みよちゃん
「だいなんがしょうなん、だいなんがしょうなん」
ゆり子が怪我をすると、みよちゃんはいつもそういいながら、傷口を洗ったり、きゅっとしみる消毒液をつけてくれたり、包帯をまいてくれる。
みよちゃん、といっても、ゆり子の友達ではない。ゆり子のお父さんの、おばさんだ。だから本当は、「おおおばさん」というらしい。
でも、みよちゃんは、「わたしは一度も結婚したことがないから、まだおねえさんなんだよ」と、おばちゃんと呼ばれるのをいやがる。だからゆり子達の家族は、みよちゃん、とか、みよねえちゃん、と呼んでいた。
ゆり子のお父さんのお父さん、だからゆり子のお祖父さんは、きょうだいがたくさん居た。
ゆり子はふるい、端がちぎれたみたいになっている家族写真を見せてもらったことがある。そこには子どものころからせいたかのっぽのおじいちゃんと、小さくてまるい顔をにこにこさせたみよちゃんと、せいたかのっぽだったりまる顔だったりするふたりによく似た子どもが写っていた。数えてみると、ぜんぶで十二人。
「こんなにきょうだいがおおくて、けんかしなかったの?」
「したよ。男たちはまいにちとっくみあい」
おじいちゃんはなつかしそうに、うれしそうにそういっていた。
十二人のきょうだいは、そのうちの八人、戦争でなくなった。男の子たちはおじいちゃん以外、みんなへいたいさんになって、死んでしまったのだ。
女の子もふたり、食べものがたりなくて死んでしまったらしい。
おじいちゃんは子どものころわんぱくぼうずで、みんながとめたのに大きなふちへとびこみ、かたあしを怪我してしまった。そのせいでかたあしをひきずるようになってしまい、へいたいさんになれなかった。
そのおかげでお父さんが生まれて、自分が生まれたのだから、ゆり子はおじいちゃんが子どものころに怪我をしてくれてよかったと思った。
でもおじいちゃんは、そうは思っていないらしい。今だって、夏の暑いさかりに、戦争についての番組がテレビで放送されると、「怪我がなかったら、コウシュゴウカクだった」とくやしそうにいっている。
のこった四人は、おじいちゃんと、もう結婚していたそのお姉さんがふたり、そしてみよちゃんだ。
みよちゃんはそのまま結婚せず、洋品店ではたらいて、ゆり子のお父さんが生まれるとそのおせわをしてくれた。おじいちゃんとおばあちゃんは学校の先生をしていて、ゆり子のお父さんのせわをするのは、夫婦だけでは大変だった。だから、みよちゃんをよびよせたのだ。
みよちゃんはそのまま一緒にくらして、ゆり子のお父さんがお嫁さんをもらってから、ゆり子と弟の治紀が生まれてからは、ゆり子たちのおせわをしてくれた。
「ねえ、だいなんがしょうなんってなに、みよちゃん」
ゆり子がひざのすり傷をふうふうしながらきくと、ガーゼを切っていたみよちゃんは、ころころわらった。
「ゆりちゃんは知らないんだね。だいなんがしょうなんっていうのは、ほんとならもっとひどいことがおこったかもしれないのに、小さなさいなんですんだ、ああよかった、って意味だよ」
「もっとひどいこと?」
けっこうひどく、ひざをすりむいていたゆり子は、思わず顔をしかめた。それなら、怪我をしないですんだ、のほうがよかった。
みよちゃんはなんどもうなずいて、ゆり子のひざにガーゼをあてた。
「ゆりちゃんは、走っててころんだんだよね?」
「うん。信号、赤になりそうだったから」
「もしころばなかったら、ゆりちゃんはおうだんほどうをわたってたかもしれないね」
「わたってたよ」
「そうしたら、もう青信号にかわるから、と思って、ブレーキをふまずに車がやってきて、ゆりちゃんをはねてたかもしれない」
ゆり子は十秒くらい、それを想像してみた。たしかに、あの時、ゆり子から見た信号はもう点滅していた。もしかしたら、みよちゃんのいうようなことがおこっていたかもしれない。
ゆり子はぶるっとふるえた。
