130.この世で一番の人たらし
三条さんに協力を頼んだのは、二ノ前満月――穂波に対して、三条さんを俺の協力者だと認識させる為だった。
それは失敗に終わってしまった訳で、とどのつまり作戦を一から組み立て直す必要がある。
「コタローさん」
――どれくらい、この場所に座り込んでいたんだろう。
声を掛けられて視線を上げると、階下の踊り場に吾妻さんが立っていた。
見下ろしてしまっているのが落ち着かなくて、立ち上がろうかと腰を浮かせてみたけれど、吾妻さんがそれを制止する。
此方へ向かって階段を上ってくるので、そわそわしながら腰を下ろした。
最後に言葉を交わした際、吾妻さんは怒っていた。
それが今は、えらく機嫌が良さそうだ。
「遂叶ちゃんが、私のところへ来ましたよ」
俺のすぐそばまで階段を上って、座る俺に対して、立っている吾妻さんの方が視線の位置が高い。
澄んだ翠の瞳が此方を真っ直ぐに見下ろしてくるので、俺は居心地が悪くて視線を逸らす。
「謝られました」
どんな表情で、その言葉を口にしているのだろう。
見る勇気が無くて、ついには吾妻さんの靴の先を見る。
返す言葉も見つからなくて黙っていると、そっと頬に手が触れた。
吾妻さんの、手だ。
「ざまあみろと思いましたね」
えらく弾んだ調子で、そんな事を言う。
三条さんが、俺の思惑と違う動きを見せたからだろう。
やっぱり、吾妻さんって俺のことが特別好きなわけではない気がする。
そうは思ったけれど、勿論、言葉にはしなかった。
「遂叶ちゃんはね、私の思う通りにも動いてくれない子なんですよ」
コタローさんの思う通りに動いてくれる訳がないですよね?
続く言葉が想像に易くて、これにも返す言葉が見付からない。
黙ったままの俺の頬を、吾妻さんは、優しく優しく撫でていた。
「それで、吾妻さんは俺を笑いに来たの?」
「そうですよ。性格、わるいので」
まさか、流石に肯定されるだなんて思っていなくて、驚いて顔を上げる。
吾妻さんは、寂しそうに笑っていた。
「嘘を吐くことに、心が痛まないわけじゃあないんですよ」
目を細めて、その目尻から滴こそ溢れてはいなかったけれど。
それでもどうしようもなく、泣いているように見える。
まったく、果たして、これが、俺は間違っていないと言えるのだろうか。
どうせ間違っているのであれば、穂波のほうが幾分も正しい間違い方をしている様にさえ思えてしまう。
「コタローさんは、どうしようもなく弱い人ですね」
また何も言えずに居る俺を小さく笑ってから、吾妻さんは俺の頬から手を離した。
自己嫌悪に塗れた俺を、救ってやるもんかとでも言いたげに小さく笑う。
それは、吾妻さんの優しさだ。
手を差し伸べる事は出来ても、それが俺の為になるとは思っていないから、手を出すことはしないのだ。
分かっているからこそ、俺はこんな情けない態度を取っているのかもしれない。
例えば目の前に居るのが三条さんなら、俺はもう少し強がっても見ただろうから。
「私だってね。目の前に御膳を据えられてしまうと、手を出すべきか迷ってしまいますよ」
呆れるみたいに、溜息をひとつ。
それから階段を上って、俺の隣に腰を下ろす。
隣に座って、自分の足に肘をついて、横から俺を覗き込む。
シャンプーの香りが、優しくふんわり鼻先を擽ぐる。
「遂叶ちゃんはね、きっと二ノ前さんの思う通りにも動きません」
確かに、穂波にだって三条さんの動きを予測することは出来やしないだろう。
俺よりも、吾妻さんよりも、穂波よりも、誰よりも。三条さんは純粋で真っ直ぐだからだ。
けれど、それが、何になるって言うんだ。
俺は、穂波に『三条さんでさえも必要とあれば利用する』と思わせたかった。
そんな思惑は、きっと穂波にはバレてしまっただろう。
「コタローさんは、遂叶ちゃんの事を侮りすぎですよ」
「侮る?」
「あの子はね、この世で一番の人たらしなんですよ」
人たらし、だなんて。
三条さんから一番程遠い言葉な気がする。
けれど吾妻さんは、何も可笑しな事は無いとでも言いたげに笑ってみせた。
綺麗な綺麗な、作り笑いだ。
「天然の、ですけどね。皆、彼女と関わり合うと彼女を好きになってしまうんです」
「それは、否定しないけど」
「見ていてください。二ノ前さんも、きっとたらし込まれますよ」
穂波が?
――希望を、持てない訳では無い。
鴎太にしても、あの青年にしても、汚れが無くて純粋な点が被るところではある。
ただ、そんな楽観視しても良いものだろうか。
穂波が何よりも鴎太を優先すれば、三条さんの事なんて容易く切り捨てることだろう。
ただ、もしこの選択が悪手にならない可能性があるとすれば、それは穂波が三条さんに絆された場合だ。
そうすれば、穂波は三条さんに手出し出来なくなる。
最強のカードが手に入ると、考えられない事も、無い。
「この際、存分に振り回されてしまえば良いんですよ」
その声音は、とても優しいものだった。
そうして少し、寂しそうにも聞こえた。
吾妻さんはそれだけ言うと、立ち上がって階段を降る。
声を掛けようとしたけれど、引き留める言葉は浮かばない。
俺に引き留める権利があるとも、思えない。
「遂叶ちゃんの事、泣かせないでくださいね」
此方を振り返る事もせずに、吾妻さんはそんな言葉だけを残して立ち去った。