第7話 水鏡の守護者
眠れなかった。
テントの奥で横になっていても、あの看板付近で見かけた先輩らしき人影の光景だった。
気づけば、美沙はそっと抜け出し、夜気に包まれた外へ出ていた。
焚き火の跡は、すっかり白い灰に変わっていた。
まだ熱を孕んでいるのか、ほのかに焦げた匂いが残っている。
あれほど賑やかだった夕べの名残りが、今はただの静けさに飲み込まれているのが、妙に寂しかった。
美沙はポケットから、名札を取り出した。
亮の冷たい手に握られていた、あの名札。
指先でなぞると、黒い文字が月明かりに浮かび上がる。
――これは、偶然じゃない。
きっと先輩が託したんだ。わたしに「見つけて」って。
だから川村くんの手に残していったんだ。
そう思わずにはいられなかった。
あの時、手紙に滲み出た「あ・り・が・と・う」だって、きっとそう。
先輩はわたしに、何かを伝えようとしている。
――昨夜、あの湖で見た光景。
未来の先輩と自分の姿が、胸に焼き付いて離れない。
胸の奥が熱くなる。
息が詰まるような孤独と、それを超える衝動。
――行かなきゃ。
湖に、確かめに。
美沙が立ち上がったとき、背後で小さな気配が動いた。
「……美沙?」
振り返ると、テントの入口に遥が立っていた。
寝ぼけ眼のまま、心配そうにこちらを見ている。
振り返ると、テントの入口に遥が立っていた。
寝ぼけ眼のまま、心配そうにこちらを見ている。
「どう……したの? こんな時間に」
目をこすりながら、眠そうな声がわずかに震えていた。
「湖に行ってくる!」
美沙がはっきりと言い放つと、遥は一瞬、言葉を失ったように目を見開いた。
そして、驚き混じりに小さく息を漏らした。
「え? ちょっと待って……美沙!」
その声を背に、美沙は夜気に包まれた湖へと走り出す。
足元で小石を蹴る音が、静かな湖畔に小さく響いた。
美沙は一歩、また一歩と足を前へ進める。森を抜ける道は暗く、月明かりがまばらに木の葉を照らす。
ポツ、ポツ——小さな雨粒が肩に当たり、冷たい感触が肌を刺す。夜気と相まって、いつもの森が別世界のように不気味だった。
雨は徐々に勢いを増し、滴の音が耳元で絶え間なく響く。美沙の心臓も、少しずつ早鐘を打つ。けれど胸の奥の衝動は、止めることができなかった。先輩に会いたい——その一心だけが、彼女を突き動かす。
鏡のように静かな水面は、闇と月光を映し、不思議な光を放っていた。だが、近づくにつれ、湖面がかすかに揺れ、どこか異様な存在感を漂わせる。
そしてその時——湖面の縁に、漣の影があった。
「あれ?……森下くん?」
声をかけると、漣がゆっくりと振り向いた。顔には苦悶の色が浮かんでいる。
だが、その視線の奥に、何か――漣を押さえつける力のようなものが見える。
漣は小さく抵抗しながら、美沙に右手を伸ばす。
「……安藤さんっ!」
「なにしてるの?」
少しずつ漣に近づく。さっきから降り始めた雨は、次第に勢いを増し、湖面を叩きつけるように揺らし始めた。冷たい雨粒が美沙の肌を打ち、辺りの闇に小さな水音を散りばめる。
ふと、美沙は足を止めた。いや、目の前の光景に足がすくみ、動けなくなった。
見ると、漣が何かに掴まれ、湖の奥へと引きずりこまれようとしている。
「やめろ!」
漣は必死にもがく。しかし、雨と闇の中で、その足は確実に、ズルズルと水の中へ吸い込まれていく。
黒い影が手を覆う。最初は兄の面影を残していた顔は、みるみるうちに歪み、皮膚が裂け、下の骨やすじがうっすらと透けて見える。
身体からは腐った水草のような異臭が漂い、かすかな肉の匂いが混ざる。
冷たく、骨まで震える力で漣を引き込むその手に、美沙の喉まで息が詰まった。
「オマエモ、コッチニ……」
悪霊と化し、もう人の姿をしていないその声は、かつての優しい兄の声とは似ても似つかない、冷たくねじれた響きに変わっていた。
なにこれ……夢?
