プロローグ 捨て場
――やめて! お願い、やめてぇ!
かつて——まだこの村が小さな漁村だった頃。
湖畔にひっそりと水鏡湖は、横たわっていた。
この湖は海の近くにあり、川を通じて海水とつながっていたため、ごく稀に水位が下がり、湖面が鏡のように光を反射することがあった。
その景色はとても美しいもので、水鏡湖は村人たちに親しまれた絶景ポイントだった。
干潮時には水面が鏡のように光り、風に揺れる水面には空や山並みが映る。
村人たちは、湖畔で弁当を広げたり、子どもを遊ばせたり、穏やかな日々を楽しんでいた。
その湖はただ美しいだけの場所ではなく、人々の息遣い、笑い声、そして小さな秘密を映す鏡でもあった。
水面を覗き込めば、そこには自分の影だけでなく、ほんの少しの未来や、触れることのできない過去の残像さえ映るような、不思議な力を秘めていた。
村長の娘と、同じ村の若者は、身分違いの恋を隠しながら、この湖畔で逢瀬を重ねていた。
二人の時間は、湖面の光のように儚く、しかし確かに温かかった。
しかしある日、噂は村長の耳に入り、月明かりの下、怒号が夜の湖畔に響いた。
「娘はお前などにはやらん!」
村長の叫びと共に、村人たちは若者を取り囲んだ。
木の棒が背を打ち、鋤の先が頭を叩く。
「やめて! お願い、やめてぇ!」
娘は泣き叫び、必死に駆け寄ろうとするが、腕を掴まれ動けない。
やがて若者の身体は血に染まり、地面に崩れ落ちる——まるで存在そのものが消えたかのように。
「し、死んだ……のか」
動かぬ体を前に、村長は震えた。
村人たちの一人が低くつぶやいた。
「……息は、もうねぇな」
その声に、村人たちもざわめき、恐怖と後悔が混ざった空気が湖畔を包む。
誰もがその目に映る光景に心を縛られたままだった。
「どうしましょう? 村長」
「わたしら……わ、悪くないですよね?」
「……きゃあぁ、いやぁあ!」
娘は取り押さえていた村人を振り払うと、彼のもとへ駆け寄り、変わり果てた姿になってしまった愛する男の屍を抱きかかえ泣き崩れた。
声は夜に吸い込まれ、湖面に反響する。
涙で濡れた頬は月光に輝き、哀しみが形となってその場を濃く染めた。
娘の手のひらに残る温もりの記憶と、目の前に広がる冷たい現実の差に、心は引き裂かれるようだった。
目の前での惨劇に一度は停止した村長の思考が、動き出す。
「いいか! これは事故だ! よって誰も悪い者などおらん」
その一言に、村人たちも「そうだ、そうだ」と頷き始めた。
その様子に満足げな村長は、さらに恐ろしい言葉を口にする。
「なにも……なかった。よってこの男の遺体はどこかに隠すのじゃ」
言いながら、村長はあたりを見回す。
月夜の晩、キラキラと湖面に移る淡い光が、村長には道しるべに見えた。
「水鏡湖だ! あそこに沈めれば、跡形もなく消える……」
――縄で縛られた若者の身体は、黒く深い湖面に押し込まれ、波紋が消えると同時に存在すらも消えていった。
娘はその闇の中に手を伸ばしたまま、泣き崩れた。
それから娘は食も取らず、声が枯れるまで泣き暮らした。
毎夜水鏡湖へ足を運び、干潮の夜、鏡のように光る湖面に彼の姿を探し続ける日々——。
手を差し伸べれば届きそうで、しかし決して触れることのできぬ幻。
水鏡湖は彼女の祈りを映す鏡となり、心の奥底の絶望まで映し返した。
やがて、若者の両親が息子の死を知ると、悲嘆と憎悪に駆られ、夜ごと村人を襲い、次々と命を奪った。
犠牲者はすべて水鏡湖に沈められ、湖は次第に深い怨念を蓄えていく。
暗闇に潜む視線、沈められた魂たちの囁きが、水面を通して夜ごと村に届くかのようだった。
両親は村長にも復讐を企てるが、溺愛する娘の命を奪うことで、失った息子の怒りを慰めようとする。
湖畔で泣き暮らす娘は、両親に向かって静かに言った。
「わたしは喜んで、彼の元へ行きます……」
そう言うと、彼女は誰の手も届かぬ湖に身を投じた。
波紋が消え、黒い湖面が静かに戻ると、両親もその背を見届け、自らの意思で湖に沈んでいった。
水鏡湖は、その身を受け止め、泡と共に闇へ沈めていった……
キラキラと輝く水鏡湖は、いつの間にか村人たちから「捨て場」と呼ばれるようになった。
不要なもの、罪人、事故や事件の犠牲者——すべては黒く深い水面に押し込まれ、波紋と共に姿を消していった。村人たちは最初こそ恐怖を感じたが、やがてそれを当然の作法として受け入れ、湖は秘密と怨念を内包する場所となった。
以来、水鏡湖はただの湖ではなく、沈められた者たちの怨念が漂う場所となった。干潮で水面が鏡のように光るとき、そこに映るのは、まだ見ぬ災いが映るという——未来の自分の姿……
湖畔を訪れる者は知らぬ間に呪われ、静かな水面に潜む視線を感じるのだった。風が木々を揺らすたび、湖面がわずかに揺れ、まるで沈められた者たちが今もこちらを見ているかのように——
波紋が広がるたび、過去の悲劇と未来の恐怖が同時に押し寄せ、湖は決して人を逃がさない。
やがて、その絶望は孤独と混ざり、湖に呼応するかのように暗く、冷たい怨念となって膨れ上がっていった。
夜が深まるたび、湖は新たな影を呼び、訪れる者の心にじわりと恐怖を刻み込む——暗い水面の向こうで、次の惨劇の兆しが静かに揺れている。
水鏡湖――光と闇、愛と憎悪、そして絶望が重なり合うこの場所で、何が待つのかまだ誰も気づかない……