146.一生懸命
時間軸:138話後
三条遂叶と田中小太郎は、先へ進んでしまった。
入口のゲートを通って一番最初。フロアマップに一番と振られているその場所で、鴎太は立ち止まっている。
薄暗い館内の、一番最初の水槽にはカクレクマノミが泳いでいた。
別段思い入れがある訳でも無いだろうに。先に行けば別の生き物もいるのに、それでも鴎太はそこから動かない。
橙色のひらひらを直向きに追いかけて、周りなんて見えていないみたいだ。
はじめて、というものが、どれ程大きな衝撃を与えるものか。私は、良く良く知っている。
だから繋いでいる手を引いて先に促す事も、声を掛ける事も出来ずに居る。
――いっそ、全部巻き戻してやろうか。
鴎太を此処へ連れてくるべきではなかった。
そんな事、平生の私であれば判別出来た事なのに。三条遂叶の事が気に食わなくて、三条遂叶を呼び出す為の餌に、鴎太を使ってしまったのだ。
――最低だ。
鴎太だけが一番で、鴎太の幸せだけが総てなのに。
三条遂叶の事なんて、どうでも良い筈なのに。
「……鴎太くん、楽しい?」
鴎太は、返事をしなかった。
水槽から目を離さず、此方の声も聞こえていないみたい。
鴎太のその目が、私は怖かった。
何処か遠くに行ってしまうみたいで、私の事なんて、もう二度と見てくれなくなってしまう気がして。
けれど、鴎太は今楽しいのだ。
幸せなのだ。
なら、せめて、ロードをするのは鴎太が一頻り楽しんだあとにしよう。
最近の鴎太は、自分が死ぬ事ばかりを考えていて、こんなに楽しそうにしているのは、――昔みたいに、何かに目を奪われているのは、本当に久し振りの事なのだから。
『何が気に入らない? 私はお前の望む様に世界を作ってやることも出来るんだぞ』
『切り取られた三年間に望むモノなんて何もないよ』
――例えば、鴎太に同じ質問を投げ掛けたとして、同じ答えが返ってくるのだろうか。
消されてしまう今を、楽しんだ所で、意味なんて無いと、言うのだろうか。
私ばかりは、覚えているのに。
――私ばかりが、幸せなのだろうか。
「ねえ、満月ちゃん」
三条遂叶の声がする。
ついに、幻聴まで聴こえるようになってしまった。
三条遂叶は、田中小太郎と先に行ったのに。
「なんで、そんなに泣きそうな顔をしてるの」
「馬鹿な事を、」
泣きそうな顔なんて、している訳が無い。
私の隣には鴎太が居て、今、こうして手を繋いでいる。鴎太が生きている。悲しいことなんて、ひとつもない。――ひとつも、ないはずなのだから。
「私は、そんなに、間違っているのだろうか」
恐らく、この幻聴が、三条遂叶の声でなければ、私はこんな問い掛けをしなかっただろう。
或いは、巻き戻す心積りでなければ、しなかった。
聞いてみたくなったのだ。
――昔の自分に。
此処に居ない筈の三条遂叶の声が聞こえた理由は、三条遂叶を自分と重ねて見てしまった所為だろう。
自分と同じように、幸せを手にして、それを失いたくないと思っている三条遂叶ならば、自分を肯定してくれるだろうと、思ったからだ。
「間違うって、悪いことなのかな」
ほら、都合の良い幻聴だ。
そうして、酷く的を得ている。
私は、間違っているのかもしれない。けれど、それの何が悪いのだろうか。幸せを望むことは、その為に犠牲を払うことは、真っ当な事じゃないか。
「アタシは、コタと一緒に居たくて。コタの一番になりたくて。この先も、隣にコタが居てくれればいいのにって思ってる。……でも、きっと、咲ちゃんもコタのことを好きなんだ」
「我を通したいなら、たとえ間違っていると言われても、貫くしか無いものな」
障害なんて、道理なんて、倫理なんて、すべて打ち壊してしまえばいい。
そうしなければ、手に入れられない幸せなのだ。
間違っているとしても、こうする他に、幸せなんてありはしないのだから。
「今日ね、咲ちゃんを呼ばなかった事。ちょっと、後悔してた」
「公平に、なんて馬鹿らしいよ」
「うん。そうだね、馬鹿らしい。お菓子みたいに半分こ出来るものじゃ無いんだもん。譲ったりするのなんて、それこそ可笑しいし」
「賢明だな」
「あはは、……アタシね。一生懸命になれるものが欲しかったんだ」
「……一生懸命?」
「うん、それなのに、逃げてばっかりでさ。遠慮して、怖がって、……何かに一生懸命になるって、怖い事なんだよね」
この幻聴は、何を言っている? 何の話をしている?
――これは、本当に幻聴なのか?
後ろから聞こえる声が、急に恐ろしいものに聞こえて、背筋が凍る。冷たい手で無遠慮に撫で付けられたみたいな、不快感。
――いや、幻聴でなくとも、結局のところ、リセットするのだから……
「ねえ、満月ちゃん。こっち向いてよ」
――恐る恐る、後ろを向く。
大丈夫、リセット出来る。そう己に言い聞かせながら。
「アタシはね、後悔しないよ。一生懸命にならなきゃ、咲ちゃんと友達でいられなくなっちゃうから」
薄暗い館内で、その瞳だけが酷く輝いて見えた。
蒼い世界で、一層眩い、蒼い色。
「だから、アタシはこの選択が間違いでも良いと思うし、どんな結果でも泣いたりしない。卑屈になったりしない。――満月ちゃんは、間違ったから、泣きそうな顔をしてるの?」
幻聴では無い、幻覚でも、無い。
田中小太郎と共に先へ進んだはずなのに、彼女は今、確かに私の目の前に居る。
何故、そんなにも直向きに前を向けるのだろうか。
挫折を知らないから? だから、恐れも知らないのだろうか。
いや、彼女は恐ろしいと言っている。それなのに、こうも強く、前を向いている。
私には無い強さを以て、まるで、私は弱いと言っているみたいだ。
我を通して、そのくせに、結果を恐れている。
そんな私を、非難しているみたいだ。
「どうして、そんなに強く、居られるんだ」
「強くなんてないよ。でも、アタシが強く見えるなら、それはアタシがきっと一人じゃないからだね。コタが、背中を押してくれるから」
照れたみたいに笑ってみせて、相変わらず意志の強い瞳を少し細めてみせて、そうしてそれから、三条遂叶は此方に手を差し出す。
「ねえ、二ノ前さん。アタシね、ちゃんと友達になりたいな、二ノ前さんと」
私は、知らない。
――そんな顔をして笑う人を。
皆悲しそうな顔をして笑うのに、それなのに彼女だけが、太陽みたいな顔をして笑っている。
まるで救いを差し伸べるみたいに、手を伸ばしている。
いつかの遠い日に差し出された手に比べると、とてもとても小さなものなのに、それでもあの日の父の手よりも、大きく見える。
――気が付けば、鴎太の手は外れていた。
鴎太は、私の手を握っていなかったのだ。
小魚に夢中な鴎太の手は、私が握る力を緩めれば、するすると落ちていった。
――鴎太の手を取らなければいけない、はずなのに。
頭の中で警鐘が鳴り響いているのに、それでも、今の私にとって、三条遂叶の手は、眩しすぎた。