美沙の目に映るのは、この世のものではなかった。
目は虚ろに闇を宿し、口は裂け、体は不自然に歪む――
まるで、心霊写真に写っている“そのもの”が、目の前に立っているかのようだった。
「きゃあっ!」
思わず息を呑み、身体が固まる。
――助けたい、でも――動けない。
「も、も……森下くんっ!」
漣の身体が、冷たい湖水に引き込まれるようにどんどん沈んでいく。
このままじゃ――連れていかれてしまう――。
――助けなきゃ。
美沙の手は震え、心臓が喉までせり上がる。
それでも恐怖を振り切り、漣の腕を強く掴む。
美沙は無我夢中で漣の腕を支え、こちら側へ戻そうとする。漣も必死に掴まれたモノを振り払おうとする。しかし、悪霊はすざましい力で漣を引きずり込む。
「くっ……安藤さん、もういい、逃げて」
「なに言ってるのよ!」
悪霊の力が凄まじく、漣を引きずる手はまるで鉄のように重い。
しかし美沙は必死で踏ん張り、全身の力を込めて引っ張った。
「絶対、離さない……っ!」
湖水が飛び散り、悪霊の叫びが耳を裂く。
目のない瞳が暗闇の中で美沙を見据え、口が裂けた異形の顔がにやりと歪む。
美沙は恐怖に押し潰されそうになりながら、それでも漣の腕のぬくもりを感じ、必死に自分の側へ引き寄せ続けた。
冷たい雨が手に降り注ぎ、腕が滑りそうになる。
それでも諦めず、爪先に力を込め、濡れた手で漣をしっかりと握りしめる。
ズルズルズル……
ぬかるんだ足場が泥状になり、美沙の足も少しずつ湖に引き込まれていく。
悪霊は完全に人の姿を失い、黒い物体の形だけが湖面に漂う。
耳に届くのは、低く歪んだ声――
『フフフ……アトチョット……』
その瞬間、ふと美沙の身体に別の力が加わった。
全身を包む温かさと確かな支え。
目を向けると、湖面の底から――すっと現れた影。
青白く、身体は透けて見える。
それでも、そこには間違いなく――探していた先輩の姿があった。
でも、その透けた身体から放たれる青白い光は、もうこの世にはいないことを物語っている。
「せん……ぱい?」
思わず声が震える。
『安藤さん……探しに来てくれて、ありがとう』
その声が胸の奥まで届き、震える心をそっと抱きしめる。
あの手紙に書かれた“ありがとう”の意味が、いま、初めて理解できた――
先輩の姿に、美沙は涙を浮かべる。
もう実際の先輩には触れることが出来ない――そう思った時、美沙の目からは涙が流れて落ちた。
そんな美沙に、先輩は優しい眼差しを向け、そっと微笑んだ。
そして、そのまま視線を悪霊へと向けると、先輩はさらに大きく手を振りかざす。
雨に濡れた湖面が光を反射し、透ける身体が揺れる。
湖面に黒く渦巻く悪霊が、漣の腕を強く掴もうとする。
背後で水しぶきとともに足音が響く。
振り返ると、悠真と遥、洸希が、必死な表情でこちらを見ていた。
「……美沙! 漣くんっ」
悲鳴にも近い叫び声で、遥は美沙へと駆け寄る。
悠真と洸希も、引きずり込まれそうな漣の姿を見て、一緒にこちら側へと戻そうとする。
美沙の周りに浮遊する、青白い魂。その奥に見える優しい笑顔。
「先輩……なのか?」
悠真は、その包み込む姿に目を見張った。
コクリ――と、先輩が頷いたように見えた。
そのまま先輩の影が手を振り上げると、青白い光が湖水に波紋を描きながら広がった。
