三、荒野と、猿と、ガソリンの香り。
三ノ序、
きっかけが何だったのかは、わからない。
オレなりに起こったことを、冷静に整理してみようと思う。
異常なことが起こってしまったら、それがどれだけ冷静さを失わせるようなことだったとしても、
…結局は、冷静になるしかないのだ。
三、
いま、オレは見渡す限り、赤い地面と砂塵の広がる荒野に立っている。地形はかなり高低差に富んで、遠く霞んで緑色の山々も見えるが、もしかしたら蜃気楼なのかもしれない。
跪いて地面の土を掴み、赤い土塊を指先で抓みながら指を動かす。水分の少ない土は、すぐにボロボロと崩れてしまう。指先に付いた土の匂いを嗅ぐ。なんとなく赤錆の臭いがした。
手を当てて耳を澄ませてみると、どこかで微かに獣の啼く声が聞こえる。複数の獣の啼き声だ。おそらく、狩る方と狩られる方だろう。狩る方のホウホウホウ…という集団で追い立てる声。狩られる方のピィー…という長く響く物悲しげな声。啼き声はだんだんか細くなって、やがて途切れた。そして、狩る方のホゥアキャァ…という雄叫び。集団で高らかに歓びを謳い上げている。耳を澄ませてみて、一つ分かったことがある。
『ここ』には、徒党を組んで一頭の獲物を狩る、猿のような生き物がいるらしい。
…しかも、ここからそんなに遠くではない。
空を見上げると、ギラギラの太陽が空のてっぺんよりも、少しだけ東側に傾いている。
上空に薄い雲のたなびいている空は、今までに見たこともないほど天高く、青く、そして濃い。
空気の微粒子に、微かになにかの臭いが混じっている。あまり嗅ぎなれない臭いだったため、オレはなんの臭いだったか、思い出すのに時間がかかった。
死んだ生き物の体から放たれる臭い、いわゆる死臭という奴だ。
つなぎの作業着の上半身部分を脱いで腰で結んだオレは、汗をダラダラたらしながら右手を前に出し、つぶやくように言った。内心で、そうじゃなかったらいいのに、という願いを込めながら。
「ブック…。じゃない、メニューオープン…」
ブン…という機械音のような音を響かせて、オレの目の前の空中に、四角くて厚みがないモニターのような物が出現する。
モニターの中には、昔のロールプレイングのように黒い『メニュー画面』が映し出され、白文字で様々な情報が表示されている。
HP/MP、ATK、DEF、INT、RES…。
画面上には、ゲームでよく見るような英語の略語が並んでいる。
思った通りだ。
死んだような目。オレは、思わず片手で顔を覆う。
「やっぱ異世界かよ…」
そう呟きながら見上げた空は、異質なほど青く、不安になるほど高く、そして、どこまでも広かった。
+++
所謂『異世界モノ』の常識なら、こういう時には『大賢者』や『女神様』が現れて助言なり指示なりを与えてくれるものだが、そういうものはオレの前には現れなかった。どうやら、オレが飛ばされた『この世界』は、全く優しくない方の異世界であるらしい。
「ユーザーフレンドリー、じゃねえな…」
つぶやきながらも、オレは一つの事実に気付く。
…ということは、普通に命の危険もあり得る、ということか。なんてことだ。36年間マジメに生きてきたつもりなのに、いきなりなんの意味もなく、異世界に飛ばされるなんて。
それにしても、年齢36歳で、ゴミの片付け・リサイクル業者のおっさんを異世界転生させて、何になるというのか。最終的に世界を救うのかどうか知らんが、もっと高校生とか大学生とか、イキが良くて若い者を転生させた方がいいのではないか。
「転生じゃなく『転移』、かな。…どっちでもいいか」
また、つぶやくオレの前には、相変わらず『神』も『女神』も、どっちも現れない。
