1日目
足音を殺しながら、周りを警戒して歩く。
扉を押して外に出ると、生暖かい風が少年の頬を撫でた。
しかし、外に出たからといって安心はできない。
ここからは、少年にとっては険しい道を進まなければいけない。
何と書いてあるか分からない看板の前で気合をいれ、一歩一歩慎重に、少年は山道を歩いていく。
この道は元々山の『散歩道』であるが、今はそれ程人気がない。
一週間に2.3人程しか訪れないので、少年がこっそりと来るには絶好のスポットなのだ。
もっとも、少年はそんな事は知らずに来ているのだろう。
目的の場所に着いた時には、少年の息は上がっていた。
右手に持っているものを地面に置いてから、両手を膝に置き、前屈みになりながら息を整える。
最後に深く深呼吸をしてから、古い木のベンチの前で、体育座りをして地べたに座った。
ベンチに座らなかったのは、苔が生えていて汚れそうだと思ったからだ。
先程置いたA4のスケッチブックを取った時、自分の口角が上がった事が分かった。
だが辺りを見回してみても、中々描きたいものが決まらない。
後ろを振り向き、座るのをやめたベンチに目を向ける。
「かいてみようかな…」
「何を描くの?」
突然視界に、制服を着た少女が現れた。少年が驚いて声が出ない間に、少女は隣まで歩いてくる。
「となり、座ってもいいかな?」
優しく問いかけたが、少年は質問を質問で返す。
「お、おねえさんだれ?」
少年・少女、と呼んでいるが、見た目からして少年は小学2,3年生。少女は高校生ぐらいだ。
クスッと笑ってから問いに答える。
「君を連れ戻しに来た人…?」
少年は勢いよく少女の方へ体の向きを帰る。
「あははっ!うそだよ。うそ!」
「な、名前!は?」
声が裏返っているのは、少年が勇気を出したという証拠だ。
少女は考え込む。
「うーん。名前かぁ。んー…」
「言いたく、ないの?」
「そういう事ではないんだけどねー。ただ単に名前がないだけで」
「名前がない?…なんで?」
「ない、というか…知らない、かな」
「変なの」
首を傾げている間、少女は顎に右手を添えて、考え込んでいた。
「あっ!そうだ。私の事はおねーちゃんって呼んで」
「お、おねーちゃん?」
そう呼ぶと、少女は嬉しそうに笑ってから隣に座った。
「君の名前は?」
「…好璃」
だいぶ小さな声で答えた。
「このり?いい名前だねー」
「なんで?女の子みたいな名前じゃないか」
少年は少女の返答にかみつく。
「その名前にどんな意味が込められているか、君は知ってる?」
少女は不思議な空気を纏っている。もう少年の緊張を解いてしまったのだ。
「…知らない」
少年は少し拗ねたような口調で答えた。
「絶対に素敵な意味が込められてる。それを知ってから嫌っても、遅くないよ?」
「分かった、聞いてみる。…でもこめられてなかったら?」
「その時は…私が慰めてあげる」
悪戯な笑みで答える。
「おねーちゃん、からかってるでしょ」
「バレてしまったか」
右頬に笑窪をつくり、少女は笑った。
「お母さんといっしょだ!お母さんも、笑うと右だけえくぼができるんだ」
少女は自分の右頬に手をやると、今度は幸せそうに笑う。
「ほんと?君のお母さんと一緒だ」
驚いてしまう。少女の笑った顔が一瞬だけ、自分の母親に見えたからだ。
「お、おねーちゃんは、こんなところで何してたの?」
なんとなく焦ってしまい、早口で言い返す。
「え~?君に聞かれたくないなー。病院を抜け出して、絵を描きに来たきみに」
「だって、しょうがないじゃないか。病院から見える景色は飽きちゃったんだから」
「絵、私に見してよ」
少年は照れながらスケッチブックを渡す。見せるのに抵抗はないが、照れてしまうのだ。
「あ、夕焼けだ。すごいね、色が無くても分かる。こっちは花?何て名前の花なの?」
「たしか…ガーベラ?」
「きれいな花だね。しかも絵、すごい上手」
「も、もういいでしょ」
照れに限界がきたのか、少女からスケッチブックを取り上げる。
「あらら、ざんねん。」
あまり残念そうに見えない顔だ。
少年はそっぽを向いていたが、突然声を出して立ち上がる。
「そろそろかえらなきゃ。…おねーちゃんもかえろうよ」
「もしかして、こわいの?」
「ち、ちがうよ!ついでに、いっしょにかえろうかなって思っただけ!」
本当は今まで楽しく話して居たのに、これから一人で帰るのは怖いと思っているが、それを隠して少年は言い返した。
「まぁいいや。一緒に帰ろっか。はい」
「や、やめてよ!一人で歩けるから!」
少年をおんぶして帰ろうとしゃがんだ少女は、立ち上がり手を差し出す。
「私がしたいだけなのにな~。じゃあ、手を繋ぐのはいいかな?」
「それなら…いいよ」
2人は手を繋いで山を下りた。