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正義の騎士 ~ジョセフ・マッケイ・ブラウン~

 この人物をここに載せるかどうか、判断に迷う。

 ジョセフ・マッケイ・ブラウン(1851~1932)は違法事業者ラケッティアではないのだ。


 彼はジョージア州生まれのパラリーガルであり、地元鉄道会社の幹部職員であり、第五十九代ジョージア州知事なのだ。また二冊の小説を書いている。


 いわゆるジョージア州の名士であり、彼は違法なお金儲けラケッティアリングをしたことはない。


 しかし、彼がレオ・フランクに対して行ったことは間違いなく組織犯罪オーガナイズド・クライムだ。


     ――†――†――†――


 ジョセフ・マッケイ・ブラウンは1851年、ジョセフ・エマーソン・ブラウンの子として生まれた。

 父のジョセフ・エマーソンは南北戦争中のジョージア州知事であり、ジョセフ・マッケイは名士の生まれだった。


 南北戦争のあいだ、ジョージアは奴隷制維持の南軍として戦った。


 敗戦後、父のジョセフ・エマーソンは南部の民主党から北部の共和党に鞍替えして、ジョージア州の最高裁判所の裁判官に任命され五年間務めた。


 その後、古巣の民主党へとまた鞍替えし、ウェスタン・アンド・アトランティック鉄道の社長に就任し、ブラウン家は百万長者の家となった。


 南北戦争に負けた後、南軍の多くの政治家や将軍たちがあれこれ苦労しているなか、ジョセフ・エマーソン・ブラウンは抜け目なく勝ち馬を選び、財産を築き上げた。


 ブラウンはまた黒人差別主義者で、彼の持つ炭鉱に黒人系の囚人を働かせて、それなりに儲けていたらしい。


 ほんとに抜け目のないじいさんである。


 それに比べると、息子のジョセフ・マッケイ・ブラウンのほうはそうでもない。


 大学で法律を学び、ハーバート大学のロー・スクールに進んだが、ジョセフ・マッケイは視力がかなり悪く、そのためロー・スクールをやめることになる。


 その後、故郷のジョージアに戻ってきたジョセフ・マッケイは兄の法律事務所で実務経験を積み上げて、1873年、弁護士資格を得たが、視力の問題で法廷に立つことはなかった。


 その後、父親を百万長者にしたウェスタン・アンド・アトランティック鉄道に就職。20年と長いこと務めて、運行管理の責任者まで出世している。


 ジョセフ・マッケイが政治の世界に足を踏み込んだのも鉄道がらみであった。

 ジョージア州鉄道委員会の委員に任命され、州の鉄道行政に関わるが、鉄道運賃の低額化に抵抗したため、当時の知事に解任される。


 それが、よっぽど悔しかったのか、ジョセフ・マッケイ・ブラウンはジョージア州知事選挙に立候補し当選。1909年から1910年、1912年から1913年に知事を務めていた。


 知事在任中、ジョセフ・マッケイは禁酒政策の推進を図った(禁酒法施行前の話である)。

 また、自動車運転免許と自動車登録を制度化した。


 ジョセフ・マッケイはこれまで自分の人生を捧げていた鉄道が不利になるような政策を取った。

 鉄道委員会の権限は縮小され、労働組合への規制を強化した。


 このあたり、ジョセフ・マッケイが何を考えていたのか分からない。


 ただ、ジョセフ・マッケイは同じくジョセフという名前だった父親と区別するために家族からはリトル・ジョーと呼ばれていた。

 父親を百万長者にした鉄道を弱めることにジョセフ・マッケイなりに意味があったのかもしれない。


 それともう一つ。禁酒運動のことである。

 ジョセフ・マッケイ・ブラウンは典型的なプロテスタント保守的南部紳士だった。


 彼は黒人を差別し、共和党員を憎み、カトリックを憎み、そしてユダヤ人を憎んだ。

 南部の伝統とか良識といったひどく抽象的なものを褒めたたえる典型的なこちこち南部人だった。


 なんだか書いていて、ラケッティアっぽいところがない。

 では、そろそろ彼の罪についてみていくことにする。


     ――†――†――†――


 1913年、ジョージア州、いや、全米が注目するセンセーショナルな殺人事件があった。


 13歳の少女、メアリー・フェイガンが強姦された上で殺され、その死体が彼女が務めていた鉛筆工場の地下室で見つかった。


 捜査線上に浮かんだのは鉛筆工場の管理職をしていたユダヤ人の青年レオ・フランクである。


 同じく鉛筆工場に勤めていた黒人従業員ジム・コンリーがレオ・フランクにメアリー・フェイガンの死体を地下室に運ぶのを手伝わされたという証言があり、フランクは逮捕されたのだが、物的証拠はなかった。


