第1話 水鏡湖
「着いたよぉ~」
レンタカーを駐車場に停めた悠真が、ルームミラー越しにみんなに声をかける。
大学の夏休み――ある週末、悠真たちは2泊3日のキャンプのため、水鏡湖の湖畔にやってきた。
夏の陽射しが、水鏡湖の湖面を淡く照らし出していた。
光はきらきらと揺れているのに、まるで底の見えない鏡のようで、どこか吸い込まれそうな気配を漂わせている。
川を通して海水が流れ込むこの湖は、干潮時に砂浜に残った水面が鏡のようになる、珍しい湖だ。
佐伯悠真は、車のドアを開け、眩しい夏の光の中へ足を踏み出した。
後部座席からカメラバッグを引き寄せる。重みが心地いい――これを持たないと落ち着かないのは、写真ばかり撮ってきた大学生活のせいだろう。
そう言えば聞こえはいいけれど、結局、ただ撮るのが好きなだけだ。
山間にあるキャンプ場の駐車場は、まだ昼前だというのに熱気がこもり、額にじんわり汗がにじむ。
それでも時折吹く海風が、潮の香りを運んでくれるのが心地よかった。
湖面に反射する光は、夏の日差しを跳ね返すようにきらめいていた。けれど、その輝きは不思議なほど冷たく——肌をかすめる風とは違う、底知れぬ何かが背筋をなぞった。
「水鏡湖。うわぁ……本当に鏡みたいだね」
藤堂遥がいち早く車から降りると、湖面を覗き込み、両手で日差しを遮りながら、湖に映る自分の顔を覗きこむ。
長い髪にふんわりと巻いたカールが、少し大人びて見える。
悠真と遥は幼馴染。
小さい頃からいつも一緒で、中学の頃から悠真は彼女を意識しはじめていた。
だが高校が別々になり、そのまま疎遠になっていた。
そして大学でバッタリ再会した今――悠真は心の奥に眠らせていた想いを、もう一度抱き始めていた。
「ここ、絶景ポイントらしいよ。写真撮るならいい感じかも」
写真サークルに席を置く悠真はカメラを構え、隣に立つ遥をレンズに収める。
「なあに? わたしをモデルにするなら、モデル料高いよ」
「な~に言ってんだよ」
「綺麗に撮ってよね」
(……大丈夫。湖よりずっと、君のほうが綺麗なんだから)
口にできない思いを胸に押し込め、シャッターを切る。
ただ、その湖面に揺れる光の奥で、一瞬だけ“何かが手を振ったように”見えたのは――気のせいだったのだろうか。
「悠真くん、そのカメラは後! 呪われる前に荷物運んで!」
眼鏡を指で押し上げながら、安藤美沙は湖を見渡した。
世話好きで頼りになる、遥の高校時代からの親友。
けれど、その胸の奥には「怪しい話」に目がない好奇心が潜んでいる。今も、どこか楽しそうな笑みを浮かべ、悠真たちを振り返りながら、大きく手を振っている。
(あ、なんだ。さっき手を振ったように見えたのは、美沙ちゃんが湖面に映ったのか)
ちょっとホッとしたように、悠真は胸を撫で下ろす。
「よし、じゃあ行こっか」
悠真は笑顔を遥に向け、二人はみんなの所へと向かった。
と、脇になにか立て看板のようなものが設置されているのが、目に入った。
(ん? なにあれ)
「遥、ちょっと待ってて」
隣にいた遥に声をかけ、悠真は立て看板まで近づき、ざっと目を通す。
「火の取り扱い注意」「ゴミは持ち帰れ」……その中にひっそりと書かれた一言。
――水に触れるな――
「水に……触れるな?」
他の注意書きとは違い、どう見ても後から追加したように赤いペンキで殴り書きのように書かれている。
不思議に思いながらも、悠真は少しだけ眉をひそめた。
そのとき、湖畔に大きな声が響いた。
「おい、悠真! 早くしろよぉ。藤堂も」
その声に反射するように、悠真は急いで遥の元へ行き、二人は顔を合わせ、急いで駐車場へと向かった。
駐車場に戻ると、すでに他の仲間たちも動き始めていた。
「テントはあっちでいいのかな? 北村くん、悪いけど管理棟で聞いてきて貰ってもいい?」
「了解!」
と、爽やかな声が返る。北村亮が軽やかに走り出す。
日焼けした腕と笑顔は、どこから見ても“モテる男”。
けど、悠真にはそんな肩書きは関係ない。ただの仲間、それで十分だ。
「オレ、湖をちょっと確かめてくるわ!」
そう言うなり、藤川洸希は荷物を放り出し、スキップでもするように駆けていった。お調子者で、誰よりも空気を軽くするムードメーカー――まるでお笑い芸人だ。
「相変わらず落ち着きがないな……」悠真は苦笑する。
「いつものことだろ」
低く呟くと、森下蓮は眼鏡の奥でじっと湖を見つめた。無口で控えめなやつだが、その視線はいつも何かを計っている。
――そんな彼を含め、この六人が今回キャンプに来たのには、ただの遊び以上の“理由”があった。