「みよちゃんのいうこと、わかった。だいなんがしょうなん!」
「そうだよね」
みよちゃんはにっこりした。「大難が小難。それがいいよね。はいゆりちゃん、泣かなくてえらかったから、ガムあげる」
ゆり子はバス停で、泣きそうになっていた。
コートの襟を掻き合わせる。一番あたたかいコートを着てきたのに、寒くて仕方がなかった。足ががくがくしている。雪がゆり子に降りかかり、ゆり子は白っぽくなっていた。地面にも雪がたくさん積もっている。
ゆり子が震えているのは、寒いからだけではない。たった今、ゆり子が高校受験の試験会場へ行く為にのらないといけないバスが、ゆり子を置き去りにして出て行ってしまったのだ。
ゆり子はケータイを、かじかんだ指で操作していた。なんども時刻表をたしかめて、遅れないように家を出たのに、バスは時刻表よりも二分はやく出発してしまったのだ。去っていくバスのお尻を呆然とみて、ゆり子はすぐに腕時計で時間をたしかめたから、バスが予定よりもはやくに出発してしまったのは間違いない。
ゆり子は家に電話をかけた。それでどうにかなるとは思えない。車を運転できるおじいちゃんは、おばあちゃんと、友達と、旅行に行っている。お父さんお母さんは、今日はお仕事で居ない。
「お姉ちゃん、どうしたの」
「治紀」
電話に出たのは治紀だった。ゆり子は鼻をぐすぐすいわせ、涙を拭う。「はる、どうしよう、お姉ちゃんバスにのれなかった」
「えっ!」
「どうしよう……」
「どうしようって……そうだ、タクシー! タクシー呼びなよ」
「お金がたりないかも」
お財布には二千円もはいっていない。試験会場までどれだけお金がかかるかわからないし、お金がたりなかったら試験を受けに行けないかもしれない。
治紀は黙り込んだが、はっと息をのんだ。
「ちょっと待って」
「え?」
電話の向こうで、治紀がうんうんと何回もいっている。それから、治紀はゆり子へいった。
「お姉ちゃん、とにかくタクシー呼んで、試験会場まで行ってって、みよちゃんが」
「で、でも、お金がたりないよ」
「みよちゃんが先回りしてくれるから、大丈夫」
治紀はそういって、電話を切ってしまった。ゆり子は訳がわからなかったが、とにかくタクシーを呼んで、試験会場まで走ってもらった。
試験会場に着いて、メーターを見ると、三千円と少しになっている。ゆり子がどうしようかと焦っていると、外から誰かが運転席の窓をたたいた。
「みよちゃん!」
ゆり子が驚いて叫ぶと、運転手さんが窓を見て、にっこりした。窓が開く。「みよちゃんじゃないか」
「あら、さくちゃん」
みよちゃんはヘルメットをかぶって、首許には厳重にマフラーを巻いていた。ピンクの手袋をつけた手で、お金をさしだす。「この子はうちの子なの」
「なあんだあ、みよちゃんとこの子かい、お嬢ちゃん」
運転手さんがにこにこ顔でゆり子を振り返った。ゆり子は首をすくめる。試験に遅れないかが心配で、ゆきさきを告げた後は黙りこくっていたのだ。
運転手さんはわざわざ車をおりて、ゆり子のそばのドアを開け、まるでお姫さまが馬車からおりるみたいにゆり子をタクシーからおろしてくれた。
「試験、頑張れよ」
「ゆりちゃん、終わるまで待ってるからね。帰りにレストランでゆりちゃんの好きなパフェ食べようね」
みよちゃんはそういって、ゆり子をはげましてくれた。小柄なみよちゃんのずっと向こうに、みよちゃんの原付が停めてあるのが見えた。みよちゃんは、原付で先回りしてくれたのだ。
みよちゃんと運転手さんにはげまされて試験会場へはいると、なかはあたたかく、雰囲気もよかった。塾友達を見付けて話しかけると、雪で遅れた受験生がいるかもしれないからと、開始時間が少し遅れるらしいと教えてくれた。ゆり子は落ち着いて、最後の確認をし、試験に臨んだ。
大難が小難、大難が小難。ゆり子は試験中、その言葉をたまに思い出しては微笑んだ。
大学生のゆり子は、駅のホームで泣いていた。ベンチに座り、両膝をぎゅっと握りしめている。
