第8話 赤い文字
ぐったりとしたまま、誰も口を開けずにテントの中でしゃがみ込んでいた。
外では、先ほどまでの土砂降りが小雨に変わり、ぽつぽつと布地を叩く音だけが響いている。
「……漣も、連れていかれたんだよな」
洸希が小さくつぶやく。
その声は誰に向けたものでもなく、ただ絶望を吐き出すような響きだった。
「どうして……こんなことに……」
両手で顔を覆い、涙をこらえきれない遥がポツリと呟く。
「前に……森下くんが言ってたよね? この湖はいわく付きだって……」
――これ見て。と美沙はスマホの画面をみんなに見せる。
そこには、オカルト系ブログ『kiri怪異録』の記事が表示されていた。管理人は怪談ブロガーの桐山。
◇◆◇◆
『水鏡湖の闇に潜むもの』
昔は“捨て場”って呼ばれてて、行き場を失った遺体がいくつも沈められたって噂がある。
そのせいか、夜になると「水面に知らない人の顔が映った」とか「足を引っ張られた」なんて話が今でも絶えない。
実際に行ってみたけど、あそこは空気が違う。水面に映る自分の顔がふっと別人に見えた瞬間があった。……気のせいならいいけどな。
……中には「キャンプで行ったら仲間が一人いなくなった」なんて書き込みも見かけた。信じるかどうかはあなた次第。
◇◆◇◆
みんなはその画面をジッと見つめる。
「……マジかよ。そんなヤバい湖が、なんで人気キャンプ場になってんだよ」
洸希が少しイラつきながら、湖の方向へ目を向ける。
「この湖……一体なんなの!? なんで、こんな……!」
遥の震える声は次第に裏返り、嗚咽と混じり合っていく。
その叫びは、誰もが胸の奥で感じていた不安を突きつけるものだった。
だが、返す言葉を持つ者は誰ひとりいなかった。
(……いやだ。怖い。全部失いたくない……でも――)
胸の奥から込み上げてくるものを必死に押しとどめながら、遥は目を閉じる。
涙で滲む視界の向こうに、仲間たちの笑顔が浮かぶ。
その中に、ひときわ強く浮かぶのは悠真の顔。
(泣いてるだけじゃ、何も変わらない……わたしも、ちゃんと向き合わなきゃ)
悠真の存在を思い出した瞬間、胸の奥に小さな勇気が芽生ていた――
* * *
みんなが寝静まったころ、悠真はそっとテントを抜け出した。
夜空は真っ暗で、重たい雲が垂れ込め、胸を押し潰すような空気を運んでくる。
「亮、漣……そしておそらく、先輩もこの水鏡湖に――」
楽しいはずのキャンプが、こんな惨劇になるなんて。
一昨日ここに来た時、みんな笑っていたのに。
ふと、手にしたカメラで撮った写真を眺める。
液晶に浮かぶのは、無邪気に笑い合う仲間たちの姿。
胸が締めつけられるように痛む。
指が勝手にシャッターを送る。
――ピッ。
次の写真には、遥が無邪気な笑顔でこちらにポーズをとっている。
「遥……この笑顔、俺が守らなきゃ」
しばらく遥の写真を眺める。と、背後にあの立て看板がぼんやり映り込んでいた。
(――ん?)
