ブラック・ロビン・フッド ~テディ・ルー~
1948年か1949年か分からないが、シカゴでのこと。
黒人ギャングのボス、エド・ジョーンズとイタリア系マフィアの幹部、サム・ジアンカーナが法廷侮辱罪だか脱税だかで同じ牢屋に入った。
ジョーンズは牢屋での退屈を紛らわせるつもりでジアンカーナに自分がやっている数当て賭博がいかに儲かるかを話した。
ジアンカーナはカルチャーショックを受けた。
これまで黒人なんてアホばかりでしょうもない連中だと思っていたのだが、とんでもない!
なにせジョーンズのポリシーは多い日で一日に一万ドル、一年の通算で120万ドルも稼ぎ出すのだ。
お人よしのジョーンズがポリシーのうま味をあれこれ話しているあいだに、サム・ジアンカーナはシャバに出たら、ポリシー・ビジネスを乗っ取ってやろうと腹を決めた。
ジアンカーナは出所すると、ジョーンズとその妻を誘拐し、身代金10万ドルとポリシー・ビジネスの譲渡を要求した。
ジョーンズはすっかりびくついて、身代金を払い、シカゴを去った。
他の黒人系のポリシーの胴元たちもジアンカーナの暴力と脅迫の前に膝を屈して、サウスサイドのポリシーは全てがジアンカーナの配下になった。
ただ、一人、テディ・ルー(1898~1952)を除いて。
これは当時、最強最悪とうたわれたイタリア系マフィア相手に互角に戦い、シカゴの黒人街からロビン・フッドと呼ばれたあるギャングの話である。
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ポリシー、あるいはロッテリー、ナンバーズというのは三桁の番号を当てる宝くじのようなものである。
ごく少額からの賭けの受付をしていたので、違法ではあったが、誰でも気軽に参加できた。
ポリシーの始まりは奴隷制度があった時代、黒人奴隷たちが自分たちでもできる低額のギャンブルをつくろうとしたのが始まり、と言われているが、黒人奴隷たちのあいだでそういったゲームが流行ったとか、ゲームのためのコネクションがつくられたという記録はない。
どうもイタリア系移民がイタリアのロトくじを持ち込んだのが最初らしいのだが、どういうわけかマフィアはそれに興味を示さず、代わりに黒人系ギャングたちがそれをまわした。
テディ・ルーがポリシーに関わったのは1929年ごろと言われている。
ルーはルイジアナの小作農の生まれで、仕立て屋仕事を覚えて、あちこちまわっていた。
ちょうど時は禁酒法時代で酒の密売も少しはやったらしい。
31歳のとき、テディ・ルーはシカゴに移り、そこで裕福な仕立て屋エド・ジョーンズの店に雇われた。
ジョーンズは表向きは仕立て屋をしたが、裏ではポリシーの胴元をしていて、ガッツがあって頭もいいルーはジョーンズの右腕として、ポリシー・ビジネスをまわしていくことになる。
ジョーンズはきちんと払うものは払っていて、地元の有力な政治家に賄賂を渡していた。
肌の色が白かろうが黒かろうが、ドル札の色はグリーンなのだ。
政治家の庇護のもと、ジョーンズとルーのポリシーは1930年の時点で一日に二千ドル稼ぎだした。
現在の価値になおすと、ざっとだが四万ドルということになる。
当時、シカゴのサウスサイドを牛耳っていたアル・カポネもポリシーに興味を持ち、自分たちでも胴元をやってみたらしい。
ジョーンズはカポネとのあいだには揉め事を起こさなかったので、彼らのポリシーはさらに利益を増やし、1938年の時点で一万ドルを一日に稼ぐほどになった。
順風満帆に見えたジョーンズとルーのポリシー帝国はジョーンズが同じ牢屋のサム・ジアンカーナにポリシーの利益について自慢したことで終了する。
そもそもサム・ジアンカーナの組織はカポネの組織の後継である。
ただ、カポネたちは実際にポリシーの胴元をしてみても、あまり儲からなかったらしく、すぐ興味を失った。所詮は黒人たちのゲームだと。
