第3話 湖の中の未来
月光に浮かび上がる顔の輪郭――。
「あれ? 悠真……?」
暗闇に、やわらかな声が落ちる。
一瞬、心臓が跳ね上がったまま、安堵と驚きが同時に押し寄せた。
「……遥?」
思わず名前を呼んだ途端、胸がきゅっと鳴った。声が少し震える。
(……よかった、遥だった。でも、昼間よりずっと……)
月明かりに照らされた頬が、昼間よりずっと大人びて見えた。
髪の先に光が絡み、夜風にゆるく揺れている。
「悠真……びっくりした。寝ないの?」
「そっちこそ。……眠れないのか?」
遥は小さく肩をすくめて笑う。その笑顔を見た瞬間。
――ドクン
胸の奥で、何かが暴れ出すように音を立てた。
(ヤバイ。緊張するなよ、俺)
静かな夜に、心音だけがやけに大きく響いている気がした。
二人はしばらく視線を泳がせ、やがてどちらからともなく、湖畔に腰を下ろした。
「こうやって二人で話すの、久しぶりだね」
遥が小さく微笑む。
「……そうだな、昔みたいだ」
悠真も笑みを返すが、胸の奥がざわつき、息がわずかに詰まる。
——久しぶりすぎて、緊張する……
「悠真、なんか変わった? 大人になった気がする」
少し照れたように、でも確かめるように遥が訊く。
「いや……昔と同じだと思うけど」
言葉に迷いながらも、自然に視線が重なる。
一瞬、時間が止まったように感じた。
月明かりが、遥の瞳の奥で静かに揺れている。
先に視線を逸らしたのは、遥だった。湖面を見つめながら、ふっと息を漏らす。
「高校が別々になって連絡取れなくなってからさ。わたし悠真を見かけたんだよね」
「え? どこで?」
「駅前のファミレス。……楽しそうだったよ、女の子たちと」
その声に、ほんの少しだけ寂しさがにじんでいた。
悠真の胸がきゅっと締めつけられる。部活の帰り、仲間と笑い合っていた記憶が浮かぶ。
「声かけてくれればよかったのに」
「やだよ。お店に入って、“ゆうま~”って声かけるの恥ずかしくない?」
クスッと笑う。その笑顔が、どこか照れくさそうで――かわいい。
胸の鼓動が、また早くなる。
「それもそっか……でも、ほんとはさ」
思わず口から出ていた。遥がこちらを見て、首をかしげる。
「家もそう遠くないんだし、高校別々になったけど……遥んち、行こうかなって思ってた」
「え……そうなの?」
遥の目が、ほんのわずかに見開かれる。その顔が近くて、悠真の心臓はさらに暴れる。
「……でも、なんかさ。恥ずかしくて……」
言葉が途切れ、夜の静けさに溶けていく。
湖面に映る月が、二人の沈黙をやさしく照らしていた。
何かを言い足そうとした、そのとき――
「あ、いたいた!」
息を弾ませた美沙の声が夜気を裂き、その後ろからみんなの姿が現れる。
「どこ行ったのかと思ったじゃん。……って、なに? 二人でイチャイチャしてたのかよ」
洸希がニヤつきながら、悠真の耳元に顔を寄せて囁く。
その茶化すような視線に、悠真の胸がドキンと跳ねた。
「な、なに言ってんだよ。そんなこと……ないよ」
悠真は思わず声を上げる。
「思わず声が裏返り、洸希は「ふーん?」と肩をすくめる。
疑いの目を向けたまま、からかう笑みを崩さない。
その横で、亮と漣が袋いっぱいに花火を抱えて駆けてきた。
カサカサとビニールの音がして、ほのかに火薬の匂いが漂う。
「花火やろう! 持ってきたんだ!」
――パーンパーン
――チリチリチリ
花火の火花が、ぱちぱちと夜空に散っていく。
手持ち花火のオレンジ色の光が、みんなの顔を揺らしながら照らしていた。
「懐かしいな、こういうの」
亮が笑うと、漣が「子供かよ」と突っ込みを返す。
遙も口元に小さく笑みを浮かべていた。その横顔を、悠真は無意識に見つめてしまう。
――もっと、この時間が続けばいいのに。
胸の奥で、そんな声がした。
火薬の匂いと、湖面を渡る風。
最後の花火が短い火花を散らして消えたとき、美沙がふっと口を開いた。
「ちょっと調べてきたんだけど、この湖、いわくつきらしいよ」
みんなの視線が一斉に美沙に向く。
「え、何それ?」遥が興味津々で尋ねる。
美沙は少し間を置き、楽しそうに低い声で続けた。
「昔、この村では不要なものや事故や事件の犠牲者……すべて黒い水面に沈められて、死んでいったって。村人たちは最初は怖がったけど、次第にそれを当然の作法として受け入れるようになったとか」
悠真たちはぞくりと背筋に寒気を覚えた。
「なんか、やっぱ怖いなここ」
振り向くと、そこには漆黒のように深い湖が、その姿を見せていた。
と、その時雲の隙間から、明るい月が顔を出す。その明るい光を反射し、湖は光を灯す。
「……見て。湖、すごい……なんだか吸い込まれそう」
美沙が指差す先には、水鏡のような湖面に月が浮かび、その光が幾重にも重なって煌めいていた。
湖の水は干潮で少し引いており、普段は隠れている砂浜や小さな岩が顔を出している。水が浅くなった部分は、月光を映す鏡のように平らで静かで、まるで湖の底まで吸い込まれそうな感覚を与えていた。
「湖の干潮だね。海と繋がっているから、湖でも干潮がある。地元では『湖水の引き日』って呼ぶらしい」
漣は淡々とした口調で説明する。理知的で落ち着いた声が、湖の神秘をさらに際立たせた。
