第6話 夜の湖面
夜風がテントを揺らし、湖の水面は月の光にわずかにきらめいている。
日中の騒動が嘘のように静まり返ったキャンプ場で、悠真たちは張り詰めた空気の中、テントに身を寄せていた。
「北村くん……本当に自殺したの?」
美沙の声にはまだ震えが残る。
「いや、絶対に違う。あんな元気なやつが、自分から湖に……」
洸希が背を丸め、拳を握りしめながらつぶやいた。
遥も頷き、言葉少なに頷く。
「だって……亮君が、自分から湖に入るなんて、ありえないよ……」
「どうして……どうしてこんなことに……」
その声には、恐怖と困惑、そしてわずかな絶望が混じっていた。
「もしかしたら、僕たちの知らない事で悩んでいたのかも」
椅子に腰かけ、コーヒーカップを持ちながら、伏し目がちに漣がつぶやく。
「確かに誰にでも知らない一面があると思うけど。それでも亮は自殺なんかしないって」
そう言ったとき、悠真はふとあの老婆の言葉を思い出す。
「そう言えば……」
悠真は昼間、老婆から聞いた話を思い出し、言葉を紡ぐ。
――水に触れちゃダメだよ。
みんなは戸惑いの表情を浮かべる。
「水に……触れちゃダメ、って……?」
洸希も声を潜め、眉を寄せる。
「なんでそんなことを……一体どういう意味なんだ?」
悠真は首を横に振る。
「どんな意味があるのかはわからない。だた……なんかありそう気がする、ここ、水鏡湖には」
「それって、亮君の死となにか関係があるのかな?」
湖面に映った未来の光景を思い出す。
そして、水に触れたのは、さっきの遥たちを除けば亮だけだった。
一体、何が起きたんだ。
「……そういや、確か漣のお兄さんも事故で亡くなってたよな」
ふと思い出したように、漣に顔を向けながら洸希が言う。
「……ああ。もう、ずっと前だけど」
え?という表情で悠真は目を伏せる。
「……ごめん、知らなかった」
「いいさ……でも、もしかしたら……会えるかもしれない」
その声は期待と不安が入り混じったように少しだけ、震えていた。
* * *
「ひっく……ひっく……」
泥にまみれた校庭の真ん中で、漣は小さな体を丸めていた。
膝も肘も擦りむけて、ヒリヒリとしみる痛みが涙をさらに誘う。
まだランドセルの似合う小さな体。
周りには、冷たい笑い声。
「へっ! ざまあみろ!」
乾いた声が頭上から降ってくる。見上げると、いじめっ子の靴が泥を跳ね上げ、頬に冷たい粒が飛んだ。
悔しいのに、声にならない。ただ鼻をすすりながら、ぐしゃぐしゃになった顔を腕でぬぐった。
「だっせぇの!」
「アハハハ……」
同級生の言葉は、容赦なく漣の胸をえぐる。
そのとき――影が落ちた。
振り向けば、兄が立っていた。険しい目つきで、いじめっ子たちを追い払う。
「大丈夫か、漣」
兄の声は不思議とあたたかくて、震えていた心が少しずつほどけていく。
頬を拭ってくれる兄の手が、やけに大きく感じた。
「臆病なのは悪いことじゃないよ。それだけ優しいってことだから。大丈夫、漣なら、ちゃんといい未来が待ってる」
その言葉に、幼い漣は小さく頷いた。
――あの日、そう信じていた。
目の前に見えるのは、大好きな兄の遺影。
兄は、いつも自分をかばってくれた。転んで泣いたときも、「大丈夫、俺がいるから」って笑ってくれたのに――
「……お兄ちゃん……お兄ちゃん!」
声を出そうとすると、喉が詰まって息が苦しい。ただ涙だけが頬を伝う。
幼い漣には、なぜ兄が突然いなくなったのか理解できなかった。ただ“悲しい”という感情だけが、胸を押し潰す。
「湖の事故だったんでしょう?」
「かわいそうにねえ……」
お通夜に来てくれた近所の人の会話から、漣は兄が部活の合宿で訪れていた水鏡湖で命を落としたことを知る。
まだ小さな漣には、湖で何が起きたのか詳しくはわからなかった。ただ、もう二度と会えないという事実だけが、胸に深く突き刺さった。
――ぴちゃん。
水音のような響きで、漣は目を覚ました。
見慣れたキャンプ場のテントの天井が目に映り、胸の奥に重たいものが残っている。
(……夢、か)
頬をなぞるのは涙の跡。息苦しいほどの悲しみが、まだ消えていない。
あの頃のまま、兄に会いたい。
もし、あの湖で……もう一度会えるのなら――
漣は、テントの外で静かに光を放つ湖面を思い浮かべた。
そっとテントを抜け出す。
冷えた夜気が頬を撫で、鳥の声も虫の声もない。
ただ、水の匂いだけが誘うように漂い、連の足は湖へと向かっていた。
湖へ着いた漣は、その鏡のように反射する湖面をゆっくりと覗き込んだ。
そこには、昼間と同じ――いや、それ以上に不気味な静けさが広がっていた。湖面は風ひとつなく、闇の中でただ淡く月光を反射している。まるで、底のない鏡のように。
(……本当に、会えるのだろうか……)
小さな胸の奥で期待と不安が入り混じる。
あの頃、何度も励ましてくれた兄の顔を思い浮かべる。
いじめに泣きじゃくる自分を抱きしめ、「頑張れば明るい未来が待ってる」と微笑んでくれた兄。
その瞬間、湖面の煌めきがわずかに揺れ、兄の影が映り込む。
(……いまの……兄さん?)
