第二章:最適化される世界
学校で豪と対峙したあの日から数か月、同学年の適合者の面々は全員適用が完了し、卒業を迎えた。卒業後、1年間の就職斡旋期間を経て就業する。
卒業してからは、陽と会う口実がなくなり、会う頻度は今までになく低い。学校や施設という共通項がなければ、会うことすら難しい。隣にいることが当たり前だった陽でさえ、今は傍にいないのだ。現在の私の社交頻度はゼロに等しかった。
就職斡旋機関からの帰り、久しぶりに豪と鉢合わせした。面倒なことになると思い、迂回しようとした瞬間、豪の視線が私を捉えた。
「久しぶりだな、識」
豪の瞳からは、かつて私を苛立たせたあの粗暴な濁りが完全に消え失せていた。代わりに宿っていたのは、不気味なほどに澄み渡り、「正解」だけを冷徹に確信した計算機のような光だ。
彼はもう、私を蹴ることも、大声で怒鳴ることもなかった。
「識、そこに立っていると後続の歩行効率が0.3%低下する。右へ30センチ移動しろ。それが社会全体の利益だ」
淡々と、事務的に、彼は正論だけを吐く装置になった。適用者とは、こんなにも無感情だっただろうか。急速に違和感を覚えた。
いや、彼だけではない。適合判定を受けたであろう母校の教員、職業斡旋機関の担当者、面接担当官たちも異様に機械的だった。次々と、個人の感情を「ノイズ」として切り捨て、『GAIA』という巨大な知性に思考を委ね始めていた。
世界が、急速に「正解」だけで塗り固められていく。
その均一で白い静寂が、一番近くにいたはずの彼女をも侵食し始めたことに気づいたとき、私の心臓は氷を押し当てられたように冷たくなった。
「陽……!」
私は豪を無視し、陽の自宅に駆け込んだ。呼出し通知を入れると、陽はすんなりとドアから顔を出した。陽は適用者専用の白いデバイスを耳に装着していた。
「あ、識ちゃん。急にどうしたの。とりあえず、中に入って」
陽の瞳には、まだ、私の知っている「色」が残っていた。豪のような無機質な透明感ではなく、私と会えた喜び。
「良かった、最近、識ちゃんに会っていなくて、寂しかったの」
会えて嬉しい。陽はそう言って、甘ええるように私の袖を掴んだ。その指先の微かな震えが、彼女がまだ「人間」の側に踏みとどまっている証拠だった。
彼女はまだ侵食されていない。このまま別々の場所で過ごせば、次に会うとき、彼女はもう私の名前を呼ぶ「陽」ではなくなっているだろう。浸食を食い止めるならば、今しかない。
「陽、一緒に暮らさない?」
私の口から出たのは、縋るような思いの提案だった。
「え……?」
「斡旋期間内に、施設から融通してもらっている今の家はお互い出なきゃいけない。だから、また一緒に住もう。あの頃みたいに」
陽は一瞬、デバイスを明滅させ、それから少しだけ困ったように笑った。
「識ちゃんらしいね。……うん、そうだね。私も、識ちゃんの傍にいたいな」
私たちは同居を始めた。その言葉が『GAIA』が出した解ではなく、陽が出した答えだと信じて。
*
それからの数か月は、とても幸福で、あまりに残酷なカウントダウンの日々だった。
私たちは朝、一緒に不格好な目玉焼きを食べ、夜は施設の頃のように一つの毛布にくるまって昔話をした。
狭いアパートのベランダで、陽と安物のバニラアイスを一つのカップから分け合って食べる。
「識ちゃん、一口ちょうだい。……あ、多い! 識ちゃんのスプーン、いつも欲張りなんだから」
陽がいたずらっぽく笑って、私の鼻先に冷たいクリームをつけた。
施設の頃、消灯時間を過ぎてから二人で布団に潜り込み、分け合った安物のアイス。あの時の人工的なバニラの香りは、私たちにとって自由と共犯の象徴だった。
「あの時、先生たちに内緒で食べたアイス、美味しかったね」
「うん、バニラの味がした」
そんな他愛もない会話を交わしながら、私は陽の中に残る「人間」の部分を必死に繋ぎ留めようとした。
「識ちゃん、もし私がいなくなっても、この味だけは忘れないでね」
陽がふと漏らしたその言葉に、私は何も答えられなかった。陽は、自分が『GAIA』の波に飲まれ、個を失っていく予感に怯えていたのだ。私はただ、溶けかかったアイスの甘さを舌に刻みつけることしかできなかった。
最適化の波は容赦なく陽を飲み込んでいった。
ある日の朝、陽は私が焼いている目玉焼きを見て、呟いた。
「識ちゃん、もう少し火を弱めたほうが綺麗な目玉焼きが焼けるよ」
また別の日、昔話をしていた陽が、唐突に口を閉ざした。
「……識ちゃん、ごめんなさい。このエピソードはもう1年前に話したね。2回も話す必要はないよね」
彼女から、思い出話が一つ、また一つと削ぎ落とされていく。
感情の機微を映していた彼女の瞳は、日に日に豪と同じ「正解の光」へと塗り替えられていった。
私の目の前で、陽という人格が、『GAIA』という巨大な海に溶けて、消えていく。
そして、斡旋期間が終わる前夜。
陽は私の隣で、お手本のような上品な笑顔を完璧にトレースして微笑んだ。
「識ちゃん。私、明日からボランティアセンターで働くことになったわ。これが私の最適解みたい」
その声には、もはや私への親愛も、自分を失うことへの恐怖もなかった。
そこにあるのは、ひたすらに満足のみ。
『GAIA』に支配されるアンドロイド。ドール・フェイズの完成だった。
私は、隣で静かに眠る「陽」だった個体を見つめ、幸せだった陽との思い出を浮かべて、涙を流した。
さようなら、陽。あなたは、世界の一部になってしまったんだね。
それであなたが幸せになるなら、それでもよかった。
――でも私は、それがあなたの幸せだとは思えない。
陽の頬を愛おし気に撫で、静かな決意とともに行動を開始した。