みんなが楽しそうにしている姿を見ながら、美沙はポケットにしまっていた手紙をそっと取り出した。
* * *
――バイト先で出会って親しくなった二つ年上の先輩。
二人は大学が同じこともわかって自然と仲良くなり、美沙は、親切で面倒見のいいその先輩に、密かに想いを寄せていた。
当時、バイト先では毎年恒例の親睦会があり、昨年は水鏡湖で開催される事になっていて、 美沙も先輩と一緒に参加するつもりで心を躍らせていた。
親睦会の前日、休憩中の先輩がそっと封筒を差し出した。
「安藤さん、これ……後で読んでほしい。いまどき手紙?って思うかもしれないけど……」
そう言って、先輩は休憩室を後にした。
その時の少し照れた先輩の顔が、美沙の心に鮮明に浮かぶ。
――ガサゴソ。
美沙は手にした封筒を、指先でそっと開く。紙の感触がひんやりと手に伝わる。
息をひそめ、文字に目を落とすと、丁寧な筆跡でこう書かれていた。
『安藤さんへ
大切な話があります
夜9時に 水鏡湖で待ってます』
「え? これって……」
美沙は思わず小さく息を吐き、封筒を握りしめたまま、再び先輩の笑顔を思い浮かべる。
流行る気持ちを抑えつつ、先輩のもとに駆け寄った美沙は、笑顔で手を差し出す。
「必ず……行きますね」
先輩も微笑み返し、二人の約束は交わされた。
しかしその後、美沙は体調を崩して親睦会に行けなかった。
先輩は予定通り水鏡湖へ向かい、そこで行方不明になってしまったのだ。
もしあの日、親睦会に行けていたら――。
美沙はずっとそのことを心に抱え、胸の奥に秘めた想いを思い返し、以前から先輩への想いを打ち明けていた親友の遥に相談した。
遥に先輩からの手紙を差し出す。
「これ……先輩からの手紙なんだけど」
「これって……ラブレターじゃん」
遥は手紙に目を通すと、一瞬笑顔になったがそれもすぐ消える。
「でも確か先輩っ……て」
「……うん。大学にも来てなくて連絡も取れないんだよ」
遥はジッと手紙を見つめ、やがて顔を上げた。
「……行ってみようよ。水鏡湖に」
「……え?」
「だって、美沙。先輩のこと好きなんでしょう?ずっと後悔したままでいいの? もし本当に先輩がいるなら、確かめなきゃ」
胸が高鳴ると同時に、恐怖も押し寄せる。二人だけで行く勇気はない。
「……じゃあ、悠真を誘おうか」
「うん。それなら心強いし」
美沙は悠真に事情を正直に打ち明けた。
先輩のこと、手紙のこと、そして水鏡湖へ行きたい理由。
悠真はすぐに笑顔で頷き、快く同行を承諾した。
「それなら人数多い方がいいよね?」
こうして、美沙、遥、悠真の三人がキャンプに行くことを決め、元々知り合いだった残りの仲間も誘った。
――そして、この夏、先輩を探すためのキャンプが計画されたのだった。
* * *
湖畔では洸希の笑い声が響き、仲間たちがテントや荷物の準備に追われている。
「ねぇ、そっち持ってぇ」
遥がテントの隅を持ちながら もう片方の隅を持つように声をかける。
「いいよ。俺やるから、遥は休んでて」
悠真が笑顔で、遥からテントを受けようとする。
「大丈夫。さっさと設置しちゃお」
緑に囲まれた中心に佇む水鏡湖が、キラキラとその存在を主張するようにその水面に太陽の日差しを反射させる。
周りにも数組のキャンパーがいて、準備をしていたりバーベキューを楽しんだりしている。
炭火の煙が、風に流されて鼻をくすぐる。
そんな中、悠真達はテントの設置を終え、メインのバーベキューへと取りかかる。
「野菜、肉、肉、肉。の順番だよな!」
洸希は得意げに言いながら、わざと蓮の顔を見てニヤリとする。
「そんなに肉ばかり刺したら、バランスが悪い」
蓮が眉を寄せ、洸希へ抗議する。
湖はキラキラと光を返していたが、その奥底は底知れず暗い影を湛えていた。
ジュージュー――
焼けた肉の匂いが炭火の煙に混じり、午後の湖畔に漂う。
炭火の赤い光が、トングの先でちらついた。
「ほら、できたぞー!」
洸希がトングをカチカチ鳴らしながら笑うと、みんなの声が弾む。
「お腹すいたぁ!」
「食べようぜ!」
それぞれがこんがり焼けた肉を手に、会話を交えながら頬張った。
「……おいしい」
漣はナイフとフォークで丁寧に肉を切り分け、静かに口に運ぶ。
「漣! そんな上品に食べなくてもさぁ」
亮が笑いながらツッコミを入れると、洸希が「だよな!」と大口を開けて肉にかぶりついた。
楽しいひと時が静かに過ぎていく――
虫の声と鳥のさえずりが湖畔に反響し、心地よい風が頬を撫でる。
さっきまでの笑い声は、夕風にさらわれたように消えていた……




