第9話 幻の売店
朝の光は淡く、昨夜の嵐の湿り気が木々の葉を滴らせている。キャンプ場はまだ眠そうで、テントの口からは白い息が漏れているように見えた。誰もが昨夜の出来事を無言で抱え、足音だけがしんとした小道に響く。
悠真、洸希、遥、美沙の四人は、売店へと続く道を歩いていた。
「管理棟の近くだったんだよ」
先頭を歩く悠真が、時折みんなを振り返りながらそう答える。
立て看板に刻まれていた赤い文字――翌朝には跡形もなく消えていたあの不吉な文字と、売店の看板に使われていた字体が、妙に酷似していたこと。
そして、あの場所にいた不思議なおばあさんの、忘れがたい微笑。
悠真は朝、みんなにそのことを話した。驚きと戸惑いの中で相談し合い、最終的に売店のおばあさんのもとへ行くことに決まった。
「……ほんとに、いるのかな」
美沙が小さくつぶやいた。洸希は黙ってうつむき、肩をすくめる。
ただ一人、遥だけが何も言わず歩いていた。足取りは重く、呼吸が浅い。ときおりその横顔に暗い影のような残像がちらつくようで、悠真は思わず彼女を二度見する――だが声はかけられなかった。
やがて、木造の古びた建物が木々の間から姿を現す。
色あせた暖簾が風に揺れているのを見て、悠真はふと足を止めた。
「あれ?」
「……どうした悠真」
首をかしげる悠真に、洸希は声をかける。その瞬間悠真は駆け出し、売店の看板を見上げた。
――そこには“売店”と、黒いペンキで丁寧に描かれた文字。
「違う……立て看板と同じ赤い文字で、殴り書きみたいだったのに」
「誰かが書き直したんじゃねえの?」
軽く言い捨てると、洸希はためらいもなく暖簾をくぐっていった。
残された悠真は、黒々とした看板の文字を見上げながら、喉の奥が冷たく締めつけられるのを感じていた。
しばし立ちすくんだあと、ためらうようにみんなの後を追うように、売店の中へ足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ~」
暖簾をくぐると、以前管理棟で話を聞いた男性が、笑顔で出迎えてくれた。
「あ、おはようございます」
美沙が軽く会釈しながら挨拶をすると、その男性は「あぁ、あの時の」と納得したように何度も頷く。
「なに? 知り合い?」
売店の男性と美沙を交互に見ながら、洸希が不思議そうに呟いた。
「先輩の事聞き込みに行ったとき、お世話になったの」
「へぇ~聞き込み……ね」
面白そう、とでも言うように洸希はニヤリと笑った。
そんなやり取りをよそに、管理人は変わらぬ笑顔で声をかける。
「今日はどうしました? 何か足りない物でも?」
管理人の穏やかな笑顔に、悠真はしばし言葉を探した。
そして遠慮がちに、あの“ばあさん”のことを切り出した。
「……あの、今日は年配の女性の方はいないんですか?」
「年配?」
悠真の言葉に、ちょっと首をかしげる管理人さん。
「古そうな帽子をかぶってて……日に焼けたみたいな顔の。八十歳くらいの……」
努めて明るく言おうとしたが、悠真の声はわずかに上ずっていた。
管理人は一瞬黙り込み、それから「あぁ」とでも言うようにゆっくり頷いた。
「……その人、もしかして佐藤さんかな」
「佐藤さん?」
「この売店を任されてた人だ。気のいい人で、子どもたちにもよく声をかけていた。だが――」
そこで声を落とす。
「もう二十年も前に死んでるんだよ。湖に落ちて、帰ってこなかった」
「え? 死んでる?」
悠真の胸に、老婆の声が蘇る。
――“水に触れちゃダメだよ”。
あの時の忠告は、確かに“生きた言葉”だったのに。
ぞわりと背筋を冷たいものが這い上がり、喉がひきつる。
「でも……俺たち、その人から炭を買ったんです。それに……『水に触れるな』って、直接……」
管理人は少しだけ目を伏せ、静かに言った。
「……あのばあさん、この辺りに住んでてね。水鏡湖のことは誰より詳しかったんだ」
「じゃあ……立て看板の赤い文字を書いたのも、その人ですか?」