今日は、インテリアデザイン事務所の面接があった。ゆり子は絶対に遅れないように、目覚まし時計をふたつかけ、きちんと時間通りに起きて、電車にものりおくれなかった。
それなのに、電車をおりた途端に、ゆり子のすぐ前を歩いていたおばさんが、鞄をひったくられた。ゆり子は、みよちゃんみたいな小柄で可愛いおばさんが、突き倒されて呻いているのを見たら、かっときてしまった。それで、ひったくりを追いかけた。
ゆり子は面接用のきちんとしたパンプスをぬぎすてて、ストッキング一枚の足でひったくりを追った。ひったくりはひとを突き飛ばしながら階段をのぼり、ゆり子はひとをよけながらそうした。
地上に出ても、ひったくりはひとにぶつかりながら走るのですぐにわかった。ゆり子は、ひったくりよーっ、と叫びながら、ひったくりを追いかけ続けた。
スクランブル交差点の手前でひったくりに追いついたゆり子は、ひったくりの背中を蹴って、倒れたところにのしかかり、周囲のひとに手伝ってもらって確保した。おばさんの鞄はとりかえせた。
その時はよかったと思ったが、ゆり子は警察に話をきかれたり、なにかを踏んづけて血が出ていた足裏を治療してもらったりで、しばらく身動きがとれなかった。一応、面接に遅れると連絡はしたが、不安だった。
遅れに遅れ、パトカーで送ってもらって面接を受けたが、面接官達はゆり子に対して冷ややかだった。なにも質問はなくて、「なにかいっておきたいことはありますか」といわれた。
ゆり子は、自分がインテリアが好きなこと、デザインの勉強を頑張ってきたこと、この事務所の代表がデザインしたインテリアを持っていることなど、たどたどしく説明した。緊張していたのだ。
それで、ゆり子の面接はお仕舞だった。
どうしてひったくりを追いかけたりしたんだろう、と思ったけれど、鞄をとりかえせたのはやっぱりよかったとも思う。でも、面接は失敗……。
「ゆりちゃん」
はっと顔を上げると、エプロンをかけたみよちゃんが立っていた。ヘルメットをかぶって、にこにこしている。
「みよちゃん」
「ゆりちゃんの電車、もうついてるはずなのに、戻らないから」
みよちゃんはゆり子の隣に腰掛けて、エプロンのポケットから、ガムをとりだした。「はい、ゆりちゃんの好きなコーラ味だよ」
ゆり子はガムをうけとって、包装を解き、口へいれた。コーラの香りが鼻に抜ける。
「ゆりちゃん、ひったくり捕まえたんだってね、えらいね」
「……でも、そのせいで面接には遅れちゃったよ」
「そうなの? ……ゆりちゃんは、ひったくりを捕まえたこと、やらなきゃよかったなって思ってるの?」
うつむいていたゆり子は、みよちゃんを見た。
「ううん。危なかったけど、やってよかったと思う」
「じゃあ、よかったじゃない」
みよちゃんはにっこりした。「大難が小難、大難が小難。ゆりちゃん、はるちゃんにはないしょで、パフェ食べに行こうよ」
ゆり子は会社の窓から、外を見ていた。みよちゃんの言葉は正しい。大難が小難。そのはずだ。
ゆり子はあのインテリアデザイン事務所に勤めていた。ゆり子が鞄をとりかえしたおばさんが、事務所の代表のお母さんで、あの子を落とすなんてとんでもないといったのだ。
そういう偶然で雇ってもらえたゆり子だったが、仕事もきちんとこなし、三年たった頃には役職ももらっていた。ゆり子はなんでも、大難が小難、と考えて、不測の事態にも動揺しないことを心がけている。そのおかげで、失敗と思いきや成功した、という仕事もある。
でも、今度ばかりは……。
「ゆりちゃん」
ゆり子を呼ぶのは、事務所の代表だ。鞄をひったくられたおばさんとは似ても似つかない、すらっとした美人である。
ゆり子は窓へ向いていた体を、そちらへ向けた。髪を耳にかける。代表はかなしそうな顔をしていた。
「あのね、ゆりちゃんの席はまだ残ってるの。だから、なにもかわらないからね」
