大佐たち ~オラシオ・デ・マトス~
チョコレートがおいしく感じられる話をしましょう。
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1889年、ブラジルは帝政から共和制に移行した。
ただ、リオデジャネイロをはじめとする沿岸部の裕福な都市が貧しい内陸部を支配するという構図は変わらなかった。
ただ、ブラジルの内陸部というのは役人を送って簡単に支配できる土地ではなく、経済的にも政治的にも大きな影響力のある大農園主たちが国民防衛軍という民兵の大佐の権限で土地と人間を支配していた。
彼らにはカネと権力と、そして人を殺すことを屁とも思っていないジャクンソと呼ばれる男たちがいた。
こうした地元ボスの支配体制を『大佐主義』と呼んだ。
1882年、オラシオ・デ・マトスが生まれたのはそんなバイア州の内陸部、ブロタス・デ・マカウバスという田舎町だった。
サバンナのような土地で、デ・マトス一族はそこに大農園を持っていた。
物騒な土地だったらしく、オラシオが十五歳のとき、試練が訪れる。
地元の警官が彼の父親と兄をさらい、隠し持っているダイヤモンドの在り処を吐けば、解放すると言われた。
ブラジルの奥地では警察もまたギャングであった。
十五歳の若造に何ができたかというと、何もしなかった。
オラシオは警官たちに対して言った。
「お前らのために何かしてやるつもりはない」
「親父さんと兄貴の命が惜しくないのか?」
「ふたりはデ・マトスの人間だ。そのくらい覚悟している。そういうお前は覚悟できているのか? 親父と兄貴を殺したら、おれが追う。荒野だろうがリオデジャネイロだろうが必ず見つけ出して殺す」
父親と兄は解放された。
当時、マトス一族の統領であったクレメンティノ・マトス大佐はこの名づけ孫を見込みありと目をかけ、国民防衛軍の中佐の地位を買い与えた。
これはオラシオがいっぱしの男として公式な形で認められ、いずれは支配者となることをあらわすものであった。
1912年、オラシオが三十歳のとき、死に瀕していたクレメンティノ・マトス大佐は一族の統領の地位を、この若き闘士に譲ると宣言し、その儀式を行った。
オラシオは船を漕ぐための櫂をクレメンティノより与えられ、オラシオは集まった一族にケーキを焼いた。
そして、一族のための〈名誉の掟〉を守ることを誓った。
1.何人にも恥辱を与えるべからず、何人からも恥辱を与えられるべからず
2.何人からも盗むべからず、何人にも盗ませるべからず
3.一族と友人を尊敬せよ
4.戦いのときも平和のときも敵を尊敬せよ
5.安易に攻撃し、挑発してはならない。だが、侮辱されたら、何よりもまず名誉を考えよ。尊厳なしに生きる意味はない。
まるでマフィアである。
こうして、オラシオはマトス一族を率いる統領となった。
当時、マトス一族はミリタオ・コエーリョ大佐と敵対関係にあった。
オラシオはコエーリョ大佐に休戦を呼びかけ、コエーリョ大佐もこれに賛同した。
マトス家とコエーリョ家の土地は少し入り組んでいて、同じ親戚なのに相手の支配地域が重なっていて、会いに行くことができないということがあったのだ。
こうして、オラシオの治世は平和から出発したが、まもなくそれは破られる。
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1914年12月4日、オラシオの弟ヴィクトル・デ・マトスが殺された。
ヴィクトルは既に十数人を殺害している凶暴な男だったが、ある若い男女を殺したのがまずかった。
殺された男の義兄はジュヴェナル・クスクスというジャクンソで、カンペストレのボスであるマヌエル・ファブリシオの庇護を受けていた。
クスクスは義兄弟を殺された報復として、ヴィクトルに二発ぶち込むと、ファブリシオの支配するカンペストレへ身を隠した。
オラシオは当初、この報復を司法にゆだねるつもりだったが、クスクス宛ての召喚令状は衆人環視の場所でビリビリに破られた。
翌年の六月、オラシオは州知事ジョセ・ジョアキム・セアブラに解決を要請したが、よい返答は得られなかった。
ここにきて、オラシオは平和的解決を捨て、一族郎党を率いて、カンペストレを襲った。
