第5話 湖の底から
亮は息を整え、かろうじて浮かんでいる小さな背中に、必死に手を伸ばした。
――その瞬間、胸の奥にぞわりとした違和感が走る。
水面の揺れがいつもと違う、得体の知れない感覚。
「――アリガトウ」
甲高い声が、耳の奥にねっとりとまとわりついた。
亮は一瞬、息を止める。掴んだその小さな手――冷たい。まるで長い間、湖底で眠っていたかのような、死の冷たさだった。
――その“子供”は、ゆっくりと首だけをこちらに回した。
目が――ない。
ただ、ぽっかりと黒い穴が二つ。水の奥底へと続くような深淵。
穴の縁から、泡がぷくりと浮かび、消えた。
その空洞が、亮を見ている――そう錯覚した瞬間、恐怖が脊髄を駆け抜ける。
口元がだらりと裂け、暗い水を吐き出した。
白すぎる歯が、水の中でぞっと光る。
「……っ!」
全身に悪寒が走るより早く、その細い腕がぐにゃりと伸び――亮の首に絡みついた。
次の瞬間、子供とは思えないほどの力が働く。
……ミシリ。
生きた骨が軋む音が、耳の奥にまで突き刺さり、亮の身体は一気に引きずり込まれた。
肺の奥に、濁った水が流れ込む。もがいても、もがいても――抜けない。
闇の中で見えたのは、もう人の形をしていない何か。
細長く伸びた手足、首がありえない角度で折れ曲がり、笑いながら亮を押さえ込むその姿。
それは、怨念を凝り固めた「異形の影」だった。
禍々しい笑みを浮かべながら、暗黒の水底へ――亮を、沈めていく。
* * *
キャンプ場にパトカーのサイレンが遠くから聞こえ始める。
「なんか……騒がしい」
漣が湖のほうに目を向ける。
「事故でもあったのかな」
遥と美沙も怪訝な表情で音の方向を確認する。その様子を見て、悠真の胸に不安がじわりと広がった。
「ちょっと……見に行ってくる」
悠真は言い残すと、湖へと駆け出す。
「オレも行く!」
洸希が後を追ったが、結局、残る仲間たちも皆、湖のほうへと足を向けた。
水鏡湖は相変わらず、その美しさを輝かせている。
光を受けてきらめく湖面はあまりに静かで、澄み渡った水がまるで深い闇を抱えているかのように見えた。
美しさの裏に、どこか底知れぬ不穏さが潜んでいる――そんな、薄ら寒い静けさが湖全体を包んでいた。
ザワザワ……
悠真たちが湖に着くと、湖畔には物々しいばかりの警察官や消防団、他のキャンパーたちが輪を作っていた。
水面を指さす人もいれば、声を潜めて話す人もいる。その視線の先には――何かが、沈黙を破るように横たわっているのが見えた。
そんな様子を見て、悠真たちは顔を見合わせた。
「なんかあったんすか?」
洸希が近くにいた人々に声をかけると、男性は怪訝そうに眉をひそめ、小声で答えた。
「……自殺だって」
「一人で湖に入っていったのを見たわ」
「止めたけど……間に合わなかった」
悠真と洸希は耳を疑い、思わず眉をひそめた。
「え……自殺?」
輪の隙間からふと視線を落とすと、横たわる人影が目に入った。
よく見ると、さっき湖に向かっていった亮の服によく似ている。
「すみません……ちょっと通してください」
悠真は人垣をかき分ける。胸の奥で心臓が暴れ、手が震えた。
一歩、また一歩。
そして――目の前に立った瞬間、世界が凍りついた。
冷たくなった亮の姿が、そこにあった。
湖へ向かったあの背中は、もうどこにもない。
白い顔。濡れた髪。唇の色。
そこから漂うのは、冷たさと絶望だけだった。
「りょ、亮!」
その叫びに反応するように、仲間たちも駆け寄ってくる。
変わり果てた亮の姿をみて、愕然とする。
「北村……くん?」
「……亮」
誰もが言葉を失う。
ほんの少し前まで、笑っていた仲間が――いまは冷たく、動かない。
――嘘だろ。
頭が真っ白になる。足元がぐらりと揺れるような感覚。
耳の奥で誰かが叫んでいるのに、その声は遠く、かすれて――
暗闇がにじみ寄ってきた。
「……ちょっと待って」
遙が、亮の手を見て固まった。
「なにか……握ってない?」
指先が、何かをぎゅっと握りしめている。