画像をズームして、看板を拡大する。そこには――
『水に触れるな』
赤いペンキで殴り書きのように書かれた文字が、はっきりと映っていた。
「やっぱり書いてある。でも、昨日見たときは……」
首をかしげる悠真の背後から、柔らかな声がした。
「……悠真?」
振り返ると、遥がそこに立っていた。
「遥……どうしたんだ、こんな時間に」
「悠真がテント抜け出すのが見えて……少し話したかったし」
恥ずかしそうに視線を落としながらも、はっきりと口にする。
その言葉に悠真の胸が熱くなる。
「……そっか」
「なに見てたの?」
言いながら、遥は楽しそうにカメラの液晶を覗き込む。そこに自分の姿を見つけて、にやりと笑う。
「わたしを……見てたの?」
まっすぐな視線が悠真の鼓動を早くする。
「……あ、うん。こんなことになって、遥を守らなきゃなって。それに……」
「それに?」
悠真は少しためらってから、あの立て看板を指し示した。
「ここにはっきり文字が書いてあるだろ? でも昨日見たときは消えてたような気がするんだ」
「ほんとだ」
遥は目を見開き、文字をじっと見つめる。
「ちょっと見に行ってくるよ。遥は危ないから、みんなと一緒にいて」
笑顔を向け、視線をテントに送る。そんな悠真の手首を、遥はそっと握る。
「わたしも一緒にいく。悠真と……一緒にいたい」
遥は上目遣いに、恥ずかしそうに小声で言う。
――ドキッ。
胸の鼓動が一気に早まる。
(こんな時にドキドキしてどうするんだ、バカ悠真)
自分にそう突っ込みながらも、胸の中にはほんのりとした柔らかい気持ちが満ちてくる。
暗い夜のはずなのに、ふたりの周りだけがほのかに明るく見える気がした。
ザクッサクッ……
いつの間にか上がった雨のあと、小石を踏む音が夜の闇に溶け込む。
二人並んで歩き出すと、肩が自然に触れ合う距離になる。
「こうしてると安心するんだ」
囁かれ、悠真は思わず微笑んだ。
「わたしね、本当はずっと悠真に会いたかったんだよ」
――その瞬間、遥の耳元でかすかにささやく声が聞こえた気がした。
風の音……? いや、確かに誰かが呼ぶような、けれどはっきりとは聞き取れない声が混ざっていた。
背筋にぞくりとした冷たい感覚が走る。
胸の奥に小さなざわめきが生まれ、悠真の手を握る手がわずかに硬くなる。
その視線は自然と湖の方向に吸い寄せられ、何かがそこからこちらを見つめているような錯覚を覚える。
それでも遥は言葉を続ける。
「ずっと一緒にいたのに、急にあえなくなって……すごく寂しかったの。でもまたこうして会って話が出来て……」
言いながら、ニコッと笑う遥の表情は、悠真の胸を柔らかく掴む。
ドキドキドキ……
(いまここで、自分の気持ちを伝えるべき?)
悠真は隣を歩く遥の横顔を見つめる。
きっと俺たちは、同じ気持ちのはず……もう幼馴染の悠真から、ステップアップしてもいいよな。
「あ、あのさ……」
意を決し、悠真は遥を見つめながら声をかける。
その真剣な視線に、遥は一瞬ドキリとした。
でもすぐに――
「あ! あれだよね。立て看板」
わざとらしく指さし、頬をほんのり赤く染めてごまかす。
薄暗い外灯の下、木製の立て看板がひっそりと建っている。
「うん……そ、そうだね」
飲み込んだ言葉が、胸の奥に重たく沈む。
――でも、いまじゃなくてもいい。
この時間が続くなら、いつかきっと伝えられるはずだから。
二人並んで立ち、肩がわずかに触れる距離。
「やっぱり……書いてないねえ。あの文字」
そこには、写真にあったあの殴り書きの文字は消えていた。
「消したのかな?」
立て看板をぐるりと回るが、裏側にも文字はない。
悠真は持ってきたカメラの画像を再確認する。
何度見ても、そこにははっきりと文字がある。
――その時、悠真の脳裏に浮かんだのは“あの老婆”だった。
売店の入り口に掲げられていた、妙に不気味な赤い文字。
立て看板に書かれていた殴り書きと、同じ筆跡のように見えてならない。
「この間亮と売店に炭買いに行った売店の看板の文字と、似てる気がする」
「……」
「遥?」
返事のない遥を見つめる。彼女の視線がふと目の前に広がる湖の水面へと吸い寄せられた。いつもよりわずかに冷たく、深く暗い水面に、不自然な揺れが見える。
「……あれ?あそこになんか……」
小さな声が漏れた。遥の表情に微かな違和感が混ざる。肩や手の動きがぎこちなく、目は湖の奥に釘付けになっていた。
「どうした、遥?」
「ううん……なんでもない。ただ、ちょっと寒くなっただけ」