カンペストレではファブリシオが州警察の警官五十人を含むジャクンソたち二百人を率いて村を要塞化し、オラシオはこれを完全に包囲した。銃弾がやり取りされ、両陣営に死傷者が相次いで出た。
オラシオは力攻めをやめて、兵糧攻めにした。
数日後、ペドラ警部補と部下数名がカンペストレから脱走し、オラシオに投降した。オラシオは投降者の命は助けるとし、カンペストレのファブリシオ陣営に揺さぶりをかけた。
それからまもなくバイアの州都サルヴァドルからカンペストレの包囲を解くための援軍がやってきた。
イタリア系のレリオ・フレディアーニ率いる百三十人はオラシオと銃撃戦の末、退却させられた。
包囲開始から四十二日後、食料が尽き、カンペストレは降伏した。
マヌエル・ファブリシオはヴィクトル殺害犯を引き渡し、法の裁きを受けさせると約束した。
これにより、カンペストレ周辺での政治的権力を握っていたファブリシオが失脚し、バイア州内陸部の政界において、オラシオ・デ・マトスの名が有力なボスとして知れ渡ることになる。
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1918年、マトス一族の天敵であるコエーリョ大佐との休戦が破られた。
コエーリョ大佐は銃と馬で武装したジャクンソたちとともに、友人のヴェナス少佐を捕らえたという理由でオラシオの故郷であるブロタス・デ・マカウバスを襲撃し、何人かの口に銃を突っ込んで、頭を吹き飛ばした。
コエーリョ大佐はこれであの成り上がりのオラシオに自分の威光は知らしめることができただろうとし、州都サルヴァドルに帰っていったのだが、オラシオは人数と銃をそろえて、戦争の準備を始めた。
オラシオはペガやフンダスゥといったコエーリョ大佐の領地を焼き討ちにした。
そのあいだもコエーリョ大佐は州都から離れなかった。
結局、この戦争では戦闘ではオラシオが勝ったが、政治的にはコエーリョ大佐が勝利した。
コエーリョ大佐の運動により、州知事のアントニオ・ムニスが仲裁に乗り出し、それぞれの所有地の境界線を決めたが、これがコエーリョ大佐サイドに有利な判定だった。
オラシオはコエーリョ大佐の領地に編入されそうな地主たちの支援を得て、再戦を用意する。
コエーリョ大佐はオラシオの政治的友人オンシオ・リマを磔にして、さらに彼のジャクンソのひとりが所有していた牛を全て取り上げた。
これは宣戦布告だった。
オラシオはコエーリョ大佐の領地であるバッラ・ド・メンドスを五か月にわたって包囲。
自ら先頭に立って戦い、血を血で洗った結果、コエーリョは逃走した。
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ますます勢力を拡大したオラシオは州知事選挙に介入した。
前知事セアブラと現知事ムニスには煮え湯を飲まされていたので、オラシオは武装蜂起をちらつかせながら、反対派に肩入れした。
同盟した大佐たちとともにチャパダ、レンソイスといった大きな町を一発も撃たずに占拠し、ムニス知事を追いつめた。
ことが大きくなり過ぎて、リオデジャネイロの連邦政府の介入を招いたが、オラシオの勢いは止まらなかった。
1920年、オラシオ派の大佐たちがレンソイスに集まって、いくつかの協定を結んだ。
まず、武装を解かないこと。
カンペストレのファブリシオが追放。
州知事選挙の実施
州上院議員選挙の実施(これにはオラシオ自身が立候補していた)
これをレンソイス同意と名づけて、政府側に突きつけた。
いまや農園主たちは州の政治を完全に牛耳っていた。
州知事選挙ではゴイス・カルモンという無名の若手が当選し、オラシオに敵対したセアブラとムニスの勢力が駆逐された。
州上院議員に当選したオラシオは首都へ好意的なメッセージを送るが、彼の反対勢力は電信技士を買収して、メッセージが届くことを妨げた。
さらにオラシオ反対派はセサール・サ大佐を筆頭に、レンソイスに七百名余りの連邦軍を送った。
オラシオはそれに対し、三百名。
先陣を進んでいたモタ・コエーリョ少佐の前にあらわれたのはオラシオ本人で、オラシオはシャツをはだけさせ、撃ってみろと挑発。
すぐに銃弾がオラシオに放たれたが、オラシオに注意が向いた政府軍を真横からオラシオのジャクンソたちが発砲、モタ・コエーリョ少佐が戦死したが、オラシオは体はおろかシャツやジャケットにもキズひとつなく、無敵の男と呼ばれるようになる。