「湖に干潮があるって珍しいな」
へえ~と、関心したように悠真が興味を持ったように湖水を眺める。
「それに、この湖……昔から『未来を映す湖』とも呼ばれていて、見た人の願いや未練が、水面に映るって言われてるんだ」
漣は遠くを見つめ、目に微かに翳りを宿す。
「ええ? ちょっと見てみたい」
遙が一歩、足を進め、みんなもぞろぞろと湖岸へ近づく。
湖の水は、昼間より低く、まるで鏡が地面に落ちたかのように静かに光を反射していた。
浅い水位のおかげで、まるで歩いて湖面を渡れそうな錯覚さえ覚える。
みんなは湖岸に到着すると、湖面に視線を落とした。
「ほ~んと綺麗。鏡みたい……あれ?」
湖面を覗いていた遥が、なにかに気づいたように声を出す。
「どうしたの? 遥」
隣にいた美沙が遥を見つめて首をかしげる。
遥は湖面を覗いたまま、手招きをする。
「見て見て! なんか映ってる」
「え? なに?」
その声にみんながそろって身をかがめ、黒い鏡を覗き込む。
一瞬、光が沈む——そして、各々の瞳にだけ、水の鏡は、甘い景色を灯らせる。
・悠真には、夕暮れの湖畔で遙と笑い合う自分。肩が触れて、世界がやわらぐ。
・遙には、キャンパスの並木道。隣を歩く誰かの横顔は霧の向こうで、心の底に「悠真」という音が波紋のように落ちる。
・美沙には、憧れの先輩と手をつなぐ帰り道。胸の奥がほどけて、安堵が広がる。
・漣には、兄の笑顔。昔話が零れ、静かな温度が戻ってくる。
・洸希には、輪の中心で人を笑わせる自分。拍手の音がくすぐったい。
・亮には、真新しい消防服。子どもたちの目がまっすぐで、誇らしさが喉に熱い。
悠真たちはしばし、水面に映るそれぞれの景色に見入った。
口に出さずとも、胸の奥に温かさが広がり、時間が止まったかのような感覚が流れる。
しかし、湖面は静かに揺れ、まるで息をしているかのように光が微かに揺らぐ。
その揺れに、誰もが小さな違和感を覚えた。
「……なんだろう、これ」
悠真が小さくつぶやく。肩を隣に置く遙をちらりと見ながらも、言葉が追いつかない。
「きれい……でも、少し怖いね」
遥も声を抑えてつぶやき、湖面の煌めきを見つめている。
「これが未来を映す……湖」
漣は眉をひそめ、理屈で説明できない感覚を無言で受け止めるが、心なしか納得したように頷く。
洸希と悠真も、目を合わせて小さく笑みを浮かべながらも、心の奥では何かを感じ取っていた。
その中で、亮だけがそっと手を水面に伸ばす。
冷たい水が指先を包み込み、湖の光をかすかに揺らした。
その瞬間、湖面の煌めきが微かに増すように見え、亮は目を細めて水面を見つめる。
水面は静かに揺れ、月の光を反射して煌めく。
その感触が、心の奥のもやもやとした違和感を、ほんのわずかだけ和らげてくれるようだった。
コポコポコポコポ……
湖面に小さな泡が立ち始める。
亮は、ひとつ、またひとつ、規則正しく浮かび上がる泡を見つめる。
その泡の向こう――水の底で、何かが揺れた。
次の瞬間――
グイッ!
見えない力に手首を引かれ、亮は前のめりに躓く。
水の奥で、二つの暗い穴が光を吸っていた。
水の奥で、暗い空洞のような二つの目が光を吸い込む。
皮膚のない白い頭蓋が、ゆらりと浮かび、亮の目線を捕らえた……ような気がした。
「うわっ——」
思わず悲鳴を上げる。
視線を感じた――そう思っただけで、胸の奥が冷たく締めつけられた。
「なにやってんだよ!」
いまにも湖に落ちそうな亮の姿を見て、洸希は笑いながら肩をこちら側に引っ張る。
「ちょっと、大丈夫?」
悠真と遙も微笑みながら、亮を支える。
「ご、ごめん。ちょっと足が滑った」
(びっくりした……でも、あれはたぶん波の揺れだよな)
亮は照れたように笑い、張りつめていた空気が少しだけほどける。
その時、美沙の目が、ふと駐車場の奥に吸い寄せられた。
――立っている。
街灯の届かない闇の向こう、立て看板のそばに、人影。
短く整えた髪、すらりとした背丈……見覚えのあるシルエット。
――先輩?
美沙は目を見開き、影に吸い寄せられるように一歩踏み出す。
(追いかけよう……)
思わず体が動き出す。
「どうしたの? 安藤さん」
漣の声にハッと我に返る。
目を瞬かせると、影はもう消えていた。
足音も、気配も、何も残っていない。
美沙は息を整え、少しだけ肩を落とした。
(……何だったんだろう……)
「……なんでもない。そ、そろそろテントに戻ろうか」
美沙は声を少し震わせながらも、笑顔を作る。
草を踏む音が闇に消えていく。
駐車場近くの立て看板の赤い文字が、静かに、ゆっくりと――滲むように薄れていった。
「……あれ?」
足を止めた悠真は、思わず振り返る。
そこにひっそりと建つ立て看板をじっと見つめる。
(昨日は……もう少し何か、書いてあったような)
首をかしげつつ、悠真はみんなの後を追って行く。
その中で亮は歩きながら、自分の手首に視線を落とす。
そこには、何かに掴まれたような跡が残っていたが――
(……きっと枝か何かが当たったんだろう)
亮は軽く肩をすくめ、歩き出した――だが、胸の奥の違和感は、どうしても消えなかった。