第20話 その殺し屋、尊さに散りかける
薔薇庭園の入口をくぐった瞬間、ふわりと甘い風が吹き、鼻腔をくすぐった。
色とりどりの薔薇が整えられた小径の先に咲き誇る。
中でもひときわ目を引くのは、紅い薔薇。陽光を受け、宝石のようにきらめいていた。
その先には、薔薇のアーチが連なる花の回廊。天蓋のように編まれた蔓の隙間から香りがこぼれ、くぐるたびに、その芳香が柔らかく移ろいでいく。
そんな中、私の隣を歩くのは銀白の髪と深紅の瞳の少年――ルベル・フォン・カルブンクルス。私の、ずっとずっと、大好きな人だ。
薔薇庭園を歩く彼の横顔は、まるで一幅の絵画のようで、その神秘的な美しさに思わず息を呑む。
(ルベルと、ふたりきり……)
そう自覚した途端に、心臓がドクンドクンと聞いたことがない速度と大きさで脈を打ち始め、頬に熱が集まる。
つい、脊椎の反射で返事をしてしまったけど、これはなかなかまずい状況なのではないだろうか。
以前の王宮での事件でもふたりきりではあったけど、あの時は緊急事態で、彼を助けたい一心でそれどころじゃなかった。
でも、今は違う。落ち着いていて、安全で、そして隣にはルベルが居る。自覚しない方が難しい。
余裕がある分、逆に緊張するってどういうことなの!? と我ながら思うが、彼の横顔を見るたびに、嬉しさと気恥ずかしさで、どうにかなってしまいそうだった。
こんな時、どんな顔をすればいいのか、何を話せばいいのか全く浮かんでこない。
今にも頭を抱えて蹲ってしまいそうな気持ちで、項垂れて歩いていると、
「……サフィラ?」
ふいにルベルから名前を呼ばれて、心臓が口から出そうなくらい跳ね上がった。
「ひゃ、ひゃい!!!!」
間抜けな声が口から飛び出してしまって、すぐさま顔が熱くなる。
恥ずかし過ぎて、穴があったら入りたい。でもここには薔薇しかない。棘が刺さるし、絶対に痛い。
そんな私とは裏腹に、ルベルの表情はずっと穏やかで、どこまでも柔らかかった。まるで春の陽だまりのような微笑みに、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
「もしかして、疲れてる? ……お昼の事件もあったしね。呼び出しちゃって、ごめんね」
申し訳なさそうに眉を下げるルベル。気遣うように語りかけてくれるその声が、心をそっと撫でるように優しくて、――思わず息が詰まった。そして、気持ちが抑えられず、
「っ、ちちちちちち……違うんです!!!!」
またしても、声が裏返った。慌てて息を吸い直す。
「その……殿下に会えるのが嬉しくて、緊張してて……あっ」
急いで口元を押さえたけれど、言ってしまってからではもう遅い。漏れた本音を自覚すればするほど、口の中はカラカラに乾いて、視線のやり場がなくなっていく。
……どうして、こういう時だけ言葉が滑ってしまうんだろう。余計なことを言った気がして、急速に後悔が押し寄せてくる。流石に引かれたよね…?
恐る恐るルベルの顔を覗くと、彼は少し驚いたように目を丸くしていたが――
「あはは……よかった」
ふふっと、小さく、控えめに微笑んだ。
そして、大きな瞳でこちらをまっすぐ見つめながら、雪のように真っ白い睫毛をパシパシと瞬かせて、言葉を続けた。
「あのね、実は僕もなんだ。サフィラに会えるのが嬉しくて、楽しみで……ずっと緊張してたんだよ。昨日だって、全然眠れなかったんだ。一緒だね?」
瞬間、すべてが静止した。
恥じらうルベルの横顔。頬に射す紅。
その言葉と同時に、胸の奥で光が音を立てて弾けた。これは、ときめきの――超新星。
私の胸の奥にあった恒星が、炎を上げ、燃え盛る。
熱く、激しく、それでいて、やわらかくて、あたたかくて……そして意識が溶けだし、視界が揺れそうになった瞬間、私は咄嗟に心の中で叫んだ。
(あっっっぶな!!!! 意識が飛ぶところだった……!!!!)
