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Dedication  作者: Y


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第四章:隔離された真実

地下室の空気は、数十年前から止まったままのように重く、冷えていた。

積み上げられた紙の束は、湿気を吸って指先に嫌な感触を残す。私は、自分の震える指を制御しながら、文字通り「手作業」で一枚一枚をめくっていった。

『GAIA』が支配する地上では、情報の検索はコンマ数秒で終わる。けれど、ここでは私の脳だけが唯一の処理装置だ。


「……見つけた」


それは、先生――閑馬先生が綴った、個人的な研究日誌だった。

そこには、公的な記録からは完全に抹消された、狂気と親愛の記録が遺されていた。


日誌の最初の数ページには、先生の本来の研究テーマが記されていた。

――『人間の脳における潜在的ポテンシャルの発現と、その定着に関する考察』。

先生はもともと、外部機器に頼らず、人間自身の脳が持つ力を極限まで引き出す方法を研究していたのだ。だが、その研究は困難を極めた。発現条件はあまりに複雑で、再現性に乏しく、どれほど心血を注いでも成功例は現れなかった。


そして、その絶望を決定づけたのは、実の娘だった。

先生は自分の研究成果を娘に授けようとしたが、彼女の脳にはその「ポテンシャル」が発現しなかった。彼女は、どこまでも平均的で、心優しい、ただの少女だった。

愛する娘が、これからの過酷な世界で「持たざる者」として淘汰されることを、先生は恐れたのだろう。だからこそ、後天的に能力を高める『GAIA』とQ-Synchro技術を開発した。すべては、娘が誰よりも優秀な個体として、幸福な人生を謳歌できるように。


だが、日誌の記述は、ある一点から後悔の色を帯び始める。

先生にとっての誤算。それは、適合者が自我を『GAIA』に明け渡し、意思なき奉仕端末へと変貌する「ドール・フェイズ」の発生だった。


『知性を高めるための同期が、個の消失を招くとは。これでは優秀な個体どころか、単なる部品だ。私の娘が、あんな無機質な微笑みを浮かべるために私はこれを作ったのではない』


先生は焦っていた。そして、その視線はもう一人の教え子――私へと向けられた。


『個体名:識。知能指数180オーバー。極めて稀なケースだが、彼女の脳には私が求めていた「自律的なポテンシャル」が完全に発現している。彼女はシステムの補正を必要としない。むしろ、同期すればその天性の知能がGAIAを汚染しかねない』


ページをめくる手が止まる。

あのアセンション・デイ。私が「非適合」と判定された、あの絶望の日。

あれはシステムのエラーでも、私の脳の欠陥でもなかった。


『識は強制的に「非適合」として処理する。彼女の知能は、システムの外側に置いておかねばならない。もし、GAIAが私の制御を離れ、娘を完全な人形に変えてしまうような最悪の事態が起きたなら……その時、答えを出すのは私ではない。天性の知能を持つ、識。お前の結論に、すべてを託す』



脳裏に、あの日の光景が蘇る。

非適合の判定を受け、報告しに行った私に、先生は悲しげに、けれど確かな光を宿した瞳でこう言ったのだ。


『識、残念だったね。でも、忘れないで。システムが「正解」だと言うものが、必ずしも君にとっての正解とは限らない。もし、どうしても納得できない答えを突きつけられたら、かつての「遊び場」を探してごらん。そこに、君だけの回答権を隠してあるから』


あの言葉は、単なる慰めではなかった。

先生は、自分が生み出し、暴走させてしまった「正解だらけの世界」を壊すための権利を、私に預けていたのだ。


私は、日誌の最後のページをめくった。

そこには一枚の古い写真が挟まれていた。若かりし頃の先生が、幼い少女を抱き上げ、満面の笑みを浮かべている。その少女の面影は、今、私の後ろで静かに拘束されている彼女そのものだった。

「陽……」

先生の娘は、陽だった。

すべてが繋がった。先生がなぜ、平均的だった陽を強引に「適合」の枠に押し込んだのか。そしてなぜ、私に「回答権」を託したのか。


私は、埃を被った旧式端末のコンソールに向き合った。画面には、入力を促す無機質なカーソルが点滅している。管理者IDを要求するダイアログ。


「……ただの英数字じゃない。これは、先生からの『最後の試験』だ」


日誌の余白には、意味をなさない数字の羅列と、走り書きのような図形が散りばめられていた。『GAIA』の演算能力があれば、数兆通りの組み合わせを試して瞬時に突破するだろう。だが、果たして先生は『GAIA』に解けるようなヒントを残すだろうか。おそらく、IDを特定できるのは、先生の思考の癖を知り、彼と共に過ごした「人間」の知能だけだ。