 それどころか、証拠はジム・コンリーの犯行を示めしていたが、ジョージアの警察はコンリーは死体隠匿罪でのみ逮捕し、レオ・フランクを殺人罪で逮捕した。


 フランクとその弁護人はジム・コンリーの話が全部うそであるとして、実際、様々な物証がそれを裏づけていたのだが、レオ・フランクに下った判決は死刑だった。


 レオ・フランクと少女殺害をつなぐのはジム・コンリーの証言だけで、その証言が非常に怪しく、物証はコンリー単独説を示唆している。


 ところが、ジョージア司法当局は「ジム・コンリーのようなニガーがあんなにうまく偽証をできるわけがない」というハチャメチャな人種差別論法を使ってきた。


 そんなもので死刑にされるのではたまったものではない。


 しかし、レオ・フランクはなぜ、こんな目に遭わされているのだろうか。


 それは彼がユダヤ人であったからだ。

 それも上流階級のいけ好かないユダヤ人だったからだ。


 当時のジョージア世論は偏屈だった。

 白人のプロテスタント的美徳以外のものはみな差別対象だった。


 世論はもう結果ありきでレオ・フランクの有罪を信じ切っていて、毎日、裁判所は取り囲まれ、「くたばれ!」とか「神の裁きを受けろ!」といった叫び声がきこえてくる。


 この状態で無罪評決なんてした日には裁判官も陪審員も無事では済まない。


 コンリーの証言だけで死刑宣告をされた背景にはそういったものがあった。


 レオ・フランクの弁護団は当時のジョージア州知事であるジョン・スレイトンに恩赦を求めた。

 スレイトンはフランクの裁判がいいかげんな差別意識の産物であると思っていたし、フランクが死刑にされれば、それは無実の人間を殺すも同じことだとも思っていた。


 1915年6月20日、スレイトン知事は恩赦の減刑を出して、死刑から無期懲役に減刑した。

 これで時間は稼げるので、そのあいだにフランクの弁護団が再審手続きを取ればいい。


 ただ、スレイトン知事はジョージア世論からあからさまな脅迫を受け、妻とともにジョージアを後にするハメになってしまう。

 スレイトンがジョージアに戻ってこれたのは五年後だったが、そのころにはもうレオ・フランクは生きていなかった。


     ――†――†――†――


 1915年7月。ジョージアのとある新聞にコラムが設けられた。

 そこではジョセフ・マッケイ・ブラウンが州知事による恩赦をけなしていて、〈ジョージアの良識ある紳士〉は、このユダヤの殺人鬼に裁きを下さなければいけないといったことを凝り固まった文章で盛んに書き立てていた。


 そして、ジョセフ・マッケイ・ブラウンと〈ジョージアの良識ある紳士〉たちはメアリー・フェイガン騎士団という()()()()をつくった。


 この組織の目的はただ一つ、レオ・フランクを木に吊るすことである。

 犯罪以外に存在意義がないという点では立派な組織犯罪である。


 1915年8月17日、メアリー・フェイガン騎士団が刑務所を襲撃し、レオ・フランクを連れ去ってしまった。実によく練られた襲撃で、メンバーのうち電気工が刑務所の電線を切り、錠前工が牢屋を開け、自動車整備工が用意していた自動車で逃げてしまったのだ。

 

 メアリー・フェイガン騎士団はメアリーの故郷のマリエッタという小さな町の、メアリーがよく遊んでいた木にレオ・フランクを吊るした。


 リンチ以外のなにものでもない。

 吊るすとき、首が切れて、流血し、相当エグいことになっていたが、ぶら下がるフランクの下では実行犯とみられる男たちが腕組をし、正義を執行した自信にあふれていた。


 この殺人においてメアリー・フェイガン騎士団の人間が逮捕起訴されることはなかった。


 ジム・コンリーの単独犯行が明らかになり、レオ・フランクに特赦が与えられたのはそれからずっと後の1986年3月11日のことだった。


 正義もへちまもない、後味の悪い事件である。


 1932年3月3日、ジョセフ・マッケイ・ブラウンは八十歳でその生涯を閉じた。

 彼が最期の地に選んだのはジョージア州のマリエッタである。


 マリエッタこそ、彼の栄光、彼の最高正義だったのだ。

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