最終話-A 喰らう湖
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます
物語はいよいよ最終話
これまで積み重ねてきた恐怖と謎が、ついに結末を迎えます
最後のページを閉じるとき、あなたの心に何が残るのか
どうか、この「水 鏡」の行き着く先を見届けてください
光が木々の隙間から差し込み、湖の方角を淡く照らしていた。その光に導かれるように、遥は歩を止めず進んでいった。
その背後から、かすかな声が耳元に届く。
『ハヤクコナイト……ユウマ、モラウヨ……』
風に紛れた声か、それとも――。
遥の足取りはどんどん速まり、まるで何かに引き寄せられるようだった。
「遥!」
悠真たちは思わず立ち止まり、顔を見合わせる。
「ど、どうしたのあの子……!」
美沙の声は震え、大きく張り上げても届かない。
「……まずい! 行くぞ!」
洸希が叫び、全員が慌ててその背中を追いかけた。
やがて木々が途切れ、朝の光にきらめく湖面が目の前に広がった。
湖岸にたどり着いた遥は、もう振り返ることもなく、ポケットに手を差し入れる。
彼女が取り出したのは、昨夜拾った――悠真と見知らぬ女が並んで笑っている、あの写真だった。
「これ……誰? わたしの知らない人と悠真が楽しそう」
写真を眺めながら、遥の瞳孔は見開かれたまま。
「遥……それ、何……?」
遅れて駆け寄った悠真たちは、息を切らしながら立ちすくむ。
遥は写真を高く掲げ、震える声で告げた。
「……わたし、言われたの。彼の気持ちを確かめたければ、『溺れればいい』って」
「は? なにそれ。どういう意味?」
洸希が理解出来ないと言うように、首をかしげる。
しかし遥は答えなかった。
その瞳は彼らではなく、湖面のきらめきだけを映していた。
「遥! どうしたんだよ!」
「は、遥?……」
悠真の叫びも、美沙の震える声も、まるで届かない。
彼女の頬は上気し、瞳は虚ろな輝きを宿している。
その表情は恐怖ではなく、むしろ恍惚に近かった。
「……ねぇ、聞こえる? みんな呼んでるの。『こっちへおいで』って、手招きしてる」
遥の声は、夢見るように甘く、けれど底知れぬ狂気を帯びている。やがて彼女はその写真を、両手で抱きしめるように胸に押し当てた。
水面は淡く揺らめき、無数の鏡が光を返しているかのようだ。
そしてその湖面に映る、悠真と自分の姿――キラキラと幸せそうに輝いている。
遥はその眩さに導かれるように、ふらりと足を踏み出した。
「遥! 待て!」
悠真は急いで遥の元へと走り出す。洸希も後に続く。
遥は湖岸の浅瀬まで来て、両手に抱えた写真を大事そうに見つめながら、一歩、また一歩と水面へ足を踏み入れる。
夏の日差しで温んだ水面は、見た目は穏やかで柔らかそうに揺れている。しかし、足先が水に触れた瞬間、ひんやりとした感触が背筋を走った。得体の知れない圧迫感が身体を包み込み、湖の底から何かが手を伸ばしてきているかのように感じられる。
「やめろ、遥!」
悠真は彼女の手を掴もうと踏み込む。その瞬間、足先が湖水に触れ、ひんやりとした感触が背筋を走った。洸希も慌てて同じように湖に踏み入る。二人とも、柔らかくもぞっとする感覚に身体が震える。
