107.慎重に行こう
保健室の隣室をノックすると、中から水無月仁美が「はーい」と返事をした。
「失礼します」
一応声だけは掛けて、扉を開けると水無月仁美がソファーに座っているのが目に入る。
マグカップを手に持っているので、休憩中なのかもしれない。
「ありがとうね、田中くん」
「こちらこそ、ありがとうございます」
「え、私なんでお礼言われたのかな!」
あからさまな驚いたという顔をして、水無月仁美は笑ってみせる。
八重歯を見せて、得意げに笑うくせに、恩着せがましくは無いのだ。
鬱陶しい人ではあるけれど、それはあくまでキャラクターで、周りをよく見ているし、大人なんだなと実感してしまう。
「それじゃあ、俺は戻りますね」
「あ、田中くん」
「……なんですか?」
「本当にありがとうね。君のお陰で救われている人は、多いと思うよ」
急に改まって、真面目な顔をしたかと思うと、そんな事を言う。
すぐにまたおちゃらけた笑顔に戻るもんで、一瞬幻覚かと思ってしまった。
「俺は、何も救えてなんていませんよ」
「君が思っている以上に、君はすごいやつなんだよ」
どうしてそんな話をするんだろうか。
何だか全てを見透かされているような気がして、背筋が寒くなる。
水無月仁美の言葉に裏は無いはずだ。
だから今日の部活を見てありがとうと言っているだけのはずなのに――、
「猫丸も、きっと喜んでいるよ」
「それは、どういう意味ですか?」
「ん? だって、あんなに素敵なお家作って貰ったんだからね!」
食えない。
俺が過剰に反応しているだけに違いないのに、どうにも勘繰ってしまう。
もし水無月仁美が敵だとすると、二ノ前満月よりも厄介そうで嫌なんだけど……。
「これで雨風は凌げますね」
「そうだね。台風の日とかは、流石に何か考えなきゃいけないけど」
「吹っ飛ばされそうですもんね」
「あはは、そうだね」
「それじゃあ、ほんとに。これ以上サボってるといい加減怒られそうなんで」
「うんうん、引き止めてごめんね」
適当に話を切り上げて、踵を返して部屋を後にする。
――警戒するべきなんだろうか。
脱力しながらそんな事を考えていると、ぱたぱたと廊下を駆ける足音が聞こえてくる。
そちらを見れば、ツインテールを揺らす五十嶋さんが居た。
「歩きながら話そう」
多分、進捗具合を聞きに来たんだろう。
水無月仁美に聞かれると不味いので、そう促すと、五十嶋さんは首を縦に振った。
「取り敢えず、鴎太の話は聞けたから、神社の――方に……」
「……どうしたの?」
「いや、神社の方に足を伸ばしてみるよ」
「そう」
「協力してくれてありがとう」
「いいよ、これくらい」
「どうしても鴎太と話がしたくて」
「最近、話してなかったから」
「うん」
――うん、何かがおかしい。
一度セーフ認定していた水無月仁美に対して疑心暗鬼に陥っていなければ、気付かなかったかもしれない。
二ノ前満月って、人に化ける事が出来るんじゃないか?
この世界に現れた日向は、日向じゃなかった。
それが、二ノ前満月が化けた日向だったとしたら、納得が出来る。
――今目の前にいる五十嶋さんって、本当に五十嶋さんか?
今日一日自分に張り付いていた五十嶋さんを可笑しいと思い、最後の探りを入れるために、その五十嶋さんに化けて俺の前に現れる可能性は十二分に、ある気がする。
ただ、その可能性を考慮し始めると、正直キツい。
今後誰も信じる事が出来なくなる。
いや、ここまで材料が集まったのであれば、最早一人で戦う段階に移行した方が良いのかもしれない。
二ノ前満月は、少なからず俺の事を危険因子として認識しているだろう。
「ごめん、俺トイレ寄って戻るから、折角来て貰ったけど先に戻ってて」
「……わかった」
これが本物の五十嶋さんであったとしても、俺が五十嶋さんに対して知らない振りをした場合、話せない理由があるのだろうと判別してくれるはずだ。
一人で戦う不安はあるが、露見してしまえば、全てが無駄になってしまう。
慎重に行こう。
何にしても、急ぐべきではあるけれど、仕損じるのだけは避けたい。
――テストが終わり次第、鴎太を連れて神社へ向かおう。
そう心に決めながら、取り敢えず俺は宣言通りにトイレへ向かった。