8.ぎこちない笑顔
「そこにクラスと名前書いてね。クラスは分からなかったら別に良いけど」
椅子から立ち上がり、薬品棚に向かいながら、水無月仁美が『そこ』と指し示したのは、バインダーに挟まれた紙だった。
利用した人物がわかる様に、利用者は記入の必要があるらしい。
俺はそこに、田中太郎と名前を書く。
クラスは、Aだったか。
隣に立つ吾妻咲は、俺が鉛筆で紙をなぞる様子を眺めていたが、書き終えたと見れば、俺に向かって手を差し出した。
その手には痛々しい擦り傷がある。
鉛筆を渡す事も忘れて、呆然とそれを眺めていると、吾妻咲は不思議そうに俺の目を覗き込む。
罪悪感がむくむくと芽生えてしまう。結局俺は、おっぱい回避の為に彼女を犠牲にしてしまった。
「書きますよ。手、痛そうですし」
「え、」
「名前」
「あ、吾妻咲……です。数字の五の下に口で吾。奥さんの妻に、花が咲くの、咲で」
「クラスは?」
「Fです」
吾妻咲。人の名前を書く事なんてそんなに無いし、不格好にはなったけど、まあ良いだろう。
鉛筆をその辺に転がすと、丁度、水無月仁美が棚から消毒セットを出し終えて、椅子に座った。
「お二人さんもお掛けなさいな」
丸椅子を二つ指し示されたので、促されるままに腰を下ろす。
「入学式は時間的に無理だね。まあ校内放送もされるから、此処で聞いて行きな」
「……ごめんなさい。巻き込んでしまって」
「良いですよ。座って聞けてラッキーです」
「おお、青春してんねえ」
「そんなんじゃ無いですよ」
茶々を入れてくる水無月仁美。彼女はピンセットで挟んだ脱脂綿に消毒液を浸して、ぺたぺたと吾妻咲の手を消毒していた。
細っこい手が、相手のこれまた細っこい手を支える為に、すべすべした指先で触れるのだから、なんだか違う生き物みたいだ。
「田中くんもどっか怪我してんの?」
「尻はしたたか打ちつけましたが、何とも無いっぽいです」
「今日はみいんな尻を打つ日なのかねえ。さっきも尻打った女の子が来たよ」
「彼女は裏門を登ろうとしたんで、半分自業自得ですよ」
俺もおっぱい回避の為に尻を打ったので半分は自業自得であるけれど、わざわざ言うほどの事でも無いだろう。
「あれま、そっちの目撃者くんでもあるんだね」
水無月仁美は、良く笑う人だ。
陽気に笑いながら器用に吾妻咲の手当てを進める。
ぴりりと滲みる消毒液の刺激に眉尻を下げる吾妻咲に「痛いの痛いのとんでいけー」なんて気休めの魔法をかけた水無月仁美は、それから「私ちょっと外へ出るけど此処に居るんだよ」とだけ言って、立ち上がった。
「すぐ戻って来るね。一応保健の先生に報告だけしないといけないからさ」
揺れるポニーテールを見送って、俺たちはまた取り残される。
喧騒から離れた静かな保健室は居た堪れなくて、何か話すべきかと頭を悩ませていると、先に口を開いたのは、吾妻咲だった。
「田中太郎さんっていうんですね」
「あ、うん。あなたは、吾妻咲さん」
「はい。……田中さんってお呼びしてもいいですか?」
「良いですよ、好きに呼んでください。吾妻さん」
吾妻咲――吾妻さんは、こんな当たり障りの無い会話に、酷く安堵している様に見えた。
大きな絆創膏の貼られた手を、膝の上でちょこんと組んで、手遊びをしているので、居心地が良いという訳では無さそうだったけれど。
こっそり盗み見た彼女は、口元に小さく笑みを浮かべていた。
「友達、出来ないだろうなって、不安だったんです」
「友達ですか?」
「あ……、ごめんなさい」
「構いませんよ。吾妻さんは友達だ」
友達となれば乳は擦り付けて来ないだろうし。
恋愛対象者だから痴女イベントが起こるんだよな?
彼女に向き直り、語気を強めて発言してしまった為に、物凄い勢いで驚かれてしまったけれど、照れたように笑っているので、どうやら許されたのだろう。
「ありがとう、ございます」
ぎこちない笑顔は、天使の次くらいに、可愛らしいものだった。