口元は笑っているのに、その目はまったく笑っていなかった。そしてその目は、まだ湖を追い続けている。
湖面を見つめる遥の目が、闇の水に吸い込まれていくように見えた。
その視線ごと、何かに囚われているようで胸がざわつく。
「大丈夫か?なんか顔色が悪いよ」
心配そうに遥の顔を覗き込む。その瞳が一瞬悠真に向けられ、ニコリを笑顔を浮かべる。
その笑顔を見て、悠真はほっと胸をなでおろした。
「……明日、みんなでばあさんのところに行ってみないか?あの売店の文字のこと、ちゃんと確認しよう」
「あ……うん、そうしよう」
そう返事する遥の視線は、ずっと湖に向かったまま。
背筋にぞくりとした冷たい感覚が走る。小さな風のような音が耳元をかすめ、遥の心をわずかにざわつかせる。まるで誰かに見られているような、湖の奥から声が届いたかのような錯覚だった。
湖の闇が、遥をじわじわと呑み込んでいくような――そんな嫌な気配が、ほんのりとまとわりついている。
二人並んで立ち、肩がわずかに触れる距離。
悠真はふと、遥の手が少し冷たく震えているのに気づいた。
「大丈夫か……?」
小さな声で尋ねると、遥は一瞬だけ視線を上げ、笑みを浮かべた。
その笑顔にほっとしつつも、悠真の胸には守らなければという強い気持ちが湧き上がる。
「遥、絶対に俺が守るから」
「悠真……ありがと。嬉しい」
やっとこうして会えたんだ。そしてこれからもずっと一緒にいるために。
――絶対に、何があっても守る。
そう決意すると同時に、悠真はそっと遥の手を自分の手でしっかりと握り返した。
暗い夜の中、二人の手の温もりが、互いの安心材料となった。
しかしその温もりに安心しきれない何かが、悠真の胸に小さなざわめきを残す。
湖面に目を向けると、波はほとんどないはずなのに、水面の一部が微かに泡立ち、わずかに光を反射して揺らめいていた。
錯覚かと思ったその瞬間、遥もその方向をじっと見つめる。
――何かが、確かにこちらを見ている。
湖の闇が、静かに、しかし確実に、二人の周囲に不穏な気配を纏わせていた。
二人はテントへと戻った。
「今夜はゆっくり休もう。明日売店に行ったあと帰ろう」
つないだ手を惜しむようにゆっくり放す。
「うん。おやすみ、悠真」
「おやすみ、遥」
優しく言葉を掛け合い、それぞれのテントへと入っていった。
そのわずか数分後――
『……ッチ、コッチ』
さっきから囁くようにかすかに聞こえる声。
(なに? 誰?)
遥は隣に寝ている美沙を起こさないよう、そっとテントを抜け出し、導かれるように水鏡湖へと急いだ。
『……コッチ、コッチ』
湖に近づくにつれ、はっきり聞こえてくる。
湖面についた遥は、夏にしては少し冷たい夜風に震えながらも、その水面を覗きこむ。静かな湖になにかがプカプカと浮かんでいる。
「さっき見たのはこれだったんだ……」
意志を持ったように、遥の前にそっと流れ着いた“それ”を、拾い上げる。
ピチャン――
音を立てて拾い上げたもの。それは一枚の写真だった。
「……これって!」
そこには優しく微笑む悠真とその隣に映る知らない女の人。
「誰? この人」
遥はその写真をじっと見つめる。心臓がひどく早鐘のように打ち、手が少し震えていることに気づく。
隣に写るその女の顔。写真をよく見ると――目が異常に見開かれ、口元がゆがんで笑っている。
そして、その口がわずかに動いた。
『ユウマ、ハ……ワタシノモノ』
「ひっ……!」
短い悲鳴を漏らし、遥は尻もちをつくように地面へ崩れ落ちた。背中に冷たい感触が伝わっても、震えは止まらない。
恐る恐る、もう一度写真を覗き込む。
そこに映る女の顔は――さっきの悍ましい相貌ではなく、穏やかで柔らかな笑みを浮かべていた。
(さ、さっきのは……気のせい?)
胸の奥がじりじりと焼けるように熱く、血流がざわめく。恐怖に押しつぶされそうなのに、なぜか抗いがたい熱が身体の奥から広がっていく。
耳元をかすめた囁きがまだ残響しているようで――風の音だったのか、それとも……
もう一度湖面を覗き込むと、月明かりに照らされた水面に、写真の女が異様なまでに鮮明に浮かび上がっていた。
その目は、逃げ場のない視線で遥を射抜く。
遥の意識は、恐怖と好奇心に引き裂かれる。身体の自由が奪われ、女の目に囚われた瞬間――冷たい何かが、心の奥底へ深く突き刺さる。
それはもう、引き抜くことのできない楔だった。
湖の闇は、静かにしかし確実に遥を呑み込み、彼女の内側から別の存在が笑みを浮かべ始めていた。