だが、それがとんでもない間違いだったことにサム・ジアンカーナは気づいて、ポリシー乗っ取り計画を企む。
ジアンカーナらシカゴ・マフィアの前に黒人ギャングたちはなすすべがなかった。
凶悪過ぎるのだ。なにせ、マフィアが使っているのはマッド・サム・デステファノみたいな手合いなのだから。
エド・ジョーンズは妻とともに拉致されて、テディ・ルーのもとに身代金10万ドルを払えという要求が突き付けられた。
ルーはジョーンズのために金をつくり10万ドルの身代金を払った。
ただし、ジョーンズが解放されたのを確認した後でのことだ。
このことはルーの性格をよく示している。
つまり、なめられっぱなしにならない芯の強さ。約束事はたとえ相手がクレージーなイタ公でもきちんと守る信義という点だ。
ジョーンズはポリシーから引退してシカゴを去り、他の胴元たちもジアンカーナの配下に組み込まれていったが、テディ・ルーだけは抵抗し、自分の縄張りを守り続けた。
ジアンカーナはルーをさらって身代金を払わせることにきめ、手下のファット・レニー・カイファノにルーの車を尾行させた。
ルーはそれに気づいて、銃撃戦になり、カイファノが死んだ。
1951年6月19日のことである。
この瞬間からルーはアメリカで最も凶悪で情け容赦のない負け知らずの犯罪組織を相手に本格的な抗争に入っていった。
警察はルーを殺人で逮捕し、ルーは正当防衛を主張した。
ルーはマフィアの身内を殺したということで、マフィアの報復が予想されたので厳重な監視のなか収監された。
裁判のほうは殺人での起訴は免れた。ルーは検察側にコネがあり、ルーにまつわる証拠品が〈消滅〉してしまったのだ。
ルーはイリノイ州の違法賭博法で起訴されただけで済んだ。
保釈されたルーはすぐに信用のおける用心棒をまわりにつけ、マフィアとの全面抗争に打って出た。
白人相手に互角に戦うルーをシカゴの黒人街の住人たちはロビン・フットにたとえた。
ルーは当時の黒人社会の希望の星だった。
慈善事業に気前よく寄付をし、ある家が貧乏で葬式が出せないと嘆いていると、ルーが葬儀代を肩代わりした。
ある老婆がポリシーで当たりを取ったのに、その胴元が彼女に賞金を払おうとしないと、ルーはその胴元に道理を教えてやり、老婆に金を払わせた。
ルーはシカゴの黒人コミュニティから尊敬されていた。
彼の扱っているポリシーは違法だが、禁酒法同様、罪のない犯罪だと見なしていたのだ。
ルーはドラッグ・ビジネスで隣人を麻薬漬けにした連中より一つ前の世代の、昔気質のギャングだった。
ルーとジアンカーナの抗争は激化していき、ルーは常に用心棒を連れて、隠れ家から隠れ家へと移動しながら暮らしていた。
だが、ルー=ジアンカーナ戦争は思わぬ局面を迎える。
1952年8月1日、テディ・ルーは医者から末期の胃がんを宣告された。
転移していて手術もできない。今はまだ体が動くだろうが、それも長くない。
余命は半年だった。
同じ日、テディ・ルーは用心棒軍団に報酬を払って解散させ、隠れ家から自分の家に戻った。
そして、それ以来、マフィアも警察も屁とも思わず、一人で堂々と町を歩いた――中折れ帽に千ドルのスーツでとびきりビシッとめかしこんで。
末期がんを宣告された二日後の1952年8月3日、テディ・ルーは自宅前で車に乗ろうとしたところをショットガンで撃たれて死んだ。
ジアンカーナはポリシー・ビジネスを完全に乗っ取り、戦争は終わる。
その後、黒人ギャングはいくつかのグループになって出てきたが、彼らはヘロインを売りさばき、安易に暴力に走り、同じ黒人のコミュニティを食い物にした。
テディ・ルーのように心から尊敬されるギャングが現れることはなかった。
最後は1970年代にFBIが盗聴したジアンカーナの言葉でしめることにしよう。
「ニガーかどうかは関係ない。あのくそ野郎は男として死んでいった。やつはデカいタマをぶら下げてた。信じねえだろうがな、やつを殺ったことを恥ずかしく思うことがある」




