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お金がないなら刷ればいい ~ジュセッペ・モレロ~

 タイトルの通り。

 この考え方は幼稚だが、いつの時代も為政者たちを誘惑した。


 通貨の改鋳、貴金属の裏付けのない紙幣、そして仮想通貨の怪しげなクーポン。


 怪しげなお金もどきを思う存分刷る欲望はいつだってみんなの心のなかにあるのだ。


     ――†――†――†――


 古い警察写真がある。

 逮捕時に撮るものでいかにも十九世紀風の古い口髭をたくわえたルイージみたいな男が志村けんのアイーンをしている(グーグル画像でGiuseppe Morelloを検索してみよう)。


 だが、よく見てほしい。

 彼のアイーンしている手は指が一本しかない。


 彼――ジュセッペ・モレロは生まれつき右手の指が一本しかなかった。


 ジュセッペ・モレロは夏目漱石と同じ年の1867年、5月2日にシチリア島のコルレオーネで生まれた。


 モレロが生まれたコルレオーネというのは栄えることを知らない内陸の田舎町で貴族の土地でこき使われるか、硫黄鉱山でこき使われるかの二択しかなかった。


 しかし、ある選ばれた人びとには第三の選択肢がある。


 それがマフィアである。


 コルレオーネというのはマフィアの名産地みたいな場所だった。

 モレロは親戚がマフィアで、継父もマフィア、自分もマフィアになって、贋金づくりに精を出し、警官殺しをやって、ついでにそれを目撃した女性も撃ち殺している。


 マフィアは女性は殺さないという幻想はここで捨てておこう。


 1892年、モレロ、25歳のとき。

 前述の殺人で捜査の手が伸び、アメリカへ逃げるように移住した。


 そして、間もなく資金が貯まると継父の連れ子だったテラノヴァ三兄弟を呼び、アメリカに定住の地を見つけようとする。


 ところで、1896年のマンハッタンと2023年のマンハッタンはどちらが住むのに楽だろうか?

 もちろんインフラだの治安だのを考えると2023年に軍配が上がるが、家賃で考えたら1896年の圧勝である。


 1896年のマンハッタンは移民でギチギチで、ドイツ系、アイルランド系、中国系、黒人系、そしてイタリア系の移民がそれぞれの移民街で暮らしていた。


 さらにイタリア系はシチリア系、ナポリ系、カラブリア系に分かれ、さらにシチリア系はパレルモ系とカステランマレーゼ・デル・ゴルフォ系とコルレオーネ系に分かれる。


 同じイタリア人同士仲良くやろうという考え方はない。


 もちろん、モレロと三兄弟はコルレオーネ系であり、コルレオーネ出身者の多く住むイースト・ハーレムに本拠地を構えた。


 モレロとテラノヴァ三兄弟を中心にファミリーをつくる。

 その主な金儲け手段は窃盗、脅迫、強盗、製氷業、贋金つくりなどなど。


 贋金つくり。

 これはのちのマフィアたちはやらない。量刑がクソ重いから。

 モレロと三兄弟はシチリアにいたときから、これをしていたが、アメリカでも贋金で一旗挙げられないかと、あれこれチャレンジしていた。


 あれ、酒の密売と麻薬がないと思うだろうが、酒はまだ禁酒法がなく、麻薬はコカイン入り歯痛止めキャンデーやアヘンチンキが普通にドラッグストアで買えた。つまり、合法だったので無視されたのだ。


 贋金つくりはモレロとテラノヴァ三兄弟の主力商品だった。

 なぜか、当時のイタリアには高度な紙幣偽造技術があり、そこで偽の五ドル札を刷って、それをイタ飯材料の箱や缶のなかに隠して、アメリカに持ち込むと、モレロたちは自分たちが経営する不動産会社の株式への配当に使った。


 つまり、投資詐欺。

 しかも、株主たちはその紙幣を使うことで偽造紙幣団の共犯にされてしまうかもしれないあたり、オレオレ詐欺よりもタチが悪い。


 モレロたちはそうやって稼いだ(本物の)カネで靴屋や床屋、果物の行商会社などを購入して、隠れ蓑にしていた。


 これらの悪事は全て、ジュセッペ・モレロの頭のなかから作り出された。

 右手には小指が一本しかない逆エンコ詰め状態だったが、悪事を考える才能はずば抜けていた。


 1907年、ニューヨークの株式市場が大暴落。取付騒ぎが起きた。

 この恐慌は市場の構造的な問題ではなく、一部の山師が怪しげな玉締めでしくじったことが原因のパニックだったので収拾がつくのははやかった。それでも中小企業の資金調達は難しくなり、モレロたちが手広く広げた合法事業が資金難になってしまう。


 そして、小学生の発想「お金がないなら刷ればいい」をやり、モレロたちはまたまた五ドル札の偽物を作ろうとする。


 よくラッキー・ルチアーノ以前のマフィアはイモ同然だったというが、全然そんなことはなく、モレロは全米あちこちの都市へ行き、イタリアの偽札製造工場での技術提携を行って、広大なネットワークをつくり、ニューヨーク市内に偽札工場を作った。


