第4話 老婆の警告
炭が足りないことに気づいたのは、ちょうど昼食の準備を始めた頃だった。
亮が持ってきた袋は、もう底をついている。バーベキューの用意をしていた美沙は、袋を覗き込み、軽く息をついた。
「もう、底なの……?」
「思ったより、減るの早いんだね」
亮は頭をかきながら、少し照れくさそうに笑う。
「いや、こんなに減るとは思わなかったよ」
美沙は頷きながら、次の準備に取り掛かる。
「どうする? もう売ってるとこないかな」
「管理棟の近くになんかあった気がするんだよな。売店みたいなやつ」
心配そうな遥に向かって、亮はさりげなく目線を管理棟の方に向けた。
「ほんとに?」
「確か、荷物運んでるときにチラッと見えた。……見に行ってこようか?」
「あ、じゃあ俺も行くよ」
悠真は、飲んでいたジュースのコップをテーブルに置き、亮と並ぶ。
「お願い出来る? わたしは湖畔のほうで先輩の足取り追ってみようと思う……どうしても気になるし」
「“足取り”って、刑事かよ」
不安そうな表情の美沙に、すかさず洸希がツッコミを入れる。
「遊びじゃないんだから……」
いつもの抑揚のないトーンで、漣が洸希をチラっと見る。
悠真と亮はそのやり取りを横目に、売店の方へ足を向けた。
キャンプ場を抜けると、木々の間から日差しがまだらに降り注いでいた。
「なあ、昨日のアレ……なんだったんだろうな」
亮が小声で言った。
「昨日って、夜の水鏡湖でのこと?」
悠真が亮を向きながら答える。
「俺、あのとき……なんか変な感覚があったんだよ。手を掴まれたみたいな」
悠真は眉をひそめる。
「何それ、マジで?あ、もしかしてあの湖に落ちそうになった時?」
「ああ、手首に変な跡がついてたんだ。多分、木の枝か何かに引っかけたんだと思うけど」
亮は肩をすくめ、さらっと笑った。
木漏れ日がまだらに降り注ぐキャンプ場は、妙に静かで――鳥の声ひとつ聞こえない。
聞こえるのは、二人の足音と、草を踏むかすかな音だけだった。
「とにかく、売店探して炭、買わなきゃな」
「うん。でもさ、もしなにか気になったことがあれば、なんでも言ってくれよ?」
隣にいる亮に、悠真はぎこちなく笑顔を向ける。
心の奥では、まだあの湖の寒気がざわついていた。
二人が湖から離れて管理棟のほうへ歩いていくと、少し離れたところに木造の古い建物がポツンと建っている。
色あせた暖簾が風に揺れていて、中からは柔らかな昼光が漏れ、日常的な香りが漂っていた。
店先には『売店』と、赤いペンキで殴り書きしたような看板?がついている。
「……これ? 売店って書いてるけど」
そんな“かわいらしい”看板をみて、二人はふっと笑みをこぼす。いままでの緊張感が一気に和らぐ。
暖簾をくぐると、レトロな雰囲気を醸し出した店内。
そこには、相変わらず殴り書きのような値札とともに、商品が鎮座している。
二人は、店内を色々と見て回る。
調味料・ビニール袋・ドンクなど、一応キャンプに必要な商品は取り揃えているらしい。
「いらっしゃい。あんたたち、湖の方から?」
突然老婆がお店の奥から現れた。年季の入った帽子と、日焼けした顔の皺が印象的だ。
その声には、不思議な落ち着きがあった。
「はい、炭が足りなくて……ありますか?」
老婆は口の端をわずかに上げ、ふと店の外――湖の方角を指した。
「湖に近づくときは、気をつけなさいよ。……見てしまっても構わない。ただし、決して湖の水に触れちゃダメだよ」
低く、噛みしめるような声だった。
「あ、あの。炭を……」
亮が戸惑って口を開きかけたとき、老婆はまたつぶやく。
「昔、この湖には人々の怨念が残っておった。水に触れた者は……運が悪ければ命を落とすこともある」
後ろ手に組んで、老婆は店内をうろつき始める。
「あのさ。この人、誰に話しかけてるんだろ?」
「……たぶん、俺たち」
亮と悠真は、一人でペラペラしゃべる老婆を苦笑しながら見つめる。
「いいか。決して水に触れてはいけないよ。この前も来てたろう、若い子たちが……」
(若い子たち……?)
