117.ひとりぼっちが笑う顔
「穂波」
その声はとても優しいものだった。
幼い子供を呼ぶような声にも聞こえるし、亡くしてしまった遠くの人を呼ぶような声にも聞こえた。
「何それ」
「君の名前さね」
男はそう言って、煙管から吸い上げた煙を吹く。
口をすぼめてぷうと吹き出されたそれが、もくもくと、天へ昇ってじんわり消えた。
着流している着物の裾から足を投げ出して、縁側に腰掛けたその男は、四十くらいの、おじさんだ。
男は、金色の髪の女の子に向かって話しかけている。
女の子は、ただの女の子ではない。
頭から獣の耳が生えているので、少なくとも人間では無い。
「わたし、あんたに飼われた記憶なんてない」
「親しみを込めて、呼ぶ名は必要じゃあないかな」
「だいたい、ダサい」
「失礼な子だよねえ」
男はころころと、笑った。
この辺りで俺は、ああこれは夢なんだなと気が付いた。
この世界に来てから、俺は寝ている時に夢なんて見た事が無い。
今日、いつもと違う点は、猫丸が居ることだ。
だからこれは、猫丸の見せている記憶なんじゃなかろうか。
そう思うと、腑に落ちて、眺めている気になれた。
「君は力があるんだから、修行をしたら良いのに」
「わたしは家族のそばに居なきゃいけないし、おじさんの話し相手になってる暇はないよ」
「疎まれているのに?」
「そりゃ、人間に化けることの出来るヤツなんて、気持ち悪いでしょ」
「そのくせ、みんな君を利用するじゃない」
「だって、人間の姿の方がごはん調達しやすいじゃない」
穂波と呼ばれたその子は、どうやら異端児らしい。
話の流れからして、この子は特別な力を持っているが故に、除け者にされ、利用されているのだろう。
この男は、それを気にしているようだ。
「まあ、君が人間に化けてごはんを調達するのは良いけれど、あんまり人間に肩入れしないようにね」
「何それ。わたし、人間なんて嫌いだし、飯の種くらいにしか思ってない」
「――そう」
えらく、含みのある物言いだった。
それを聞いた女の子は「チッ」と短く舌を打って、それから、ぼふんと煙に包まれる。
煙管から吐き出される煙よりも、よっぽど濃い白色だ。
その煙から、ぴゅうと一匹の狐が飛び出してくる。
その狐は、均された道の上を、真っ直ぐ真っ直ぐ走っていく。
なるほど。その尾っぽは、稲穂が波打つみたいに見えた。
―――
「ともだちになってよ」
夢とは都合の良いものだ。
気付けば場面が転換していた。
着物の裾をたくし上げ、川の中に足を浸していた穂波に、一人の男が声を掛ける。
穂波は、人間に化けて、ほっかむりをして耳を隠し、魚を捕っていた。
罠を仕掛けていたらしく、ずっしりと重たそうなカゴを手にした穂波は、声の主のことをじっとりと見詰めている。
反応に困って固まっているのかもしれない。
「良く此処に居るよね。屋敷が高台にあるから、いつも見えるんだ」
二十歳に少し足りないくらいか、そんな感じの青年は、少し高い場所にある、大きな家を指差した。
一目で金持ちだろうなと分かるくらい、大きな家だ。
穂波はカゴを手から滑らせて、目をまん丸に見開いた。足下に波紋が広がっていく。
「……いいよ。ともだちになろう」
もうすぐ冬がくるのだ。
冬になると、川には氷が張る。
穂波は、自分の存在意義をより良い食料を調達出来ることに見出していた。
冬の間の食料を、穂波はこの青年の家から盗むことにしたのだろう。
差し出された手をぎゅうと握った穂波の心はきっと邪な気持ちでいっぱいだったのに、青年は心から幸せそうに笑っていた。
―――
「穂波。あんまり人間に肩入れしてはいけないよ」
「まだ言ってんの、おっさん」
綿入りの半纏を着た男は、寒さに身を震わせながら、もののついでのようにそう言った。
部屋の中に火鉢があるのが見えるのに、男はわざわざ縁側まで出て来ている。
穂波はどうでも良さそうに言葉を吐き捨てたけれど、俺はあの川での出会いから、今日に至るまでをしっかりと見せられていた。
『文字を教えようね』
青年は穂波に読み書きを教えた。
『本を貸そうね』
青年は穂波に世界の広さを教えた。
『今日は寒いね、一緒に火鉢にあたろうね』
青年は穂波にあたたかさを教えた。
『今日、当主様は体調が悪く人とはお会いになれません』
青年は穂波に寂しさを教えた。
『今度ね、見合いをするんだ』
青年は穂波に、恋しさを教えた。
穂波は十二分に人に肩入れしている。
男は全てを見通していて、その上で言っているのだ。
穂波はそれが図星であるから、何も言い返す事が出来なかった。
ある日穂波は、青年の見合い相手と、青年の母の企てを知ってしまった。
門扉の所に居る者に門前払いを食らってから、穂波は断られた日はこっそり裏手に回って、狐の姿で青年の見舞いに来ていたからだ。
「段取り通りに」
「これを手土産として渡せば宜しいのですね」
「ああ、それでアンタん家の借金はチャラだよ」
「私はどうなってしまうんでしょうか」
「上手く逃してやるさ。当主が死ねば、弟が引き継ぐ。そうなればこの辺り一帯は私の思うままだものね」
頭に血が上った穂波は、狐の姿のままに、青年の母の喉元に牙を剥いた。
自分に出来る、青年を助ける手段がその、たったひとつしか無かったからだ。
――暗転。
「人には肩入れしないように」
打ち捨てられてボロボロになった穂波に、男が手を差し伸べる。
「穂波。手を取りなさい。そうして、私の娘になりなさい」
穂波は目から赤い滴を垂らしながら、その手にちょこんと、前足を乗せた。
これが、猫丸と、二ノ前満月の中にいる穂波が、親子になるまでの記憶だ。
穂波は、立派に修行をした。
他の兄姉に揉まれながら、それでもそれは幸せそうだった。
その平穏を壊したのは、神社の敷地内の穂波の住処に現れた、一人の男の子だ。
「立ち去れ、ここは人の子が足を踏み入れて良い場所では無いぞ」
「女の子……?」
「立ち去れ……!」
「はは、ねえ……」
男の子は臆さず、穂波に手を差し伸べる。
「オレと、ともだちにならない?」
男の子から、何故その言葉が出たのかは、わからない。
けれどその顔は、あの川で出会った青年の顔によく似ていた。
悲しそうに、笑うんだ。
それは穂波と同じ、ひとりぼっちが笑う顔だった。
お読みいただきありがとうございます……!
狐さんのお話はあと一話続きます。
大変閲覧数が伸びておりまして……。震えながら書きました。気に入って頂けると、とてもとても嬉しいです。元気が出たので更に更にがんばります(_ _*))