スポーツ用品 ~ピーター・フォン・フランツィウス~
禁酒法時代のギャング映画に欠かせない小道具がトンプソン機関銃だ。
あの丸い弾倉と木製のストックが、ソフト帽とコートに似合う。
しかし、ギャングたちはどこからあんな武器を調達しているのか。
普通に店で買っていた。
この時代、機関銃を買うのにライセンスはいらなかった。
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ピーター・フォン・フランツィウスは1896年にアメリカで生まれた。
父フリッツはドイツ系移民で、銀行家で株式仲買人の百万長者。
1917年に父が亡くなる。その時点でフォン・フランツィウス家の総資産は1100万ドル。
現在の価値はざっと×20で2億2000万ドルで、二百五十億円以上。
ただ全部が全部ピーターのものになったわけではない。
妹がひとりいる。
それにフリッツ父ちゃんは1913年に四日間だけ、元ダンサーのオーストラリア人女性と結婚していた。
父ちゃんは十四歳年下のそのオーストラリア人にダンサーから永久に足を洗うかわりに莫大な富を約束したのだが、オーストラリア娘は四日でその婚前契約を破棄し、ダンサーとしての情熱は止まらないとヨーロッパへ逃げた。
そういう事情があるので、いろいろ手続きが大変だろうが、ひとり息子のピーターには確実に100万ドル以上の現金があった。
二十一歳の若き百万長者ピーター・フォン・フランツィウスには様々な未来が開けていたのだが、よりによって彼が選んだのは銃のディーラーだった。
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まずダイレクトメールで販売を始めたらしい。
店は彼が両親から受け継いだ豪邸である。
変なダイレクトメールをもらったといって、銃を買いに店に行ったら、豪邸があって、フォン・なんとかと名乗るハンサムな若者が待っていた。
この浮世離れにもほどがある、ワケ分からん系ビジネスは当たった。
1924年、ピーターは売り物をスポーツ用具全般に拡大していく。
この時代、狩猟の関係もあり、銃をぶっ放すことはスポーツのひとつだった。
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彼が銃器ディーラーを志した1917年、ヨーロッパは第一次世界大戦の真っ最中で、アメリカが参戦を決めた年でもある。
この大戦争は様々な新兵器を生み出した。
戦車だの戦闘機だの毒ガスだの。
特に目立ったのは機関銃だった。
ワーッと走ってくる何百という歩兵を一丁の機関銃がなぎ倒していくのはこの大戦のシンボルとなった。
ただ、この時代の機関銃はデカかった。
三十キロはあった。
四人がかりで銃の本体、弾薬その他を持ち運ばないといけない。
そんななか、アメリカ軍の退役大佐ジョン・トンプソンはひとりで持ち運べる機関銃を開発する。
それがトンプソン機関銃である。
ただ、すぐには売れなかった。
トンプソン機関銃は確かに軽いが、使う弾がライフル弾ではなく拳銃弾なため、射程と威力で劣った。それに軽いとは言っても、本体が四キロもある。
それに肝心の大戦が終わってしまい、トンプソン機関銃のセールスはなかなか困難を極める。
そんなとき、ピーター・フォン・フランツィウスとトンプソン機関銃が運命の出会いを遂げる。
そして、1925年。
この年はシカゴのギャングにとっては最悪の年だった。
前年末にノースサイド・ギャングのボス、ダイオン・オバニオンが殺され、その報復で一月にジョン・トーリオが撃たれて死にかけ引退。アル・カポネが組織を引き継いだが、オバニオン殺害で同盟したシカゴのシチリア人たちが揉め事を引き起こし、ニューヨークのシチリア人たちが自分たちの内輪もめでシカゴのギャングのそれぞれの派閥を味方に組み込もうとする。それとは別にサルティス=マックアーレン・ギャングがオドンネル・ギャングやラルフ・シェルドンと狂ったように殺し合っていた……。
要するに、機関銃を売るのにこれほど適切なタイミングはなかった。
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トンプソン機関銃は一丁225ドル。×20で現在の4500ドル。
お高いが機関銃としてはどうかというと、現在の優良サブマシンガンであるヘッケラー&コッホのMP5の軍用が一丁3万ドルだから、これと比べれば、死ぬほど安い(軍用MP5が死ぬほど高いのもあるが)。
ピーター・フォン・フランツィウスは武器商人がよくやる手で、両サイドに売った。
カポネも、そのライバルも、この銃の虜になった。
トンプソン機関銃は職人が一丁一丁丁寧に真心こめてつくるので、すぐ品薄になった。
品薄になれば値段も上がるが、それでもギャングたちは欲しがった。
それだけの価値があったのだ。
フランツィウスが売った銃のなかでも目立った事件は以下の三つである。
1928年のフランキー・イェール殺害。
1929年のセント・バレンタイン・デーの大虐殺。
1930年の新聞記者ジェイク・リングル殺害。
フランキー・イェールはカポネの兄貴分だった男で、ニューヨークのブルックリンに縄張りを持っていた。酒の仕入れ値のことでカポネともめ、自動車で走行中、突然横づけしてきた自動車から機関銃を乱射され、命を落とした。
セント・バレンタイン・デーの大虐殺はカポネがノースサイド・ギャングのたまり場になっているガレージを警官に化けた部下に襲わせ、壁に並ばせたギャング四名とたまたまそこにいたカタギ三名の合計七名を機関銃で殺害した。
新聞記者ジェイク・リングルは鉄道下の地下道を歩いていたところを殺されたのだが、シカゴ・トリビューン紙はギャング抗争の殉教者として訃報を載せたが、後でギャングとどっぷり癒着していて、違法賭博場に投資していたことが発覚した。
どれも当時かなり有名になった事件であり、その凶器がひとりのスポーツ用品店経営者によって売られたことは注目を浴びた。
フランツィウスはトンプソン機関銃がギャングの手に渡っていることの責任を問われたが、自分は銃をメキシコ政府に売った、それから銃の所有者がどう変わったかは知らないと言い逃れをした。
だが、そんなことで世論は納得せず、フランツィウスは追及され逮捕された――。
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――とはいかないのが銃社会アメリカである。
この時代のアメリカでは酒を売ることは違法でも、機関銃を売ることは違法でもなんでもなかった。たとえ相手がギャングと知れていてもである。
だから、〈ギャングの武器屋〉と呼ばれたフランツィウスは一度も起訴されていない。
その後、フランツィウスは自身のスポーツ用品店をスポーツ・インコーポレイテッドという会社に再編し、様々な銃とその付属品を含むスポーツ用品を1968年、72歳で病死するまで売り続けた。
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もっとゾッとする話。
当時、スポーツ用品店でダイナマイトを売ることも違法ではなかった。
そのせいで1927年、ミシガン州で、アンドリュー・キーホーというぷっつん野郎がスポーツ用品店で買ったダイナマイトで小学校を大勢の子どもごと吹き飛ばした事件が起きている。
当時のアメリカには機関銃やダイナマイトがサイコパスの手に渡るのを防ぐシステムがなかった。
一番の問題はそこであり、この問題は現在進行形である。