…どうやらオレは、突然飛ばされたこの異世界で、オレ自身の判断に従って生きていくしかないらしい。
徒党を組む猿のような獣達の足音に耳を澄ませながら、オレは風下方向へ移動を続ける。猿達がどうやって獲物を感知しているのかは知らないが、だいたいの生き物は匂いで探知するだろう。風上方向に逃げれば、風が運ぶ匂いで猿達に悟られてしまう。そう考えて風下方向に移動しているのだが、それが正しい判断なのかは分からない。
猿達が通った場所の近くからは、強烈な形容し難い獣臭がする。もしかしたら風下にいれば、風上から猿達の臭いが漂ってきた時に、気付いて逃げられるかもしれない。地形が複雑なので風向きが変わりやすく、常に自分が風下側に立てるとは限らないが、そこは運しかない。
気付けば、太陽は空のてっぺんにまで上りきっている。
念の為に、『メニューオープン』でメニュー画面を確認してみる。しかし、ステータスの中に『LUK』という項目は無かった。
オレはメニュー画面を消し、自分の足で歩き出した。いつだって、そうするしかなかったじゃないか。
「暑い…」
思わずオレはつぶやく。
決意して歩き始めてから、20分も経っていない。
近くの岩の日陰に入り、岩に体を預け、座り込んで足を伸ばす。岩の日陰の中は涼しく、影の中の空気はなんとなく水分を含んで、ほてった肌に気持ちがいい。しかし、その周りの空気全てが常に太陽に熱されているので、やはり暑い。
「…っ暑い!」
つぶやきが少し強めになる。
実際、声を出しても暑いのは変わらないし、声で猿達に見つかる可能性も上がってしまう。それでも、オレは暑いと言わずにはいられない。
苛立ち紛れにワークブーツを脱ぎ、逆さにして中に入った砂や小石を落とす。ワークブーツは、レッドウイングの赤いアイリッシュセッター。学生時代に買ったものを、直し直し大事に履いているものだ。異世界にまで着いてきてくれるとは、孝行者のアイリッシュセッターよ…。
「…ん?」
その時、ふと、思いついた。
「メニューオープン…」
ブン…という機械音を響かせて、目の前の空間にメニュー画面が表示された。画面の中には、攻撃力や防御力などを意味する様々な情報とともに、アイテム、装備品、そして装備適正の欄もある。現在『アイリッシュセッター』は手に持っているのでアイテム欄に表示されている。
『アイリッシュセッター』を両足に履くと、ピッ…という音とともに装備品欄に『アイリッシュセッター』が追加され、装備適正欄に数値が表示された。オレと『アイリッシュセッター』の適正は100%を超えていた。
逆に、あまり大事にしているとは言えない『作業ツナギ』は92%となっている。穴が空いたまま履いている『靴下』は56%…。
「なるほどねー、100%が基準なのかな」
オレは岩陰に体を預けるだらけた姿勢のまま、メニュー画面上の情報を確認する。こんな状況だが、オレはできるだけ体を休めようとする。こんな所で脱水症状を起こしたら、助からない。
ピッピッピッ、という軽快な電子音を立てながら、オレはメニュー画面を操作し、様々な情報を確認する。設定欄で画面編集などもできるらしいが、いまは必要ない。生き延びるために役に立ちそうなことを探す。今のオレには、このメニュー画面だけが、異常な状況に立ち向かう為の唯一の術に思えた。
「職業『レベル1召喚士』…。今年36なのに、この世界じゃレベル1か。召喚士ってなんだ?」
日が傾いて少し岩陰が長くなったおかげで、体全体が陰に入ることができ涼しくなったお陰で、少し頭がマトモに働くようになってきた。ゲームの召喚士はモンスターを召喚できるが、オレは何を召喚するのだろう?
