ロサンゼルス市警本部長 ~ジェームズ・E・デイヴィス~
二十年代の禁酒法時代から三十年代の大不況時代にかけて、ロサンゼルスの縄張りはフリーテリトリーだった。
確かに昔からのシチリア系マフィアが縄張りを持っていたが、さほどの大組織とは見なされず、シカゴなり、ニューヨークなりのマフィアたちが大物を送り込んで、商売することが自由に行えた。
しかし、フリーテリトリーとされたのは支配者が誰もいなかったからではない。
むしろ、強力過ぎる支配者がいたため、ヤクザの世界が大きく踏み出すことができず、そのためにギャングたちは表向きはなかよくしておこうと手を打ったからだ。
1933年から39年。
ロサンゼルスの犯罪組織を支配した強力過ぎる支配者の名はジェイムス・エドガー・デイヴィス。
彼はロサンゼルス市警のトップ、市警本部長であった。
――†――†――†――
20年代中盤。デイヴィスは風紀課の特別捜査班の刑事としてメキメキ頭角を現した。
そして、1926年、デイヴィスはロサンゼルス市警本部長に就任する。
彼が真っ先にしたのは射撃の成績のよい五十人の警官をさらに徹底的に訓練した『拳銃部隊』を設立させたことだった。
デイヴィス本部長の方針は簡単だった。
犯罪者は殺せ。
このひと言に尽きる。
彼はロサンゼルスのストリートに銃にものを言わせる特別法廷を持ち込んだ。
警官たちは有罪と見なした犯罪者を即座に撃ち殺した。
もし、警官が犯罪者に温情を示せば、――あるいは法律にかなった人間らしい配慮を示せば、それは叱責の対象とされた。
彼は黒人、共産主義者、子どもにイタズラする変態はその場で殺せと奨励した。
人は彼をこう呼んだ。『二丁拳銃デイヴィス』
とにかく、銃の訓練を重視したデイヴィスは自身も実に優れた銃の名人だった。
当時のニュースリールには数メートル離れた男がくわえている煙草を射ち飛ばす妙技を見せている。
一歩間違えれば、殺人である。
このように彼にはちょっと狂ったところがあった。
もし、現在のロサンゼルスに彼が降臨したら、ストリート・ギャング絡みの犯罪は皆殺しの形で解消されるだろう。
ただ、誤解してほしくないのは、彼はある種の犯罪は許容している点だ。
彼は狂っていたが、それでいて現実主義者だった。
犯罪を撲滅し尽くすのは不可能であることは分かっていた。
だから、彼は犯罪者たちを締め上げ、賄賂をまき上げ、完全にコントロールすることを望んでいた。
彼の治世下で、600の売春宿、1800の違法賭け屋、24000台の違法スロットマシンが彼の保護下に置かれ、賄賂がロサンゼルス市警に染みわたっていった。
東海岸から大物ギャングにしてラスベガスの発明者であるバグジー・シーゲルがやってきたが、デイヴィスの方針に異を唱えることはできなかった。
1929年、彼は市警本部長の任期を終えた。
そして、1933年、彼は再び市警本部長に任命される。
33年から39年にかけて、彼の強圧的な治世は続いた。
彼はさらに『共産主義者摘発班』を編成し、労働組合の幹部やリベラル政治活動家を逮捕、もしくは盗聴し、睨みをきかせまくる。
このころのデイヴィスはヒトラーそっくりのちょび髭を生やしている。
彼はまさしくファシストであり、ヒトラー流の反ユダヤ主義を熱心に唱えていた。
めちゃくちゃである。
確かに当時の警察はどこも荒っぽく、人種差別にまみれ、アカと見なされた人々を半殺しにし、賄賂も取るが、ロサンゼルス市警はそれでもずば抜けていた。
終わりの始まりは1937年にやってきた。
レストラン・オーナーで改革運動家のクリフォード・クリントンが大陪審の陪審員に選ばれた。
クリントンはロサンゼルスの汚職に関する陪審員になったのだが、大陪審は起訴を見送った。
あきらめなかったクリントンは当時の市長フランク・ショーにロサンゼルスの汚職を明らかにするための第三者委員会を招集すべきだと打診した。
フランク・ショーもヒトラーそっくりのちょび髭を生やしていて、デイヴィスの盟友であり、汚職にまみれていたが、どうもこのころ、自分に対する風当たりが強かったためか、形だけ改革派に賛同しておこうと思って、第三者委員会の設立を許した。
ところが、第三者委員会は形だけでは済まなかった。
ロサンゼルス市の汚職を徹底的に摘発すべく、動き出したのだ。
クリントンら第三者委員会はロサンゼルス市警の汚職がひどく、デイヴィス本部長は事実上、ロサンゼルスの犯罪を支配していると暴いた。
市長のショーとデイヴィス本部長はヤバいと思い、ロサンゼルス・タイムスと組んで、クリントンが共産主義者の手先と報道させた。
さらにデイヴィスは対共産主義捜査チームにクリントンを監視させた。
クリントンは電話を盗聴されたし、新しいカフェテリアを開く許可を突然取り消されたり、税務上の問題をあれこれ取り上げられ、市と警察からあらゆる妨害を受けた。
ただ、クリントンに味方がいなかったわけではなく、元警官の私立探偵ハリー・レイモンドが捜査に協力した。
ロス市警はそれに対して、暴力でこたえた。
情報収集班のアール・カイネック警部の指示のもと、クリントンは家を二度爆破され、レイモンドは自動車爆弾で死にかけた。
こうした爆弾騒ぎに対し、ロサンゼルス・タイムスはクリントンらのお涙頂戴の売名行為と報道した。
さらにロサンゼルス地方検事はクリントンらの訴えに耳を貸さなかった。
1938年のロサンゼルスでは、市長、検事、警察トップ、大手新聞社が手を組んで、犯罪を隠そうとしていた。
ロサンゼルス市警の情報収集班は自分たちに敵対するもの全員の電話を盗聴し、そのなかにはロサンゼルス上級裁判所のフレッチャー・ハウロン判事も含まれていた。
1938年、クリントンが二度目の爆弾で命を狙われると、ロサンゼルス当局に対する、市民の風当たりは強くなった。
『アカの陰謀を防ぐためだ!』では済まないところまで来ていたのだ。
そして、1938年、市長フランク・ショーは有権者たちの申し出により、リコールされた。
アメリカ合衆国史上、最初のリコールである。
同盟者ショーを失ったデイヴィス市警本部長は行政面でのサポートを得られなくなった。
後任の市長が自分が監視対象に置いていたフレッチャー・バウロン判事であったため、政治的支持が得られなくなった。
情報部のアール・カイネック警部がクリントンとレイモンドに対する爆弾による殺人未遂で起訴されると、デイヴィスは完全に面目を失い、大陪審はデイヴィスを起訴こそしなかったが、辞職に追い込まれた。
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1949年、デイヴィスは心不全で死亡した。
警察を追われた後、ダグラス社の飛行機工場の警備主任になっていた。
収入のよい職である。
実際、デイヴィスが追放されたことについて、警官たちの感想は『恥知らず』ではなく『ついてなかった』くらいのものだった。
デイヴィス後のロス市警には、大物ギャングのミッキー・コーエンや高級娼婦の元締めのブレンダ・アレンとの癒着、ブラックダリア事件の迷宮入りなど問題が山積みだったのだ。
デイヴィスの二代後の本部長、ウィリアム・パーカーがロサンゼルス市警を本格的に改革した。
こうして、ロサンゼルス市警は暴力や人種差別や汚職について、他の都市の警察と同じくらいのレベルまで立ち直ったわけである。




