151.俺が頼んだんだよ
数話、回想編が入ります。
あの日、俺は初めて『母が泣くところ』を見た。
夜中、尿意を感じて起きた時。リビングから光が漏れている事に気付いて、何か食べているんなら分けて貰おうと思ったんだ。
「うちに来て貰おう」
えらく重苦しい父さんの声が聞こえて、俺は扉の前で立ち尽くす。そんな、父さんの声は聞いた事が無かったから。
入る勇気がなくて、ほんの少し開いて覗いたドアの向こうで、母さんは声を殺して泣いていた。
両親も人間なんだと思って、当たり前の事なのに、怖くてとても声なんて掛けられなかった。
逃げるようにトイレを済ませて、布団に潜って眠った次の日。
小さな女の子が、母さんに連れられてやってきた。
伸びっぱなしの黒い髪はボサボサで、よれよれのワンピースを着ている。最近肌寒くなってきたっていうのに、生地の薄いそいつの上から、母さんのカーディガンを羽織っていた。
「どうぞ、あがって」
「……おじゃまします」
ボロボロのサンダルの踵は、ぺちゃんこに潰れている。
「こんにちは」
声を掛けてみると、女の子は驚いて肩を揺らす。
驚かせてしまった罪悪感はあったけれど、無視する方がこの子を傷付けるんだろうと割り切って、見ない振りをした。
「うちの息子。仲良くしてあげてね」
仲良くしてあげるのは俺の方なんだけど、なんて軽口も叩ける空気でも無い。
「よろしく」
もう一度声を掛けてみたけれど、返事は無い。
手を出してみて、握手くらいなら出来るだろうかと思ったけれど、それにも反応は無かった。
「ママは、もう、ひなたのこと、いらないの?」
随分とたっぷり時間を使って、そうして出てきた最初の一言は、それだった。
真っ黒で光の無い目で、母さんを見上げて、そんな事を問い掛ける。
「俺が頼んだんだよ」
嘘だけど。でも、この場で嘘をつけるのは俺だけだと、その時は何故かそう思ったんだ。
俺はいくら程嫌われたって構わないけれど、母さんはこの子にとって唯一の頼れる大人だろうから。嘘をつけない。
「妹が欲しかったけど、うちの母さんはもうおばさんだから」
犬猫が欲しいみたいな口振りになってしまったけれど、子供ながらに精一杯演技したつもりだった。
あんぐりと口を開けた母さんから、此方へ視線を移した女の子は、真っ黒の瞳をきらきらさせた。
「兄ちゃん、欲しくない?」
この日から俺は、ハンカチを持ち歩く事が習慣になった。
―――
思えば、あの言葉が日向を縛ってしまったんだろう。
妹が欲しいなんて言葉を信じて、妹でなければ必要無くなってしまうと思って、必死に妹振っていた。
「兄ちゃん、兄ちゃん兄ちゃん!!」
バタバタと階段を駆け上る音が聞こえて、帰って来たんだなぁなんてぼんやり思う。
日向は、小学校が終わるとうちに来る。
夜ご飯までしっかり食べて、大抵は夜に母さんが祖母の家へ連れて行ったけれど、泊まる日もあった。
「おかえり」
「ただいま……!」
ぶち破る勢いでドアを開いた日向に、ベッドに寝転がったまま挨拶をして、読んでいた本を置く。
「今日のばんごはん、ハンバーグだって……!」
これ以上無いくらい嬉しそうに、そう言いながら、日向は背負っていた赤いランドセルを置いた。
初めてうちに来た時は、骨と皮だけみたいに痩せていたのに、この頃には標準より少し痩せている程度には、肉が戻っている。
髪も綺麗に整えられて、服なんかは、母さんが着せ替え人形にするので俺の服よりも豊富なくらいだ。
「よかったじゃん。ハンバーグ好きだもんな」
「うん、一番好きだよ」
小さな手でピースを作って、それから、俺の隣にダイブする。
俺がさっきまで読んでいた本を手に取って「これ何の本?」なんて、ページをぱらぱらと捲りながら、指でなぞったり、眺めたりしてみせた。
足をぱたぱたさせて、俺にぴったりとくっついて。そうして、安心しきった猫みたいに、身を委ねてみせる。
「日向には、漢字が多いかもね」
「これは習ったよ、川って読む」
「そうそう。漢字ドリルちゃんとやってるじゃん」
「今日も宿題にあるよ。兄ちゃん、見ててくれる?」
「いいよ、見てる」
俺の事をじっと見詰めて、屈託無く笑う、日向。
俺は、知っていた。
こんなのものは、全部演技だ。
日向は、母さんに言われたらしい。
妹はお兄ちゃんにいっぱい甘えていいし、我儘を言っていいんだよ、って。
だから、我儘放題するのが妹だと思っているし、甘ったれでいる事が義務だと思っている。
一人でぼんやりとしている時に、色味の無い顔をしている日向こそ、日向なのだ。
けれども俺は、そんな茶番に付き合っていた。
そうしていれば、いつか日向の傷が癒えるんじゃないかと思っていた。
そうしていれば、いつかそれが日向の本当になるんじゃないかと、思っていた。
お読み頂きありがとうございます!
更新再開から数話毎日投稿して来ましたが、そろそろ不定期更新に戻ります。
(追記)
中々続きを投稿出来ていません。申し訳ありません。
自分が納得出来るものを投稿しようと、詰まってしまって、筆が止まっている次第でございます。待ってくださっている方がいらっしゃいましたら、もう暫くお待たせしてしまうかもしれません。すみません。
のんびり待って頂けると、幸いです。頑張ります。