「しっかりしろ、藤堂!」
悠真たちは必死に引き戻そうとするが、遥の瞳は湖面に映る光だけを映しだしている。その瞳を見た瞬間、悠真はゾクリと一瞬息が止まった。
「遥……違う、目を覚ませ!」
必死に声を張る悠真。しかしその声は、遠く霞むようにしか届かない。
「気持ちを、確かめなくちゃ――」
遥は、ふっと笑った。
その笑みは優しくもあり、底知れぬ狂気の色を帯びてもいた。
「フフフ……悠真は、ワタシノモノ……ダヨ」
そして――悠真たちの手を振りほどいたその瞬間――
バッシャーン。
何かを決意したように、遥は湖へ自ら飛び込んだ。
水しぶきが高く上がり、湖面に波紋が走る。
誰もが一瞬、声を失った。
「嘘だろ……遥!」
叫ぶと同時に、水しぶきがあがった。
悠真は躊躇なく、湖へ足を踏み入れる。浅瀬に漂う遥の身体は、手を伸ばせば届きそうだった。
「悠真、やめろ!」
どんどん湖へ進む悠真を、洸希も水しぶれを浴びながら必死で止めようとする。
と、湖面に波紋が広がり、湖の底から“それ”がゆらりと現れる。
「ちょっ……な、なに……!?」
悠真は思わず後ずさる。洸希も息を飲み、背筋がぞくりとする。
湖面に映る姿は、人間とは違う何かだった。
青白い肌に濡れたように漂う髪、虚ろな目がじっと遥を見据える。口元は不自然に大きく裂け、楽しげに笑っている――その笑みは狂気に満ちていた。
――あの写真に写っていた女。
『ホラ……チャント……オボレナイト』
水底から這い上がるような声が耳にまとわりついた。
その瞬間、遥の口元がゆっくりと吊り上がる。
――それは彼女の笑みではない。
虚ろな表情に、不自然に貼り付けられたような笑みだった。
「ソウヨネ……ちゃんと溺れレバ、悠真が来テクレルヨネ」
その言葉とともに、遥は“それ”の手に導かれるように、湖の闇へと沈んでいった。
悠真は水をかき分け、必死に手を伸ばす。だが、その指先は、遥に届くことなく虚しく水を掻くだけ。
「遥っ! 遥ぁぁぁ!」
その叫びも、広がる波紋に呑まれていく。
やがて水面には、遥の姿はもうなかった。
* * *
岸へ戻った悠真は、膝をついて拳を地面に叩きつけた。
美沙は唇を噛み、両手で顔を覆い嗚咽する。洸希も呆然と湖を見つめ、肩を震わせていた。
「なんで……どうしてこんな事に」
誰に言うでもなく、悠真が呟く。
「“捨て場”だかなんだかしらねえけど、俺たちはなにもしてねえのに……」
洸希の声は怒りとも悔しさともつかない響きを帯びていた。
悠真も洸希もうなだれて、ただただ湖を見つめるしか出来なかった。
「ご、ごめんなさい……わたしがここに来ようなんて言わなければ……」
止まらない涙で声を震わせながら、美沙は立ち上がることすら出来ない。
そんな美沙を支えながら、悠真は自分の手を見つめる。
遥を守れなかった事への悔しさ。もう少し手を伸ばせば救えたかもしれないという後悔。
「遥……ごめん」
湖を見つめながら、一筋の涙が頬を伝う。それでも口を開いた。
「……行こう。ここにいたら、俺たちまであの湖に呼ばれてしまう」
顔を上げ、かすれた声で言う。