消えた赤文字が気になり、悠真は思わず問い詰める。
「多分ね。でも……あれは何度書いても、気づくと消えてしまうんだ。夜のうちに、誰かが拭き取ったみたいにね」
「消えるって……文字が、ですか?」
美沙は思わず前のめりになり、声を震わせた。
管理人は何度か頷き、周囲を気にするように声を潜めた。
「でも、佐藤さんが亡くなってからは、誰も書いてないはずだよ?」
「え? でも俺見ました。一昨日ここに来た時、立て看板に間違いなく赤い文字が……」
悠真の言葉を聞いて、遥も頷く。
「わたしも見ました。と、言っても写真でですけど」
管理人は「う~ん」と首をかしげ、腕を組んでしばし考え込む。
答えを探すように視線を泳がせていたが、やがてふと何かに思い至ったように動きを止めた。
重たく息を吐き、低く声を落とす。
「……“潮の引き日”っていう現象があってね。その時、湖面に“未来の姿”が映るって言われてる」
一旦言葉を切り、眉をひそめる。
淡々とした口調なのに、その言葉だけが妙に空気を冷やした。
「それを見た人間は……絶対に水に触れちゃいけない。触ったら……呪われるって噂だよ」
「呪われる?」
オカルトめいた雰囲気に、美沙は息をのんで一歩前に出た。
「君たちが会ったっていう佐藤さんも、ずっとそう言ってた。だから注意のために看板に書いたんだろうね。……けど、気づけば文字は消えてる。不思議なことに」
普通に接していた人が、二十年も前にこの世を去っていた――
ということは、あのおばあさんは本当に俺たちに警告をしてくれていた……?
「あのぉ……この売店の看板文字も、その佐藤さんが書いたんですよね?同じ文字だったので」
恐る恐る悠真は、外の看板を指さすようにしながら確認する。
「……いや、売店の文字は何年も前に看板屋が来て書いたはずだよ」
――!!
(じゃあ俺と亮がここに来た時に見た“あの赤い文字”は一体……)
「そもそも、佐藤さんがいるわけないんだ。二十年前に亡くなってるんだから」
管理人は小さく苦笑した。
その笑顔がかえって、悠真の胸に冷たい孤独を突き刺した。
「……じゃあ、写真とか残ってませんか? その、佐藤さんの」
勇気を振り絞るように、悠真が問いかけた。
「写真?」
管理人は少し首をかしげたあと、思い出したように「あぁ」と声を漏らす。
カウンターの奥をごそごそ探り、色あせたアルバムを取り出してきた。
「昔、このキャンプ場で働いてた人たちの集合写真があってね。もしかしたら写ってるかもしれない」
そう言って広げられた色あせた集合写真の片隅に、日焼けした笑顔の女性が写っていた。
髪はまだ黒々としているが、顔立ちや目元には、あの老婆の面影が確かにあった。
「……この人……?」
悠真の声はかすれ、思わず指が震える。
管理人が覗き込み、しばし写真を見つめてから頷いた。
「あぁ、佐藤さんだよ。二十年前に亡くなった」
――やっぱり。
あの時、俺と亮に忠告してきたのは……
「二十年前に亡くなった人が、悠真くんと北村くんに忠告してたってこと?……」
美沙の声が震える。
「信じらんねぇ……でもこのばあさん、きっと助けてくれようとしたんだろうな」
洸希も言葉少なに頷いた。
しばらく沈黙が続く。重く、冷たい空気が売店の中に漂う。
「……やっぱりこの湖、なにかあるよ。もう帰ろう」
売店の暖簾をくぐり、朝の空気に触れた悠真は、みんなに向かって声をかけた。
「そうだね。こんなところ一刻も早く出たほうがいい」
美沙も賛成といった感じで、悠真の言葉に同調する。
――しかし、遥は悠真たちに背を向け、湖の方をぼんやりと見つめていた。
「藤堂? どうした?」
遥の様子に違和感を覚えた洸希が声をかけると、遥は『ハッ』としたように振り返り、ニタリと不気味な笑みを浮かべた。
「わたし……湖にいかなくちゃ。未来の為に――」
その笑顔の瞳は、丸く見開かれた黒目に、湖の静かな水面が不気味に映り込んでいた。