その光が悪霊に触れると、黒い身体がたわむように揺れ、渦巻く水が押し返す。
『離せっ……!』
先輩の声は雨音にかき消されず、美沙の胸に直接響いた。
光の結界が漣と美沙の周囲を包み、悪霊はそのまま押し戻される。
美沙は恐怖で身体が震える中、漣の腕を必死に握りしめる。
すると――ふと、漣を引き込もうとする力が消えた。
黒い手は力なく湖に戻り、湖面は静かに揺れるだけとなった。
美沙は荒い息をつき、その場に倒れこむ。
「しっかりして美沙! 大丈夫?」
美沙を抱きかかえる遥の腕の中で、彼女は小さく震えていた。
その震えを包み込むように、美沙の横に先輩の姿がふわりと浮かび上がる。
微笑みとともに、言葉ではない声が、雨音をすり抜けて心に直接届いた。
『……逢えてよかった。幸せになって……』
先輩の姿は、ほんの少しずつ輪郭をぼやかし、光を散らすように薄れていく。
『さようなら……』
言葉とともに、先輩の姿が少しずつ揺らぎ始める。
輪郭は霧のように薄れ、光を散らす粒子となって空間に溶けていく。
美沙の視界で、先輩はほんのり透明になり、雨粒の合間にゆっくりと流れ、まるで湖面の光に吸い込まれるように消えていった。
「待って! 先輩っ」
触れることのできないその手を必死に握ろうと手を伸ばす。
しかし、指先は空を切り、微笑みだけが一瞬、胸の奥に温かく残った。
そして、静かに、雨の音に溶けるように――完全に姿を消した。
美沙はしばらくその場に立ち尽くし、雨の冷たさも感じられないほどに胸が震えていた。
目の前に広がる湖の静けさだけが、先輩がここにいた証だった。
「いまのは一体……」
目の前の光景に、なにが起こったのか理解出来ずに、洸希はただ唖然とする。
「……先輩が……助けてくれた……」
一気に感情が押し寄せる。
もう先輩には会えない。そんな悲しみが美沙を支配していた。
「先輩は……美沙ちゃんに会いたかったんだね。だからこうして二人を守ってくれたんだ」
悠真の声はかすかに震えていた。
気づけば、頬を伝う涙が雨と混じり、熱いものとなって流れ落ちていた。
その姿に、美沙も遥も洸希も言葉を失った。
誰もが先輩の想いを感じ取り、胸の奥に同じ痛みと温もりを抱いていた。
雨に打たれながら、静かに一行の心がひとつになる。
そして――誰も口にはしなかったが、この場所にはもう長くはいられないことを、全員が悟っていた。
「……この湖には、得体の知れない何かが潜んでるんだ。きっと、亮も……」
伏し目がちに、身体に叩きつけるような雨の中、悠真は湖に視線を送る。
さっきまで荒々しかった湖面は、雨粒に揺れながらひっそりと静まっていた。
「……明日、帰ろう」
遥のその言葉にうなずき、一行は足早に進む。
だがその背後で、湖面はふたたび静かに揺れ、波の奥底から冷たい気配が滲み出す。
「ま、待って……足が……」
漣の声は、土砂降りの雨に紛れて誰の耳にも届かない。
足首を絡め取る冷たい感触に必死で振りほどこうとしたその瞬間――
湖から、無数の白い手が一斉に伸び上がった。
「うわぁぁぁっ!」
はっとして振り返った悠真の視線の先に、漣の姿はもうなかった。
水面には、ただ静かに波紋が広がるだけ。
しかし、かすかに見えたのは――青白い無数の指。
その指は満足そうに、水鏡湖の底へと**「スッ……」と音を立てて**戻っていった――