第74話 ただ、同じ道を歩む
穢れた沼を歩む。
いくら時が立とうとも慣れぬ腐れた水の匂い。
そのような場所で一夜を過ごし、さらに進む。
私たちの背後にはシュルマ。
彼女は何を思ったのか、私たちから一定の距離を保ち、ついてくる。
カリンは何も言わない。
だから、誰もシュルマに問い掛けない。
知人であるツキフネが彼女へ水と食料を渡そうとしたが、受け取ろうとはしなかった。
仲間ではないが、今は共に同じ道を歩む。
歩むならば、離れた場所では危うい。
ここから先は……。
「シュルマ、私たちの後を追うならば、もう少し近づけ」
「私はあなたたちの仲間ではない」
「そういった意味で言っているわけではない。ここから先は番人がいる。私以外に襲い掛かる番人が。あれを見ろ」
私は細道を挟む沼に指を振った。
沼地の中から大小の淀んだ黒の瞳がこちらを見ている。
瞳の姿を見たシュルマが疑問符を纏う。
「あれは?」
「大きさの違いあれど、あれらは腐龍たちだ」
「腐龍!? ドラゴンゾンビ!? そんなものが……この数、十や二十ではありませんよ」
「だから、近づけと言っているんだ。私としては君が襲われたとしても問題ないがカリンがうるさいんでな」
「カリン……チッ」
「それに、こんな近くで腐龍に暴れられては私たちもただでは済まない。だから、もう少し近づけ。お互いの安全ために」
「…………くっ」
シュルマは不承不承と荷台の後方についた。
荷台の近くに立っていたラフィは周りを囲む腐龍に顔を顰めている。
「ぞっとしませんね。一匹で並みの龍の二匹分の強さを誇るという腐龍に囲まれているなんて」
「安心しろ、主である私がいる限り、あいつらは襲ってこない」
「そう言って、魚には襲われたではありませんか」
「あれは何かの間違いだ。おそらく、魚の小さな脳みそでは今の私を私として認識できなかったのであろう」
「腐龍の脳は大きくても腐れているのではありません?」
「それは…………ともかく、こうして襲ってきていない。つまり、私を私として認識しているということだ」
すると、ヤエイが深紅の瞳で遠くの腐龍を捉えながら不安を口にする。
「あれは認識しておるのかのぉ~。観察しているように見えるがの。あいつ、マジでアルラなのかよ? どうなんだよ~? という風にな?」
「そ、そんなことはないと思うが……」
リディが言葉に怯えを乗せる。
「どちらにしろ早くここを抜けましょうよ。臭いですし。匂いが体に染み込みそうですし」
「たしかに長居したい場所ではないな。貫太郎、速度を上げるぞ」
「もも!」
貫太郎の足の速度が上がる。私たちも歩む速度を上げるのだが、それに合わせるように穢れた沼に潜む腐龍たちも静かに沼の中を移動し始める。
ヤエイの不安は当たっているのかもしれない……リディの言うとおり、早く抜けた方が良さそうだ。
一番後方では、シュルマが槍を支えについてくる。
その姿を見たカリンが彼女へ声をかける。
「手を貸そうか?」
「必要ありません」
「じゃあ、せめてこれを」
カリンはシュルマへ近づき、水と食料の入った袋を押し付ける。
「見たところ、手持ちの食料と水が心許ないみたいだし、これを食べて早く回復して」
「ふざけないでください! 影の民の慈悲などに縋る気は――」
「これは慈悲じゃない。現実としての算段」
「……何を言っているのですか?」
「おじさんは大丈夫だと言ったけど、見ての通り、腐龍は後をつけてきている。この先何が起こるかわからない。その時に、あなたを戦力として数に入れておきたいの」
「私に影の民と与しろと?」
「いえ、仲間になれとも仲間だとも言わない。これは、万が一の時に生き残るための協力。それだけ」
「私は教会騎士。影の民と協力など……」
「あなたが帰らず、ついてきたのには何か目的があるんでしょう。その目的を果たすことが最優先じゃない?」
「む、ぬぅ……」
「わかったらちゃんと食べて。そして、あなたの心で、私たちを判断して。誰かに与えられた価値観じゃなくてね」
シュルマの胸に食料の入った袋をぐっと押し付けて、カリンはその場から離れて行く。
その様子を見ていたツキフネがシュルマへ話しかける。
「妙な少女だろう」
「影の民ですからね」
「私の言葉の意味がそうでないことはわかっているだろう、シュルマ」
「黙りなさい」
「カリンの瞳に怒りはない。教会騎士への恨みはない。人間への憎しみはない。迫害を受け続けて何度も絶望を味わってきたであろうにな」
「黙りなさいと言ったはずですよ、ツキフネ」
「お前の生真面目さは長所であり短所だな。しかしだ、私はお前が曇りなき眼で人を見つめることのできる女だと知っている。なにせ、オーガリアンである私を友と呼んだ女だからな」
「あなたと、影の民は違う……」
「どちらも、人間から疎まれる存在だ」
「オーガリアンは教えの敵ではありません」
「お前が私を友と呼んだのは、教えの敵ではないからか?」
「それは……」
「シュルマ、お前の心が私を友と思ってくれたのだろう。教えというのは心の指針と成り得るが、心そのものではない。お前はその曇りなき眼で、カリンを見つめてみるといい」
ツキフネは言葉を残して去ろうとする。
しかし、小さな声が、彼女の肩を掴む。
「影の民……あなたは、カリンという娘を随分と買っているのですね」
「まっすぐな子だ。だが、まっすぐすぎる。だから不安もある。私は命を救ってもらった礼に、その不安を取り除く剣となりたい」
「やはり、入れ込んでいますね。ですが、世界を破滅に追いやれる力を持つ影の民。その隣には、かつて人間の国を亡ぼす一歩手前まで追いやった魔王アルラ。この二人の存在を信用しろというのは土台無理があります」
「そうだな。だからこそ気になり、ついてきたのだろう、シュルマ」
「……ええ」
「ならばこそ、曇りなき眼で彼女を、彼女たちを見ろ。歩む先に何があるのか……」
「言われなくとも監視するつもりです」
「ふふ、やはり生真面目だな、シュルマは。だが、お前がついてきてくれるなら助かる部分もなる」
「助かる? 何がです?」
「魔王アルラの存在だ。あいつの意志……いや、心がどこあるのか……いや、これも違うな。定まっていないと言うべきか? ともかく、これは大きな不安材料だ。だが、お前がいてくれれば、助けになる」
「私を利用しようという訳ですが。しかし、私ではあれには勝てない」
「負けず嫌いのシュルマが殊勝なことだ」
「負けず嫌いはあなたですよ、ツキフネ。あなたは何度、私に戦いを挑んだと思っているのですか?」
「ふふ、これは藪蛇だったか……勝てぬともいい。戦いに勝てぬともいい。ただ、アルラの中に潜む空虚を満たす助けが必要なのだ」
「空虚? なんですか、それは?」
「さぁ? それがわからぬから困っている。ともかく、私はお前を歓迎するぞ、シュルマ」
踵を返し、ツキフネは歩き出す。
遠ざかるの背中にシュルマは小さく声をぶつけた。
「だから私は、仲間になった覚えは……」
軽く頭を横に振り、シュルマもまた歩き始める。