メニュー画面の『召喚』という項目を開く。
「おおっ!」
その中の記載内容を見て、オレは思わず喜びの声を上げた。
「いやーいいねぇ。自由だねぇ」
思わず、お気楽なセリフが口から出た。
オレは風に頬をなぶられながら、赤い砂の大地を疾走している。頭には中谷さんから頂いたHONDA純正ヘルメットを被っている。そして、オレが跨るのは、同じく中谷さんから頂いた、鮮やかな黄色いボディのHONDAクロスカブ110。
クロスカブは、黒いタイヤで赤い大地を削りながら、エンジン音と排気音を立ててぐんぐん走っていく。その風を受けて、ついさっきまで岩陰に体を預けて暑さを凌いでいたとは思えないほど、いまオレの体は軽い。
数分前、メニュー画面上の『召喚』欄を確認した時、オレは、そこに記載された召喚可能なものの中に『HONDAクロスカブ110』という名前を見つけた。他にも、DAIWA製のリールやロッド、ジッポライターなども召喚可能なものに加えられている。アイリッシュセッターや作業ツナギなど、現在の装備品も召喚物だったらしい。
みんな、異世界までオレに着いてきてくれたのか。オレは、思わず喜びの声を上げた。
しかし、一旦、冷静に考えて、オレはメニュー画面の別の項目を開く。うれしいことの直後に嫌なことがセットで起こるのが今までのオレの人生パターンだった。自分でフラグを立てないためにも、オレは油断なくメニュー画面上に目を配る。
「えーっと、召喚士の召喚の条件は、と」
メニュー画面を素早く操作して、召喚の条件が記載されているところを見つける。
その条件は、要約すると以下のようなものだ。
1、自分が直した物、手を加えた物を召喚できる
2、愛着があるもの、大事に扱う物程強くなる
3、召喚する、帰還させる度にMPを消費する
4、召喚を継続する場合、そのMPは回復しない
他にも細々と書かれてはいるが、とりあえず召喚するに当たって、生贄的なものとか回数制限などはないらしい。シンプルに、MPが足りていれば召喚することはできる。ただし、条件3と4が問題だ。
オレに与えられた職業、『レベル1召喚士』は、召喚するだけじゃなく、帰すのにもMPを使うらしい。
もし仮に召喚するだけで自分のMPを0にしてしまったら、召喚物は帰還させることができない(条件3)。そして、召喚物を召喚した状態を継続すると、その分のMPは回復しない(条件4)。
つまり、調子に乗って一度に召喚しすぎると、別の物を新しく召喚できないし、召喚物を帰還させられないし、自分のMPも回復しないってことになる恐れがある。
最悪、異世界まで召喚物として着いてきてくれた愛用品達を、召喚物ではなくただの物品に戻した上、自分のMPの容量を削り弱体化させることにもなりかねないわけだ。
「なるほどね。MP上限値が十分に上がるまで、召喚の乱発は控えた方が良さそうだな」
召喚のリスクは分かったので、そこにだけ気を付けて、とりあえず使ってみる。
「ふむ…。クロスカブの召喚MPは30、ヘルメットは5か。オレの今のMPが装備品の分を差し引いて175。…十分いけるな」
一通り条件を確認したオレは、右掌を地面に向けて言った。
「来い、『クロスカブ』!」
そしてオレは現在、召喚したHONDAクロスカブ110で疾走している。やっぱり二輪はいい。体に直接風を感じられる。さっきまで謎の猿達の足音に怯えていた自分が嘘のようないい気分だった。
いま、周りにはクロスカブが立てる音以外には、風の音しか感じない。まるで、風と二輪が一体化して、自分を運んでいるような疾走感。そして、映画『ヤングガン』の主題歌が似合いそうな広大な風景。
赤い大地は果てしなく続き、青い空はとてつもなく大きい。それに、まだ疎らではあるものの地面の上に徐々に丈の低い草が生え始めている。赤い砂塵の荒野で最初に目覚めた場所と比べたら、路面状況は格段に良くなっている。
それでも、ゴツゴツとした固い地面でクロスカブのタイヤを傷つけたくないオレは、時速30キロくらいでゆっくり安全に走っていく。
「なんか、こういう赤い大地を二輪で走ってると、プリミティブっていうか、こう心の奥を刺激するものがあるな」
『プリミティブ』という言葉を初めて用いながら、オレは機嫌よくつぶやく。
思わず歌でも歌いたくなって、一節口ずさもうとして、オレは風の音の中に紛れた異音に気付いた。