洸希も頷き、美沙の肩を支えながら三人は車へと向かった。
キャンプ場を後にしようとするその背後で、湖面が静かに波紋を広げる。
まるで誰かが、まだ手招きしているかのように――
駐車場の車に荷物を積み込みながら、三人はそれぞれの胸に去来する思いを抱えていた。
悠真は握りしめた遥の写真に目を落とし、美沙は先輩の名札を胸に抱え、洸希は亮と漣の服を手に取り、視線を落とす。
そのひととき、失ったものの重さを静かに噛みしめる。
荷物を積み終え、三人はようやく車の中に身を沈めた。
エンジンをかけると、静かな朝の空気が一瞬だけ車内に流れ込む。
だが、その空気はどこか重く、木々の隙間から朝日を受けてわずかに揺れる湖面が見えた。
ハンドルを握る悠真の手は、汗でじっとりと湿っている。
後部座席の美沙は名札と遥のスマホを胸に抱え、涙で腫れた目を伏せる。
助手席の洸希は、窓の外の湖を深いため息をつきながら、何かを確かめるかのようにぎらりと見つめていた。
その瞬間、後輪が小さくぐらりと揺れた。
ガクン。
「な、なんだ……?」
悠真は一瞬息を呑み、ハンドルをぎゅっと握り直す。
まるで湖の底から、彼らを引き留めようとしているかのように思えた。
「悠真くん……早くここを出よう」
美沙の言葉にコクリと頷く。
心臓が高鳴り、指先に冷たい震えが走る。
誰も言葉を発せず、後悔と恐怖を抱えながら、車はゆっくりと駐車場を後にした。
車は林道を下り始めた。悠真は必死にハンドルを握り、揺れる視線の先に道路を見据える。
「……この湖さ」
短く区切ってから、洸希は息を飲み込むように続けた。
「一体……なんだったんだ?」
「言い伝えの通り……『捨て場』だった時の念が、まだ残ってるってことじゃないの……」
美沙は泣きはらした目を伏せ、嗚咽混じりに震える声を絞り出す。
「でも……人を喰うみたいに、みんなを連れていくなんて……そんなの、ただの噂のはずだったのに」
言葉を重ねるうちに洸希の声も震え出し、悠真は返す言葉を見つけられない。
ただ黙って運転を続ける。その目に映る湖面の光が、まだどこかで彼らを呼んでいるように揺れていた。
林道を抜けると、背後の木々に隠れて湖はもう見えなくなった。
ようやく重苦しい気配から解き放たれたように、三人は小さく息をついた。
「ふぅ~。なんかようやく落ち着いたような気がする」
洸希も、美沙も、その言葉に釣られたように少しだけ笑顔を浮かべた。
「もう二度とここへは来ないからなっ!」
「……そうだね」
美沙が頷き、ふっと小さく息をついた。
「なあ、喉乾かない? この先に自販機あったら……ちょっと寄ろうぜ」
洸希が振り返りながら声をかける。
「……うん。甘いのでも飲んだら、少しは気がまぎれるかも」
美沙もかすかに微笑む。
眼下には水鏡湖が美しく輝いている。
ふと、フロントガラスの先、林道の出口に赤い自販機が見えた。
「あ、あったよ自販機。よし、じゃあ寄って――」
ウインカーを点滅させ、自販機側にハンドルを切ろうとした――その瞬間。
ガクンッ。
車体が大きく跳ね、三人の身体がシートベルトに叩きつけられる。
ハンドルを必死に握る悠真の目の前で、フロントガラスに――
ドンッ!