ほんの一瞬、影の笑みが微かに波紋に広がり歪んだように見えた。
しかしその姿は、漣の記憶にある優しい兄の顔だった。
心臓が高鳴り、漣の手は止まらない。
知らず知らずのうちに、湖面に触れようと手を伸ばしていた――
ふと、頭の片隅で、その忠告がよみがえる。
――水に触れちゃダメだ。
悠真が必死に言っていた。もしかすると亮が死んだ事と関係があるのかもしれない。
「……っ」
漣は一度、手を引いた。
兄さんとの思い出は、心の中にあるじゃないか。
(なにやってるんだ、僕は)
フッと笑い、テントへ戻ろうと足を踏み出した――
そのとき、視界の端で、湖面の影がゆっくりと手を振った。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
「……兄さん……?」
胸の奥で何かが弾ける。テントへ向けられていた足が一歩、また一歩と湖に近づいていく。理性が止めろと叫ぶのに、耳が拒んでいた。
膝をつき、湖面を覗き込む。そこに映る兄の影は、優しく微笑んでいた。
(確かめたい……もう一度、会いたい)
指先が震え、冷たい水面へ伸びていく――
次の瞬間、氷のような感触が肌をかすめた。
漣は息を呑んだ。冷たさが、骨の奥まで染み込んでいく。
湖面に映った影が、ゆっくりと漣の目の前に姿を現す。
水面の揺らめきが形を持ち始め、淡い輪郭が立ち上がる。
それは、優しい笑みを浮かべる兄の姿――に「見えて」しまう。
(兄さん……? そんなはず、ないのに)
『蓮……久しぶりだね』
湖面から現れた兄の姿は、柔らかい光に包まれているようで、どこか現実離れしていた。
それでも漣には懐かしさが胸に溢れ、自然に声が漏れる。
「……兄さん」
『元気だったか? 随分、大きくなったな』
耳に響いた声は、幼い日の記憶にあるものと同じだった。ほんの一瞬、心の奥に安堵が広がる。
幻影だと理解している。わかっているのに、返事をせずにはいられなかった。
『……頑張ってるね、蓮』
幼い日の記憶が胸をかすめる。
気づけば、その姿は漣の隣に腰を下ろしていた。
“人”であるようで“人”ではないその存在から、目を逸らせない。
『会いに来てくれて……ありがとう、蓮』
ほほ笑んだその表情は、確かにかつて兄が見せていたもの。
だが――その口元の端に、ごくわずかな歪みが混じっている。
笑みは優しさを保ったままなのに、どこか張り付いた仮面のようで。
温かいはずの声が、次第にひやりとした響きを帯びていった。
漣の背筋に、ゆっくりと冷たいものが這い上がっていく。
胸の奥でざわめく違和感に抗おうとするのに、視線は兄の笑みに縫い止められたままだ。
(兄さん……だよな? でも……何かが違う)
張り付いたような笑みは、じわり、じわりと大きくなり、頬の筋肉が引きつっていく。
その歪みが、暗闇の中でじっと漣を見つめていた――
――ポツ、ポツ。
湖面に小さな波紋が広がる。
空から落ちてきた雨粒が、静けさを破るように水音を刻み始めた。




