12話【悪魔は不敵に笑う】
リーリィは、自分が一体どこの誰であるのかよく覚えていなかった。
物心ついたときには、確かに親がいて、名前を呼んで貰った記憶はあるのだが。
いつしか、そんな親の顔すらもおぼろげになってしまっていた。
気づけばやけに暗い部屋にいて、長い時間をそこでひとりきりで過ごしていて。
それがずっと続くのだろうか、だとしたらいやだなと、ぼんやりと考えていたときだった。
そんな孤独を打ち破り、自分を外の世界に連れ出してくれた人が現れたのは。
その人は、ドンドという名前だった。
体が熊みたいに大きく、その手もとても大きく、そしてとってもあたたかかった。
この手を離したくない。
自分に残されたわずかな感情が、必死にそれを訴えていた。
だから、認めることはできなかった。
彼が離れて行ってしまうのを。
仲間を守るために、ひとりきりで駆け出していくのを止めたかった。
彼の優しさに、思いが深くなるのを感じながらも、なにもできない。
自分はなにもできない、あの人のことを守りたいのに、一緒にいたいのに。
またひとりになってしまう。
そんなのはいやだ。絶対に、いやだった。
『ならば、呼べ……』
そんなとき、誰かの声がした。
『求めろ……ただそれだけで、お前の願いは叶えられる……』
それが一体誰の声なのか。
聞いたことがあるような気もしたが、そんなことはどうでもよかった。
ただ、あの人を守れるのなら。
(たすけて)
リーリィは、願った。
(たすけて!! わたしの大切な、あの人を!!)
強く、強く、心の叫びを、世界に解き放った。
そして――――
*
その場に現れたのは、まぎれもなくただの、か弱そうな少女。
長い銀髪を風になびかせ、真紅の瞳でこちらを見据えるその子をドンドは知っていた。
「リーリィ、ちゃん……?」
ドンドは彼女の名前を呼んだ。
確かに、そこにいたのはリーリィ本人に間違いなかった。
なぜここに来たのか、ジェイコブやマルスたちはどうしたのか、モンスターに遭遇しなかったか。
聞きたいことはいくつも思いついたが、なぜかドンドは問いかけることを躊躇った。
なぜなら、彼女の雰囲気がいつもと違っていたからである。
おどおどして顔を俯かせることはなく、不安げにこちらを見つめる様子もない。
背筋を伸ばして凛と立ち、堂々とした様子で腰に手を当て、真っすぐに目線を前に向けている。
おかげでドンドは一瞬、よく似た別人かと思ってしまった。
そして。ふいにその少女は口元を綻ばせたかと思うと、
「あーっはっはっは、はははったら、あはははぁ!!」
高らかに笑いだした。
心底おかしそうに顔を綻ばせ、屈託のない様子で大笑いしている。
今までの彼女とは、まるで違うその仕草にドンドは面食らってしまう。
「いやあ、あぶないとこだったみたいだねえ。ドンドお・に・い・ちゃん?」
「え、あ、えっと。ほんとに、リーリィちゃん、だべか?」
「そうだよぉ。ぷぷっ、それにしてもそのカッコ、蓑虫みたいじゃん。体ボロボロだし、だいじょうぶー?」
なんとも明るく朗らかなそのさまに、ドンドは目を白黒させてしまう。
「せっかくだから、傷を治すついでにちょっと休んでるといいよ」
「は? 傷を治すって、一体」
「眠って・すっきり」
リーリィの指先が光った、かと思った直後。
ドンドは急激な睡魔に襲われ、意識をあっさりと手放すことになった。
*
オグトパスはやや困惑した様子で、その様子を見ていた。
仲間が助けに来たかと思うと、妙な魔法で男のほうを眠らせてしまったからである。
「なんなんだ、あの娘は。コイツの仲間なのは知っているが、あんなキャラだったか?」
リーリィは、そんな戸惑いなど意に介する様子もなく。
周囲の木々をすり抜けるようにぱたぱたと走り回ったり、
倒れた木をぴょんぴょんとジャンプして跳び越えたりなどして、呑気に遊びはじめる。
「お、おいそこの娘!」
見かねたオグトパスが声を張り上げて呼びかけると、
リーリィは素直に立ち止まり、カクンと可愛らしく首を傾げさせつつ、目線を合わせてくる。
「はーい、なにか用? ピンク鎧のお兄さん。名前はたしかえーと、オクトパスとか言ったっけ?」
「オグトパス、だ!」
「えー? どっちでもいいじゃん。そんなこと」
「そんなこと? このぼくの高貴な名前を、そんなことだと!」
「あれ。お兄さん、細かいこと気にしすぎるタイプ? そんなんじゃ、女の子にモテないよ? 顔が良くてモテなかったら、相当性格がアレだって気づいてる? ねえねえ」
そんなからかいを口にして、ケラケラと可笑しそうにするリーリィに対し。
オグトパスは、まさにタコのように顔を赤くさせ、耳障りなほどの歯ぎしりを響かせた。
「な、な、な……! こ、ここまで侮辱されたのは初めてだ! もういい。女性にも子供にも優しいぼくだが、無礼なヤツは大嫌いでね。お前ら、すこし痛めつけてやれ!」