青白い顔が、血走った眼をむき出しにしてぶつかってきた。
ガラスを隔てて、口だけが大きく開き、何かを呟いている。
ゾワッ、と背筋を凍らせる声が、車内に直接響いた。
『カエレナイヨ……』
言いながら“それ”は、ニタニタ不気味な笑みを浮かべている。
次の瞬間、助手席の窓に、後部座席の窓に、無数の青白い顔が貼りつくように現れた。
白濁した目、裂けた口、濡れた髪がべったりと張りつき、バンッ、バンッ、と車を叩き始める。
『イッショニ……』
『マダ……タリナイ……』
『ズット……ココニ……』
囁きと叫びが混ざり合い、車内の空気は凍りついていく。
「きゃあああああっ!」
美沙の絶叫が車内に響く。
バンッ、バンッ、と窓を叩く音が次第に狂乱の太鼓のように膨れ上がっていく。
タイヤが空転し、車体が激しく揺れた。
目の前には――断崖。
まるで“何か”に引っ張られているかのように――車体は崖の方へと滑り出す。
その下には、闇のように静まり返った水鏡湖が広がっている。
「嘘だろっ! 止まれ……止まれぇぇっ!」
悠真が叫ぶ間もなく、車は地面を滑り出した。
土が崩れ、重力がふいに方向を変える。
ブレーキを踏みつけても、ペダルは底なし沼に沈むように効かない。
叫び声と悲鳴が交錯する中、無数の青白い顔がフロントガラスいっぱいに張りついた。
『イッショニ……』
『オチヨウ……』
囁きが車内に充満した瞬間、ガクンッ、と前のめりに傾いた。
視界いっぱいに広がるのは、黒く口を開けた湖の闇。
その闇の中から、無数の白い手が蠢くように伸び出し、車体に絡みつく。
ガラスをひっかく爪痕、金属をきしませる音。
目の無い顔が、泥を吐き出す口が、コケまみれの胴体が……次々と車に張りついていく。
その群れの中に――ほんの一瞬、遥の顔があった。
「……遥!?」
悠真が思わず叫んだ瞬間、ニタリと笑っているように見えたその表情は、水泡に砕け散ると同時に、別の怨念に塗り替えられる。
次の瞬間、湖そのものが牙をむいたかのように悠真たちを乗せた車は宙を舞い、無数の手に掴まれたように、真っ逆さまに水面へと引きずり込まれていく。
「きゃああああっ!」
美沙の悲鳴が車内に響く。
車内は激しく揺れ、ダッシュボードに頭をぶつけそうになり、窓ガラスを叩きながら、沈みゆく水の圧力が全身を押し潰す。悠真も洸希も美沙も、逃げることは出来ない。
「うわぁっ!」「やめろぉっ!」
悠真と洸希も叫んだ――恐怖と絶望の中で振り絞った叫びだった。
そのままなすすべもなく、三人は真っ暗な底へ誘われていく――
波紋と水泡を巻き上げながら、車体は湖の深淵に呑み込まれ――しばらくの間、湖面は荒れ狂うように泡立っていた。
やがてそれも収まり、朝の光を受けた水鏡湖は何事もなかったかのように、静かにきらめいていた。
ただ美しく、ただ静かに。
最初から、すべてを飲み込んだことなど存在しなかったかのように――
――湖の底、暗闇の奥で目を光らせる者たちは、じっと次の獲物を待っている。
誰も知らない。ただ、この水鏡湖を除いては……
――木々の間に朝露が輝き、太陽の光がきらめいている。
夏の水鏡湖には、今日もたくさんのキャンパーが訪れていた。
キラキラと光る鏡のような湖面は、潮の引き日を迎えていた。
「ねぇ、おかあさん。あそこにわたしが映ってる」
湖畔で遊ぶ幼い子が、指さした先には、水面に映る――笑顔の自分と、おもちゃを手に遊ぶ姿。
「え? どこに?」
湖を見つめながら母親は微笑むが、その“映像”は彼女には見えていない。
子どもは小さく笑い、湖に手を伸ばした。
指先が水面をかすめ、波紋が広がり、映像がゆらめく。
まるで、湖が子どもの未来を覗き込んでいるかのように。
そのとき、湖面の奥で、誰かがふっと笑った。
泡のように浮かんだその笑みは、すぐに水に溶け、何事もなかったかのように消えた。
――いまも水鏡湖は、美しく、そして静かに、人々を映し続けている。
最後まで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました
水鏡湖の物語をここまで追ってくださったことが、作者として何よりの喜びです
今回は、このあとにもう一つのエンディングを書いてみました
よかったらそちらも覗いてみてください
そして、どちらのエンディングが好きか選んでみてもらえると嬉しいです
そして、書き終えても湖の底に潜む気配は、まだどこかで息づいている気がします
もしあなたがどこかで静かな湖を見かけたら……そのとき、この物語を少しだけ思い出していただけたら幸いです
これからもまた、新しい物語をお届けできるように頑張ります
応援してくださった皆さまに、心からの感謝を――




