなる。
まるで恐怖がリンネの体を針のように突き刺すようだ。
(もっと)
早く走らなければ。
しかし、リンネの足はすっかり竦んで思うようにならない。
外出用の地味なスカートを翻しながら、古びたブーツで石畳を叩く。それだけのことがひどく億劫に思えた。
ふいに、髪を何かがかすめた。
しかし、次の瞬間には確かな質量となってリンネの髪を乱暴に掴みあげる。
ぐしゃりと頭の後ろでまとめた髪が潰れる感触に震えながら、リンネは悲鳴を上げなかった。
もしかしたら、上げれば良かったのかもしれない。
「あの偽物伯爵の元に居るメイドだな?」
低い声で問われ、リンネは喉まで出かかった悲鳴を押し殺す。
リンネは答える代わりに髪をまとめていたバレッタを外した。
そうして解けた髪が散らばって流れると、再びリンネは男の手から抜け出し、そのまま再び捕まらないように髪を押さえて勢いよく走り出す。
(偽物? 旦那様が?)
確かにジルラールは胡散臭い。
年齢のよく分からない顔立ちに人を煙に巻く話し方、しかし、領主としてこの町の人々に慕われているのだ。
偽物に、そんなことが出来るだろうか。
手に持っていたはずの買い物袋はすでにない。いつの間にかどこかに落としたのか。
呼吸を苛む緊張に、リンネは泣きそうになった。
(だめよ)
泣かない。騒がない。慌てない。
ただ心で繰り返しながら路地の先に見えた光に飛び込んだ。
ドン!
何かに勢いを阻まれ、包まれる。
それが落ち着いた、よく知った匂いでリンネは力を抜いた。
男の靴音は、もう無い。
リンネが路地から抜け出たと見るや、引き返したようだ。
「大丈夫?」
そう言ってリンネを覗き込んできたのは、ミリーゼだ。
リンネが彼女の顔を見て身じろぎすると、リンネを囲んでいた腕がそれを拒むように硬くなった。
(どうして今日もコートを着ていないんだろう)
今朝、リンネは確かに彼にコルク色のコートを選んだはずだ。
それが今は同色のベストと白いシャツ姿。
シャツの腕やタイが直に頬や肩に触れて、リンネは逃げ出したくなる。
「旦那様」
大丈夫です、と言いかけて顔を上げて、リンネは思わず口を閉じた。
いつもなら優雅な印象しかないコバルトブルーの双眸が、怜悧な光を宿していたのだ。
片眼鏡の奥に広がる氷河を見たような心地になって、リンネは彼を茫然と眺めた。
(何て冷たい顔)
それは、陽の光は届かない深海のようにも見えた。
「旦那様!」
思わずリンネは叫んでいた。
このままで居ては、溺れてしまうようにも思えたのだ。
リンネの悲鳴のような声を聞いて、ようやく銀髪に縁取られた胡散臭い笑みが白い顔に戻った。
「探したよ、リンネ」
父親に配達を頼まれたミリーゼがたまたま路地裏を走るリンネを見つけ、そして町に降りてきた伯爵に知らせに行ってくれたという。
伯爵の動向がすぐに誰かの人の口に上るのだから大したものだ。
そうして、リンネが飛び出してくる路地を探して彼女を保護してくれたのだ。
「だって、いつも大人しいリンネが血相変えて走っていくんだもの。友達の様子がおかしければ、助けるのは当たり前でしょ」
友達?
思ってもみなかったことをミリーゼが笑って言うので、リンネは目を丸くする。
「やだ、私ったら一人で友達のつもりで居たの?」
今度はもっと友達を紹介するわ、と次のリンネの休みの日をミリーゼが尋ねてくるので、リンネはますます戸惑って乱れた髪もそのままに混乱した。
こんなに簡単に、友達が出来るものなのだろうか。
学校でも、奉公先でも友達というより運命共同体の仲間という方が近かった。
「甘いお菓子とお茶があれば誰だって友達になれるわ」と胸を張るミリーゼに、リンネは自分が恥ずかしくなった。
彼女は、リンネをジルラールとの接点とだけしか見ていないと思っていたのだ。
おそらくそれも過分に含まれているだろうが、幾らか話してミリーゼという娘が裏表のない素直な娘だと知っている。
「良かったね。リンネ」
傍らで少女たちのやりとりを聞いていたジルラールが胡散臭く微笑んだ。
その微笑みに、リンネの心はざわざわと波立った。
微笑みだけが彼の顔ではないことを知ってしまったからだ。
ジルラールは、その微笑みの奥に氷河を持っている。
ミリーゼとお茶会の約束を取り付けられて屋敷へ帰る途中、ジルラールはリンネが追いかけられた路地裏を探して彼女のバレッタと買い物袋を取ってきてくれた。
主人を使いに出すなどあってはならないことだが、リンネがもう要らないと言ったのをジルラールが言いくるめて取りに行ったのだ。
手元に戻った袋を開けてみると、ジャムの瓶は割れ、石鹸の袋に染み出している。
もう使いものにならない。
台無しになったジャムの瓶を眺めながら、リンネは追っ手の男の言葉を思い出す。
偽物伯爵。
あの男の言葉が気になった。
だから、何も話そうとしない斜め前を歩く主の背中に問いかける。
(あなたは、本当に伯爵?)
不意に、ジルラールがリンネを振り返った。
リンネの心の問いかけが聞こえたのか。
そうではないと分かっていても、リンネは何か問うことはできなかった。
ジルラールはいつもと変わらない。
口元にうっすら笑みを湛えたまま、手袋の指をリンネに伸ばす。
「怖い目に遭ったね」
慰めるようにそのままジルラールはリンネの髪の一房を取り、ゆっくりと撫でる。
その指先に意味が篭められているような気がして、リンネは手袋の指を目で追った。
「ここから、逃げたいかい?」
静かな声だというのに、ジルラールの声はリンネの耳によく響いた。
逃げる?
何から。
指先から顔を上げてコバルトブルーの眼を見上げると、彼は困ったように苦笑する。
「冗談だよ」
そう言って、リンネの髪を離すと再び屋敷への道を歩き出す。
ジルラールから逃げて、困るのはリンネの方だ。
仕事も見つけられず、路頭に迷うかもしれない。
「旦那様」
メイドから呼びかけられても怒りもしない主人は、ゆっくりと肩越しに振り返る。
旦那様は、本当に、ジルラール・ド・ハウスリング伯爵なのですか。
そう尋ねられれば、どんなに楽だろうか。
言い淀むリンネを見つめていた片眼鏡の奥の眼が細められて、彼は納得したように頷く。
「僕は、正真正銘、このハウスリングを治める伯爵だよ。今、この場で証明してみせることはできないけれどね」
訊きたいことはそれだけか、と言うような顔で微笑む主人が、憎らしい。
リンネの疑問を正確に射抜く応えだった。
けれど、彼女が欲しい答えではない気がした。
逃げ出したい?
今、この場を逃げ出したいのは、リンネなのか、ジルラールなのか。
リンネには区別がつかない。
けれど、リンネが逃げ出せばきっとこの広い背中が悲しむだろう。
そういう人なのだということも、リンネはもう知っている。
何も言わないで、静かに彼女を見送ったとしても。
広い背中で揺れる銀髪を見つめながら、手を伸ばせば届きそうだと思う。
しかし、それは出来ない。
それが、リンネとジルラールの距離だった。