「これ……」
蓮が硬直した指を一本ずつほどいていく。
皮膚は白くふやけ、爪は割れ、血がにじんでいた。
関節が、パキパキと音を立てる。
やっと開いた掌から、名札がぽたりと落ちた。
ぬれたビニールに、水滴が光っている。
だが、なぜか――文字は、驚くほどはっきりと読めた。
『――――』
「――これ、先輩のだよ……! まさか……先輩! 先輩っ!」
次の瞬間、美沙は駆け出していた。
「美沙ちゃん! 待って!」
胸の奥で、あのおばあさんの声がよみがえる。
――水に、触れちゃいけない。
悠真は叫ぶ。
「湖に――水に触れちゃダメだ!」
だが、その声は届かない。
美沙は湖へ一直線に走り、ためらうことなく足を踏み入れた。
バシャッ、バシャッ――冷たい水が、足首にまとわりつく。
日差しを受けて水しぶきがぎらりと光り、湖面が不規則に揺れる。
悠真も湖に走りながら叫ぶが、声は水の音と風にかき消される。
遥と漣も躊躇いながら足を踏み入れ、腕を伸ばして美沙を捕まえようとする。
水に浸かる体がひんやりと震え、泥や砂の感触が足元に絡む。
遙と蓮も必死に追う。
腕をつかもうと湖に踏み込む二人の体も、水に浸かっていく。
「美沙! 危ないよ」
遥が必死に抱きかかえ、体を押さえる。
漣も肩に手を回し、支える。
水を蹴る音、バシャバシャと響く水音、そして静かな湖の風が、異様な緊張感を際立たせる。
「うう……うう……っ」
美沙の嗚咽が、湖畔にこだまする。
必死の動作の合間に、体温や息づかいがぶつかり、午後の明るい光と不気味な緊張が混ざり合った。
三人はようやく岸へ戻った。
美沙の足元で水が跳ね、冷たそうに波を立てる。
悠真はその光景を見つめ、胸の奥にひんやりとした不安が広がるのを感じた。
足取りの重い遥と漣、必死に美沙を支える姿を目にし、自然と肩に力が入り、心臓が早鐘のように打つ。
(こんなに濡れて……水に触れちゃったけど、まさか――また何か起こる、なんてことは……ないよな……)
湖面に反射する光は眩しいほどに輝いているのに、どこか深淵を覗き込むような恐怖が心に張りつく。
遥を抱きしめ、体温を感じながら、必死で落ち着こうとする。
美沙は震えた手で名札を握りしめ、漣は肩を震わせて息を整えている。
「なんでこんなことに……」
いつもおちゃらけている洸希も、背中を丸め深く息を吐いた。
悠真は胸の奥に、ただならぬ予感と、湖に何かが潜んでいるという恐怖を強く感じた。
そして、自分たちの目の前で何かが動き、何かが待っている――その現実を、どうしても否定できなかった。
――その時、湖面の水がざわつき、黒い影がちらりと揺れた。
波紋が不規則に広がり、光を受けてぎらりと反射する。
低く湿った音――風?水音?
耳を澄ますと、かすかに、声のような響きが混じる。
『……キタ、キタ……』
『ウフフフ……』
湖の奥から、こちらを見つめる視線。
心臓が早鐘のように打ち、背筋がぞくりと冷える。
声なのか、水面のさざめきなのか、悠真にもはっきりとは分からない。
一瞬、湖畔が沈黙に包まれ、空気が重く張りつめる異様な静けさだけが残った――
恐怖と張りつめた緊張を胸に、悠真たちは岸を離れ、ゆっくりとテントへ向かう。
水に濡れた服が体にまとわりつき、歩くたびにひんやりとした感触が背中を伝える。
美沙は名札を握りしめ、漣も洸希も肩を落とし、疲労と悲壮感を背負って無言で歩いていた。
途中、駐車場付近でふと立て看板が目に入った。
「火の取り扱い注意」「ゴミは持ち帰ってください」
注意書きされたその看板が、昨日とはちょっと違ったように見える。
(あれ? なんかもう少し書いてあったような……)
首をひねりながらも、みんなの後についていく。
足元の砂利が小さく軋み、冷たい風が湖から吹き抜ける。
その風に混じって、何かが目の端をかすめた気がしたが、振り返る勇気は出なかった。
悠真だけが、看板への違和感と湖の異様さを胸に刻みながら、後ろを振り返ることなく足を進めた。