意味ありげな言葉に、悠真は一瞬、先輩たちの顔を思い出した。
気づけば、二人のすぐそばに老婆がいた。
気配も足音もなかったのに――
しわくちゃの顔から覗く目は妙に動かず、まるで二人の奥底を覗き込むようだった。
「そ、そうですか……」
亮は軽く笑いながら肩をすくめた。
「あのぉ~、その若い子たちと言うのは……」
遠慮がちな悠真の問いに、老婆は無言のまま、店の端を指さした。
そこには、真っ黒な炭が箱ごと山積みにされていた。
無事に炭を買って、二人が店を出ようとしたとき、老婆がふいに笑った。
「……もう、触れたんだろ?」
振り向くと、その目は真っ直ぐ亮を射抜いていた。
亮は思わず否定しかけたが、昨夜のことが頭をよぎる。
――あの瞬間、確かに水に触れた。そしてなにかに引きずり込まれそうになった……
亮は、一瞬言葉を失い――ぎこちなく笑みを作る。
「……何の話ですか」
老婆は何も言わず、ただ、口の端をわずかに上げていた。
* * *
遥と美沙は、スマホにある先輩の写真を握りしめ、捜索に向かっていた。
二週間前に行方不明になった先輩の足取りを追い、キャンパーの人々に写真を見せながら聞き込みを行う。
「見たことありませんか?」
「……いや、見かけたことはないな」
有力な情報は一つもなく、二人は次第に焦りを募らせていった。
「やっぱり、日にちが空きすぎてるのかなぁ」
ため息をつきながら、写真を見つめながら、美沙が沈んだ声でつぶやいた。
「もう少し聞いてみよ?」
二人は管理棟へと足を入れた。
「すみません。この人見たことないですか? 二週間くらい前に、こちらへ来ているはずなんですが」
遥は写真を見せながら、管理棟の係員に話しかけた。
その人は、写真を見てしばらく首をひねっていたが……
「二週間前……確か何人かでキャンプの予約が……」
係員はパソコンの画面を見ながら、ポチポチをマウスを押す。
「あ、これかな? 『ニコニコマート親睦会』」
その予約名義を聞いた美沙は「そうです!」と声を上げる。
それは美沙と先輩がバイトをしている、コンビニの名前だった。
「この中に先輩がいたかどうかはわからないけど、親睦会は確かにあったってことだね」
二人はそれ以上の情報がなく、焦りを募らせるばかりだった。
* * *
昼の光は穏やかに湖面を照らしていたが、老婆の話は悠真と亮の胸に重く残っていた。
「……あの、おばあさんの話、なんなんだろう?」
悠真は、炭を買い終えてキャンプ場に戻る途中、ふと漏らした。
「まあ、ただの注意……なんじゃない?」
亮は肩をすくめて笑ったが、その目は少し陰を帯びていた。
いつもなら心霊やら怪奇現象等、まったく興味を持たない亮だったが、妙に老婆の話が気になった。
そっと手首を確認する。
掴まれたような跡が、未だにうっすらと残っている。
昨夜の湖の感覚が、まだ消えていないのだ。
「あのさ……ごめん悠真。ちょっと水鏡湖、見てきていいか?」
いつになく真剣な表情の亮を見て、悠真はコクリと頷いた。
「ああ。炭は俺が運んでおくよ」
「悪い!」
手にしていた炭の箱を悠真の炭の箱の上に重ねると、亮は速足で水鏡湖へ向かって行く。
(急にどうしたんだろう……)
亮の後ろ姿を見送りながら、ズシリと重くなった腕に力を入れる悠真。
「おもっ……」
肩に荷を感じながら急いでテントへ戻っていった。
その時、亮の背後に薄暗い影のようなものがひそやかに渦巻き、まるで彼についていくかのようにまとわりついていた。
ザクッザクッ……
草を踏む音が終わったあたりで、目の前に青々とした水を湛える湖が見える。
亮は湖畔に立ち、澄んだ湖面をじっと見つめていた。
太陽の光を受けて、水面はきらきらと輝いている。けれど、その輝きの下は、どこまでも深く、底の見えない闇を抱えているように見えた。
――あの時、見えたのは……。
昨夜の光景が脳裏に蘇る。湖面に映った自分の姿。消防服に身を包み、誰かを必死に救おうとしていた――あれは、未来の自分だったのか。それとも、ただの願望だったのか。
考え込んだその瞬間、かすかな声が、湖の奥底から湧き上がるように聞こえた。
――……タスケテ。
かすかな声が、風に乗って耳に届いたような気がした。
「え?」
周囲には家族連れやカップルが、バーベキューを楽しみ、笑い声を上げ、写真を撮っている。
誰一人として、その声に気づいてはいない。
――気のせいか。
そう思った時、今度ははっきりとその声が耳に届いた。
「……タスケテ!」
湖の中央を見やると、小さな影が水面で揺れていた。
――溺れてる?
亮は思わず一歩、湖に近づいた。
それでも周囲のキャンパーたちは、まるであの子の存在など見えていないかのように、日常の喧騒に夢中だった。
「おい、誰か!」
大きな声で叫んでみるが、誰も反応せず、むしろ不思議そうに亮を見ている。
亮の胸に、昨夜の湖の感覚が蘇る。掴まれそうになった手の冷たさ。手首に残る痕跡。
そしてあの老婆の言葉。
――いいか。決して水に触れてはいけないよ。
だが、胸の奥に残っていたのは恐怖ではなく、あのとき確かに感じた熱。
命を救うことへの強い衝動が、彼を突き動かす。
目の前で小さな命が消えようとしている――
彼は一歩、湖へ向かって踏み出す。
「大丈夫だ、すぐ助ける……!」
次の瞬間、亮の足は湖へ向かって走り出していた。
水面に靴が触れるたび、ひんやりとした冷たさが足を伝い、体を包んだ。
子供は必死に手を伸ばし、亮を呼ぶ。だが周囲のキャンパーたちは、ただ亮を不思議そうに見つめるだけ。
――誰も、気づかない。
バシャバシャ……
水しぶきをあげながら、亮は湖の中央へと突き進む。
その様子を見ていた周囲の人達が、亮を見て驚く。
「お、おい! なにしてるんだ。早まったことしちゃだめだ!」
「バカ! 戻れ」
必死の叫びが、波にかき消される。
それでも亮は止まらない。いまにも沈みそうな、子供の小さな背中――。
水位は深く、足は底に届かない。薄暗い水面の揺れに、得体の知れない違和感が絡みつく。
亮は息を整え、かろうじて浮かんでいる小さな背中に、必死に手を伸ばした――。