いつの間にか風の音の中に、ホウホウホウ…というおかしな音が混じっていて、その音が後ろから近付いてくる。後ろを振り向いたオレは、この世界に来て最大級の戦慄を感じた。
「ホゥアッキャァオウ!!!」
真っ黒なイノシシに跨った猿達が、口々に雄叫びを上げながら、赤い大地を蹴立てて後ろから迫ってくる。オレは向かい風の中にいたので、猿達の臭いに気付けなかった。
口から泡を飛ばして激走する黒いイノシシの頭を棍棒の柄で殴りながら、凶暴な猿達は徐々にスピードを上げてオレの後を追いかけてくる。
「なにアレ!怖え!!」
オレは、急いでクロスカブのアクセルをふかして猿達の追跡を振り切ろうとする。
すでに加速がついている猿乗り黒イノシシと、加速したばかりのHONDAクロスカブ110…。奴らは四駆の強みを活かして、丘の斜面を走り丈の低い木をジャンプしながら立体的に迫る。
黒イノシシに乗った猿達は、ついに50メートルの近くにまで接近してきた。オレの感覚で言えばすぐ真後ろ。つい、恐怖で後ろを振り向いてしまう。
けたたましい叫びを上げながら、猿達は獲物を捕らえるための最後の詰めの作業に入っていた。なんと猿達は、一頭のイノシシに前後二匹が跨っている。タンデムイノシシ猿達は、前列の一匹が棍棒でイノシシの操縦、後列が前の猿の背中に手を当ててなにやらモゾモゾと動いていた。
「え゛ッ!?」
再びオレは戦慄する。
タンデムイノシシ猿達の後列の猿が、走行中のイノシシの上で立ち上がった。猛スピードの中で後列猿は、前列猿の背中に添えた掌とイノシシの背中の毛を掴む足の指だけで、自分の体を支えている。前列猿は、後列の仲間を決して落とすまいと必死でイノシシを操作する。
なんという仲間同士の信頼関係だろう。
そして、立ち上がった後列猿達は削って尖らせた長い木の棒を、オレめがけて投げつけてきた。投げる際にバランスを崩して、数匹の猿達が落猪し地面に叩きつけられる。パートナーを失った前列猿達は、その時なにを思ったのか…
オレは後ろの状況を視認できていたので、猿達の投擲してきた木の棒を軽々と避けることができた。クロスカブのアクセルを噴かせて、さらに加速する。
しかし、一方の猿達は、地面に突き刺さった自分達が投げた木の棒に引っかかって次々と落猪し、ホギョォホウ…と悲しい声を上げて、巻き上がった土埃の中に消えていく。もう、黒イノシシに乗った猿達の残りは、数匹程しかいない。
残った猿達は、イノシシの頭を叩きながらオレに決死の特攻をかけるが、オレに追いつく前にイノシシの体力が尽きてしまった。全力疾走を続けたイノシシ達は白目を剥いて倒れ、手足をピーンと伸ばしたまま、全員動かなくなった。
「ホギャキャィィル!」
地団駄を踏みながら、恐らくは『覚えていろ』と言った意味であろう叫び声を上げる猿達。
オレは別にヤンキーではないが、叫び続ける猿達に向かって後ろ向きに思い切り中指を突き立てながら、クロスカブの排気音も高くオレは走り去った。
猿達との熾烈なデッドヒートを勝ち抜いたオレは、クロスカブのスピードを落とさず、赤い色の大地を疾走していく。
赤い地面を噛む黒くゴツいタイヤは力強く大地をグリップし、ハンドルとシートから伝わってくる振動とエンジンの鼓動が、オレに活力と勇気を与えてくれる。
今や、オレにとってクロスカブは、単なる乗り物ではなく最も頼れる相棒になっていた。
全速力で、かれこれ、2時間以上は走り続けている。さっきの猿達の生息域が分からない以上、迂闊にクロスカブのスピードを緩める訳にはいかない。
相変わらず空気が乾燥してはいるものの、地面からは最初に嗅いだ赤錆のような匂いは薄れ、周囲の風景は赤い地面の上に丈の低い草が生えるステップのような地形に変わりつつあった。猿達のいた所は地面の起伏に富んでいたが、今いる所は比較的平坦な地面が続いていて、見晴らしがいい。ここでなら、どの方位から猿達が襲ってきても、気付くことができるだろう。
少し安心したオレは、突然猛烈な喉の乾きに襲われた。右方向はるか遠くに、大きなサボテンのような植物が見える。植物には果肉のような花が咲いていた。
「…あれの果汁飲めないかな」
そう思い、減速しながらサボテン方向にハンドルを切ろうとした時、二つのことが同時に起こった。
一つは、ステップを吹き抜ける横風が、腰で結んでいるオレのツナギの上半身を煽ったこと。オレのツナギが風をはらむ船の帆のように膨らみ、車体重量の軽いクロスカブは、ユラユラと横揺れを起こした。