その叫びを聞くや否や、神官たちはすぐさまリーリィに向かって跳躍し。
勢いそのままに、手にしたメイスや錫杖を振りかぶらんとした。
「きゃー、かよわいレディをそんなおおぜいでなんて、サイテー! そんなサイテーな人たちは……」
「風でも喰らって・はじけ飛べ」
リーリィがそう言って、掌を正面にかざした直後、
三人の神官は突如、見えない壁にぶち当たったかのように後ろへ跳ね飛ばされた。
「なっ。なんだ、今のは。魔法か……?」
オグトパスは呆気にとられた様子で、眉間にしわを寄せる。
「よくわからないが、何かしらの加護持ちなのは間違いないらしいな。おいケルベロス! なにをボサッとしている、加勢しないか!」
オグトパスのその一喝で、唸り声をあげて様子をうかがっていたケルベロスも、おずおずとではあったが前に歩み出る。
「へぇ、ケルベロスかあ、懐かしいなあ。以前見たのよりだいぶ小さいけど。もしかして生後間もない赤ちゃんかな。だとしたら、気が引けちゃうかもー」
しかしリーリィは、ケルベロスの姿を意に介するどころか、むしろ弾んだ声で返し。
挑発的に両腕をまっすぐ前にして、
まるで子犬が胸に飛び込んでくるのを待ちわびるかのような体勢で、受け入れようとしていた。
「どうしたの? 遊んであげるよ。ほらほら」
そうした一連の仕草に、さすがにプライドを刺激されたのか、
ケルベロスは勢いよく駆け出し、何度か右や左にフェイントを混ぜながら、
リーリィを嚙み砕かんと、みっつの顎を大きく開かせながら突進していった。
そして、
「はい、お手っ!」
リーリィは、ケルベロスが眼前に飛び込んで来るタイミングでぴょんとかるく跳躍し、
ケルベロスの右前足に思い切り、自身の踵落としを叩きこみ、地面にかるく陥没させた。
その拍子に、バキボキと骨が折れる音が響く。
「はーい、おかわりっ!!」
さらにそこから、リーリィはそのままくるりと中空で一回転し、
今度は左前足めがけて改めて踵落としをお見舞いし、そちらも地面へとめり込ませる。
「グギャアアアア!」
一拍遅れて激痛を感じ取ったケルベロスの悲痛な叫びに、森の虫や鳥たちが震える。
オグトパスも、ぱくぱくと金魚みたいに口を上下させ、わずかに脚を震わせていた。
「あ、ごめん。さすがに強すぎちゃったかな?」
ぽりぽりと額をかくリーリィの様子に、
ケルベロスはフーフーと息を荒くさせながら、急いた様子で残った後ろ足を動かし、跳躍する。
「? あれ、ちょっとワンちゃん?」
そしてケルベロスは、そのジャンプでなぜか後ろへ飛び退り。
先程の衝撃でまだうずくまっていた神官たちの近くへと着地する。
そのままべろりと舌なめずりをするや否や、三つの首それぞれが、三人の神官めがけて大口を開けた。
「え、な、なにを!」
「ひ、ぎゃあああ!」
「あぎいいいいい!」
そして、そのまま容赦なく神官たちに噛みついた。
オグトパスが我に返り静止の声をかけようとした時には、もう手遅れだった。
ケルベロスが顔をあげると、もうそこには血に塗れた彼らの武器しか残されていなかった。
「へーえ。神意の高い人間を食らって、傷を癒すなんて。頭イイんだね、飼い主とは大違い」
そんな血生臭い現場を目の当たりにしてなお、リーリィは顔色ひとつ変えずただ冷静に分析する。
そしてその言葉の示す通り、ケルベロスの両の前足の砕けた骨は徐々に元通りになっていった。
「このっ、バカ犬が! やはり人の肉の味を覚えさせたのは失敗だったか」
一方、ケルベロスの凶行にオグトパスはわなわなと怒りに震えながらも。
今はそれを脇に置き、目の前にいる少女の姿をした化け物について、考えを巡らせるのが先だった。
「しかし、おかしい……おかしいぞ。例え女神の加護といえど、適性武器も持たず、あそこまで無法に身体を強化できるわけがない」
女神の加護の種類は人によって様々あるが、それが万能ではないことをオグトパスは知っていた。
オグトパスは大剣。ドンドであれば斧。神官たちは錫杖など。
女神の加護は適性にあった武器を持つことで、怪力を発揮したり、魔法を操ったりできる。
だがしかし、リーリィはそれらしき武器をなにひとつ持たない手ぶらの状態であり。
オグトパスはそこに確かな違和感を感じ取っていた。
「それに、魔法にはそれなりに長い詠唱が必要な筈。三人もの人間を跳ね飛ばすほどの威力なら尚更だ。なのに、なぜ」
ぶつぶつと思考に集中していたオグトパスは、ふいにハッと息を呑む。
「いや待て。知っている。知っているぞ。女神の加護なしに魔法を行使でき、驚異的な身体能力を持つ存在……。ま、まさか。まさかまさか!」
知識を総動員し、自身の記憶の糸を手繰り続けたオグトパスは、
王宮の図書館で調べ物をした際に目にした、古い文献に記載されていた文言を思い出した。
王国の、いや、世界の禁忌とも呼ばれ、恐れられるその存在はーー
「”悪魔憑き”…………!」