「……はい」
「でも、ごめんね、わたしのせいで……」
いいえ、とゆり子は頭を振った。
ゆり子は代表の口利きで、お見合いをした。相手はある大企業の御曹司で、ゆり子のことを気にいった。ゆり子もいいひとだなと思ったから、そのひとと交際した。
二年間の交際を経て、プロポーズされ、ゆり子はあとひと月で結婚する予定だった。式場も予約していたし、ドレスや宝石も準備した。式の案内も発送済みだ。
だが、つい昨日、突然彼から婚約破棄を申し出てきた。
ゆり子は納得がいかなかった。だから理由をきいた。彼は、ゆり子は家事がまともにできない、子育てもうまくできない気がする、というような、ゆり子を傷付けることをいって、電話を切った。
電話で婚約をなかったことにしてほしいといってきたのだ。
ゆり子は、だから先程、代表に会ってほしいと頼んだ。退職願を取り下げるつもりだったのだ。代表は彼経由で婚約破棄を知っていたのか、ゆり子がいう前にああいってくれた。
これから、式場のキャンセルに、案内を送ったひとへ式が中止になったことを伝える作業に、ドレスのレンタルキャンセルに……やらなくてはならないことがたくさんある。それを考えただけでげっそりしてしまう。
代表はしばらくゆり子をなぐめてくれた。いろいろとやることもあるだろうから、二・三日、休みなさいといわれ、ゆり子はお礼をいって、事務所を出た。
二・三日は、休みだけれど休みにはならなかった。治紀や両親に手伝ってもらって、各方面に結婚式の中止を伝え、式場をキャンセルし、やることはたくさんあった。
ゆり子は、二年前に亡くなったみよちゃんの遺影を、たまに見た。遺影のみよちゃんはにっこり笑っていて、大難が小難だよゆりちゃん、といっているように思えた。みよちゃんを見ていると、ゆり子はだんだんと落ち着いてきて、こんなふうに婚約を破棄するような変な男と結婚しないですんでよかった、と思うようになった。
半月後、すっかり元気になったゆり子は、同僚から婚約破棄の真相を聴いた。彼はゆり子と付き合いながら、別の女性と付き合っていたらしい。
「お嬢さまなんだって。結婚はやっぱり金持ち同士が安全だって、お酒の席で友達にいってるらしいわよ」
ゆり子は笑ってしまった。やっぱり、大難が小難だ。そんな最低な男と結婚せずにすんで、本当によかった。
ゆり子はその日、家に帰ってから、彼にもらったアクセサリを丁寧に梱包し、彼の住所に宛てて送った。その半月後、本当なら結婚していただろうゆり子の耳にはいったのは、彼がゆり子を「プレゼントを送り返す嫌味な女」だとくさしているという噂だった。
「大難が小難、大難が小難」
ゆり子は甥っ子の膝をなでながら、そういう。甥っ子は、ゆり子の娘とけんかして、膝を蹴られたのだ。娘は今、夫が叱ってくれている。
甥っ子は泣きやんで、目許をこする。治紀によく似た顔立ちだ。せっかく美人の奥さんをもらったのに、治紀に似て団子鼻ね、と考え、ゆり子はちょっとくすっとする。
結婚がだめになった後、ゆり子は取引先の男性に交際を申し込まれ、それに応じた。そのひとが今の夫だ。おとなしくて、優しい、堅実なひとである。
ゆり子をひどいやりかたでふった「彼」は、苦労しているらしい。家族で経営していた企業は内情が火の車で、ゆり子のかわりにもらったお嫁さんはそれを知ると逃げてしまった。
甥っ子がはなをぐすぐすいわせる。
「だいなんがしょうなんって、なに」
「それはね、もっと酷いことが起こったかもしれないのに、小さな災難ですんだ、ああよかった、って意味よ」
「もっとひどいこと?」
「そう」
甥っ子はしばらく考えていたが、頷いた。
「わかった。ゆりちゃんのいうとおり、だいなんがしょうなんだね」
ゆり子は決して、おばさんとは呼ばせない。みよちゃんみたいな存在になりたいからだ。
ゆり子はにっこりして、エプロンのポケットから、甥っ子の好きなソーダ味のガムをとりだした。