もう一つは、クロスカブの前輪で、下草に隠れていた小さくて硬い石を踏んでしまったこと。車体の横揺れを立て直すのに必死で、路面状況をろくに見ていなかった。
一瞬にしてコントロールを失い、車体右側に倒れて横滑りを起こすクロスカブ。
オレは、とっさのことに声も出せず、クロスカブの車体の上にサーフボードのような姿勢でなんとかバランスを取り、そのまま車体で赤い地面を削りながら滑っていった。
「……」
センタースタンドを立てて、地面に駐車させたクロスカブを、オレは無言で見つめた。地面に倒した時にエンジンは止まってしまっている。
赤い砂と泥にまみれたクロスカブの黄色い車体は、塗装が剥がれ、内部にある金属の地の色を見せていた。スリットの入ったおしゃれなマフラーは無惨にひしゃげ、オレの体重とクロスカブの本体重量が一気にかかったハンドルも、右手側がおかしな方向に曲がり、右のサイドミラーとウィンカーが吹っ飛んでいた。倒れた時にイグニッションキーの上半分が千切れてどこかへ飛んでいってしまっていて、キーも回せない。そして、最悪なのは、車体のフレームが少しひしゃげてエンジンの近くからオイルが少し漏れている。
喉の乾きよりも強い、焦燥感のようなものが腹の下から湧き上がってくる。
すぐに工具を『召喚』することを考えたが、工具一つの召喚に必要なMPは5、工具の『帰還』まで考えると倍の10になる。最終的に、修理にどの工具が必要になるか分からないし、オレに直せる故障かどうも分からない。そんな状況で下手にMPを消費することは躊躇われた。
これから夜になると『テント』や『寝袋』が必要になるだろう。『フライパン』や『ライター』が必要になるかもしれない。これから何日、この荒野を彷徨うことになるのか分からない。生き延びるために、無駄なMP消費はなんとしても避けなければならなかった。
それに…。
オレは改めて、目の前の動かないHONDAクロスカブ110を見る。おそらくオレには、もう直せない。少なくともこの世界では。
クロスカブの黄色い車体には、赤い泥の塊がこびり着いてはいるものの、まださっきまで元気に走っていた面影を残し、止まったままのエンジンはまださっきまでの熱を残していた。すでに、オレにとってクロスカブはもうただの原動機付自転車ではなかった。たとえ、もう動かないとしても、もう二度とこいつと走れないとしても、ここに置いていく訳にはいかなかった。
「戻れ、クロスカブ…」
手のひらをかざしてオレがつぶやくと、クロスカブは、青い光の粒を残してオレの手の中に消えていった。クロスカブが消えた後で、ぼとり、と地面に赤い泥が落ちる。横転したときにクロスカブの車体に付着していた泥だった。
しばらく、自分の手のひらを握ったり閉じたりを繰り返す。中谷さんから頂いてオレが直したクロスカブが、オレの中に確実に在ることを、今なら実感として感じ取ることができる。
オレは、後ろを振り返り、地面を見た。
赤い地面には、クロスカブのタイヤが残していった轍が、しっかりと刻まれている。
なんとしても、こいつを元通り走れるようにしてやる。そのために、まずは必ず人里に辿り着く。
そう自分を奮い立たせて、遠くに見える水気のありそうな赤い花を咲かせる大きなサボテンを目指して、オレは自分の足でまた歩き出した。
「っふう!」
サボテンの赤い花のような果肉は、思った通り、髪が洗えるほど大量の水分を含んでいた。頭から浴びるように、果肉から絞った水を飲む。果肉の水が、太陽に晒されて赤くほてった皮膚に心地よかった。大きなサボテンが作る木陰の中で休めるのも有り難い。
太陽はかなり西に傾いている。最悪の場合、野営するとしても、テントと寝袋で、荒野の夜を耐え忍ぶことなどできるのだろうか。さっきの猿達の襲撃も気にかかる。少し離れた所で、軽トラくらいの大きな陸ガメが首を伸ばして、サボテンの果肉をバクバク食べている。あいつはオレを襲うだろうか?
「…無駄なこと、考えてる場合じゃない」
そう呟いて、サボテンの水を一口飲んだあとで遠くの風景を眺めながら、オレは頭の中に浮かぶ一つの考えを検討し始めた。
『異世界リサイクル_廃棄物召喚で持続可能な異世界ライフ』
第一部 おっさん転生(転移?)の巻 その三
了
To Be Continued.⇒Next episode.
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