尊さのあまり、天に召されそうになるのをなんとか耐え、踏みとどまる。
胸の鼓動はまだ騒がしかったけれど、無理やり呼吸を整え、小さな声で言葉を返した。
「……はい。一緒、ですね」
そう言うと、ルベルはぱっと笑顔になった。
それは、朝露を浴びた花がいっせいに開いていくような、眩しさとあたたかさに満ちた笑顔で、まるで世界を照らす太陽のようだった。
ああ……私、この顔を見るために転生してきたのかもしれない。
ルベルの笑顔を見て、銀河が誕生した瞬間に立ち会ってしまったな、なんてことを考えていると――カン、カン、カン……! と、遠くから木槌を打つような音が響いてきた。
(あれ……? そういえばさっきから、近くで何か準備してるっぽいけど)
顔を上げると、庭園の向こうに設営中らしき人影がちらほらと見える。何かの飾りを運んでいるような、大道具のようなものもあるようだ。
「……あの、お祭り? の準備してるみたいですけど、近いうちに何かあるんですか?」
私が問いかけると、ルベルは一瞬だけ驚いたように目を大きく見開いた。
だが、すぐに穏やかな表情に戻り「うん、そうだね」と、小さく頷く。私に向かって言ってはいるものの、自分自身にも言い聞かせているような気配があった。
「実はね、あと一ヶ月くらいで〝緋冠祭〟っていうお祭りがあるんだ。毎年初夏から盛夏の間に行われて、輝石の女神様……カンティヤ様に豊穣と平穏を祈る大切な祝祭なんだ」
ルベルは、庭の向こうで飾りや木材を運んでいる人たちにちらりと目を向けながら、ゆっくりとした口調で語る。
「中央植物公苑は緋冠祭の主要会場で、女神様に祈りを捧げる式典も、この時計台広場で行われるんだ。平民も貴族も、それに外国からの観光客もたくさん訪れる大きなお祭りだから、毎年この時期になると準備で慌ただしくなるんだよ」
「緋冠祭……! カンティヤ様……!」
その響きに、思わず声が漏れた。聞き覚えのあるワードに、胸の奥がぴくりと反応する。
緋冠祭。それは、〈カナ∽クォ〉にも登場していたお祭りだ。
緋──つまり「赤」は、カルブンクルス王家と、輝石の女神カンティヤ様を象徴する色。
カンティヤ様とは、この大陸に輝石の恵みをもたらした女神であり、この世界の主要宗教である〈ガルティヤ教〉の主神格である。
〈ガルティヤ教〉の教えはクォーツラントを含む大陸全土に深く根付き、この世界に生きる人々の価値観や、文化にも大きな影響を及ぼしている。
カンティヤ様の神色を体現する花が薔薇であり、ここクォーツラントでは夏が盛る前の時期に『今年も綺麗な薔薇が咲きました』と、女神と王族へ花冠を捧げ、豊穣と平穏を祈る。
そんな優雅且つ、どこか神聖な空気を纏ったお祭り。それが、緋冠祭だ。
私が無意識のうちに感嘆の息を漏らしていると、それに気づいたのか、ルベルが少しだけ言いにくそうな顔をして、そっと付け加えた。
「……カルから聞いたよ。サフィラは、昔の記憶が曖昧なんだよね? 〝神聖のゆらぎ〟が原因なんだっけ」
一瞬だけ視線を落とす。だが、すぐに顔を上げて彼は続ける。
「自分の知らないことが多いのって、不安だよね。でも……全然、不思議なことじゃないと思う。ゆっくり思い出していけば、大丈夫だよ」
そう言ってくれるルベルの声はどこまでも柔らかくて、包み込んでくれているようだった。
神聖のゆらぎ。その話がルベルにも伝わっていただなんて。……やはり、〝記憶〟のこととなると、少しだけ複雑な気持ちになる。
今の私は、彼が今まで接してきたサフィラとは違う。
そのことが、まるで悪いこと……彼を騙しているみたいで、胸の奥にわずかな居心地の悪さが広がっていく。
けれども、優しい彼の気遣いを無下にはできない。
私はそっと息を吸い、小さく頷く。そして、なるべく自然な笑顔を作る。
「……お心遣い、ありがとうございます」
そう言って微笑み返すと、ルベルは、少し照れたように目を細めながら首を振った。
「お礼を言うのは、僕の方だよ。……この間は助けてくれて、本当にありがとう」