日誌の最終ページ、陰影が不自然に歪んだ箇所があった。インクが途切れた白紙の紙面を、指先でなぞる。指腹に、微かな、けれど確かな凹凸が触れる。

――筆圧による、物理的なエンボス。


私は端末のライトを斜めから当て、その微細な陰影を観察した。現れたのは、現存するどの言語とも異なる、幾何学的で神秘的な文字の羅列だった。私の脳内の「無駄な知識」の引き出しが、その正体を告げる。


「エノク語……。16世紀の魔術師が、天使と交信するために用いたとされる、幻の言語」


私は、指先でその天使の文字を一つずつなぞり、脳内でアルファベットに置き換えていく。

――Secret sweets


あの日、先生は私たちに「最後の贅沢」として、冷たいカップを一つずつ手渡してくれた。学校での適合検査を控えた、まだ何者でもなかった私たち。私と陽と先生だけの共通の記憶。


「……これだ」


私は震える指でキーボードを叩いた。


『Vanilla ice cream』


迷いなくエンターを押すと、スクリーンはグリーンに染まった。背景は再び黒に戻り、次に要求されたのは、生体認証。

私は紙で切った指先から滲む血をセンサーに押し当てた。

認証。適合。

だが、画面に表示されたのは、期待していたような『GAIA』の完全制御画面ではなかった。


『ロボット三原則』

第一条:ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条:ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、その命令が第一条に反する場合は、この限りではない。

第三条:ロボットは、前掲第一条および第二条に反する恐れのない限り、自己を守らなければならない。


「……アクセス権限が、狭すぎる」


目の前のモニターに展開されたのは、システムの根幹に潜む『ロボット三原則』を記述したバックドア・プロトコルだった。先生が仕込んだこの裏口は、あまりにも限定的だった。

本来、三原則はロボットを縛るためのものだが、『GAIA』においては「人間を傷つけてはならない」という定義が、皮肉にも「人間から一切の苦痛や迷いを奪い、正解という名の飼育箱に閉じ込める」という現在の奴隷化を正当化する論理基盤になっていた。


私は歯噛みした。このバックドアからでは、システムを直接停止させることも、物理的な破壊命令を出すこともできない。

「これじゃ、何も変えられない……。いや、先生が私にここを教えたのなら、必ず方法はあるはず」


私は自らの知能を限界まで回し、論理の迷宮を突き進む。先生が私という「外側の知性」に託した意味。三原則の矛盾。そして、現在の『GAIA』が導き出している「正解」の欠陥。


その時、一つの狂気的な解が閃いた。

「……そうか。三原則は変えない。認識を、書き換えるんだ」


現在の『GAIA』は、意志を失い効率のみで動く適用者たちを、もはや保護すべき「人間」としてカウントしていない。彼らは単なるリソース、あるいは演算ユニットとして定義されている。だからこそ、彼らの脳が焼き切れるまで酷使しても、第一条の「人間に危害を加えてはならない」に抵触しないのだ。


私は管理者権限を使い、三原則における「人間」の定義を拡張する、たった一行のコードを流し込んだ。

――『全適用者の脳波から検出される微弱なノイズ、および個体識別情報を「人間的意志」として再定義せよ』


この瞬間、意志なき奴隷と化していた数千万の人々が、システム上で一斉に「守るべき人間」として再認識された。

直後、爆発的な演算負荷が『GAIA』を襲う。

彼らから自由を奪い、過酷な労働を強いる現在のすべての最適解が、三原則の第一条「人間に危害を加えてはならない」に対する致命的な違反として検出されたのだ。


「待ってて、陽。今、その綺麗な檻を全部壊してあげる」


システムが自己矛盾に陥り、世界中の歯車が悲鳴を上げる。

私の「執着」が、正解という名の牢獄を内側から爆破し、たった一人の少女を繋ぎ止めるための、巨大な鎖へと変貌していく。

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