 そして、大量の偽五ドル札を刷りまくる段取りがついたとき、モレロは逮捕された。


 逮捕したのはシークレットサービスである。

 シークレットサービスは大統領のボディガードとしての印象が強いが、本当は偽造紙幣の取り締まりのためにつくられた。

 捜査官たちは何度かモレロを逮捕したが、証人が死んだり、証拠が警察の倉庫から消えたり、と無罪放免にされ、煮え湯を飲まされてきた。が、今度は何か月も準備して、モレロの子分たちを泳がせ、さらに密告者も確保した。


 1910年、モレロは懲役二十五年の実刑判決を受けた。


 これだけ悪さしていて意外だが、モレロにとって、これが初めての刑務所(ブタ箱)だった。

 何とか減刑しようとした控訴したが、結局、アトランタ刑務所にぶち込まれる。


 モレロは刑務所内部からファミリーの統制を行おうとしたが、いかんせんテラノヴァ三兄弟では役が重すぎたのか、モレロの犯罪組織は瓦解して、内部抗争を引き起こしてしまった。


 さらにモレロにとってきついことに収監された2年後の1912年、息子のカロジェロが撃ち殺される。

 殺したのはモレロに叔父を殺された若者ともいわれるし、あるギャングの弟が強盗にあい、カロジェロがその犯人と思われたためだといわれている。


 どの道、息子を守れないほど、彼のファミリーはガタガタになっていた。

 1917年、テラノヴァ三兄弟の末っ子ニコラスが賭博利権のことで、ナポリ系犯罪組織カモッラに殺される。


 1920年、減刑運動が実を結び、ついにモレロは釈放されると、まず自分がいないあいだに好き勝手した連中を粛清した。


 テラノヴァ三兄弟のニコラスを殺したナポリ人たちは身内から警察へ寝返ったものが出て、芋づる式に逮捕されたのでいいが、同じシチリアのパレルモ系のボス、サルヴァトーレ・ダキーラがいま現在一番のボスだった。


 そのダキーラから縄張りを取り返す目的で戦争が始まり、1922年、今度はテラノヴァ三兄弟の長男ヴィンセントがダキーラ派に殺された。


 実はもうこのころからモレロはボスの座を退いている。

 ジュセッペ・マッセリアという有能な若手に後を譲り、自身は相談役となった。


 マッセリアはよくマフィア映画でラッキー・ルチアーノに殺される頭の悪い、凶暴なデブのボスと描かれるが、実際は切れ者だし、そこにモレロという古狐の悪知恵が重なって、相乗効果だスゴーイ。


 実際、マッセリアは1927年、宿敵ダキーラを殺して、抗争に終止符を打った。


 こうなると、引退したモレロと現在のボスのマッセリアのあいだで対立が生まれる――と、なるのがマフィア的なのだが、そうはならなかった。


 マッセリアはモレロを尊敬していたし、モレロもマッセリアを尊敬していた。

 なんだかんだでうまくやっていたらしい。


 このころにはもうモレロは偽札から完全に手を引いた。

 モレロも六十歳。また二十五年の実刑判決を食らったら、二度とお天道様を拝めず、刑務所で死ぬだろう。地道にコツコツ高利貸しをして過ごした。


 そんなモレロも1930年8月15日、命運が尽きる。


 イースト・ハーレムの彼が所有する不動産会社の事務所でしおしおと領収書の整理をしていたところ、ふたり組の客がやってきた。

 モレロはふたりを部屋に入れ、そこで撃たれた。享年六十三歳。


 やったのはカステランマレーゼ・デル・ゴルフォ派のマフィア。


 マッセリアはダキーラ殺害後、急速に組織を拡大していて、それがカステランマレーゼ・デル・ゴルフォ派を脅かすことになった。


 カステラマレ派のボス、サルヴァトーレ・マランツァーノはモレロをこう評した。


「戦争になったら真っ先に殺せ。あのずる賢い古狐は地下で玉ねぎとチーズとワインだけで何年もしぶとく生き残る。そうなったら、もう探しても見つからない」


 モレロ亡き後、テラノヴァ三兄弟の生き残り次男チーロはというと、だんだん実権を失っていった。


 マッセリアはモレロを殺された仕返しをして、それが戦争になった。

 チーロは軍資金と殺し屋を捻出した。だが、思ったより長引く戦争でチーロの財政状況が悪化した。


 チーロは保身のために敵対派閥にマッセリアを売り、マッセリアが殺されたが、ますます縄張りが守れなくなり、賭博利権を手放すハメになった。


 税金滞納で破産して、豪邸を手放し、一家離散。

 その一家には先の抗争で死んだ、ヴィンセントとニコラスの子どもたちも含まれている。


 駆け出しのころに住んでいたイースト・ハーレムのボロアパートに戻り、1938年に死んだとき、全財産は200ドルだった。


 それだけのカネ、全盛期の彼ならば片手で三秒で刷れたことだろう。

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