このころになると、ブラジル南部のリオグランデ・ド・スルでも反乱が持ち上がり、ブラジル政府はバイアの動乱を穏便に収めることに方針転換し、敵対行動が停止され、和平交渉が始まった。
その後、オラシオ・デ・マトスはレンソイスを中心に政治的影響力を強めていき、自身で新聞社を立ち上げ、世論を操縦していった。
1927年にはルイス・プレステスの追放にも一役買った。
プレステスは我々日本人には全く馴染みがない名前だが、ブラジル人には革命家として知られている人物で当時、青年将校たちを中心とする〈中尉主義〉を標榜して国家改造のようなことを主張したのだが、当時の政府に蹴散らされ、オラシオのもとに逃げてきた。
オラシオと政府とのあいだの仲がよくないと踏んだ上での行動だったが、この時期のオラシオはもはやバイア州では敵無しであり、政府を牛耳るリオデジャネイロの支配層ともおれおまえの仲だったので、このプレステスをボリビアまで追い散らした。
オラシオはまさに『この世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば』な勢力を誇っていたが、1930年がやってきた。
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これまた日本人には馴染みがないが、1930年というのはブラジルにとって重要な年だった。
リオグランデ・ド・スル州の知事――つまり、政府と非常に折り合いのよくない州の知事だったジェトゥリオ・ヴァルガスがクーデターを起こして、ワシントン・ルイス大統領を追放。
自ら大統領となり、腐敗した資本家のための政治権力と手を切り、新体制のもと、ブラジルを叩きなおすと宣言した。
まあ、この手の宣言を額面通りに受け取ると馬鹿を見るのだが、ともあれ、これがブラジル全土に影響を及ぼす騒ぎになり、レンソイスからバイア州を支配するオラシオも対応を迫られた。
ヴァルガスの新体制は旧来の腐敗した資本家と手を切るが、中央集権の政治体制とは手を切らなかったし、むしろヴァルガスは独裁的権限を握った。新体制はブラジル各地に存在する大佐たち――小さな殿さまたちに武装解除し、政府に従うよう要請した。
もちろん、オラシオ・デ・マトス大佐のもとにもそうした通達が来たが、オラシオはむしろ喜んで、武装解除に協力し、自分の部下たちにも新政府に忠実であれ!と命令した。
これには計算があった。
まず、オラシオは武装解除をした一方で、自身をレンソイスの市長とした。
それにオラシオは、新体制がそこまで地方の権力を弾圧はできないと踏んでいた。
新体制はサンパウロ州に対し、自分たちに従うように命じたが、サンパウロ州はこれを突っぱね、内戦騒ぎになった。
結果はというと、新体制が競り負けて、サンパウロの自治を許すことになった。
当時、世界のコーヒーの三分の二がブラジルで作られ、そのブラジル・コーヒーのうち九割がサンパウロ州で作られていた。
つまり、サンパウロはブラジルで最もカネのある州であり、カネは権力に直結し、サンパウロ州はコーヒー利権を守らせるために政府に大統領を何人も送り出した。
そのサンパウロ州が新体制に異を唱え、それが通ってしまった。
腐敗した資本家と手を切るうんぬんという話はここで忘れよう。
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十代から血みどろの権力抗争をかいくぐってきたオラシオは農業モノカルチャーで権力が一点に集中するバイア州も同じように立ち回れると読んだ。
オラシオはこうも言った。
「これまでのような、祖国の栄光のために個人的ないさかいを持ち込む余地は新体制には存在しない。ブラジル万歳。新体制万歳!」
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1930年12月30日、オラシオ・デ・マトスは逮捕された。
サルヴァドルに連行されたが、これは形だけのものですぐに釈放されている。
武装解除もオラシオが許す形に限られて、祖国の栄光のために個人的ないさかいを持ち込むコロネリズモは新体制とうまい具合に折り合いをつけた。
1931年5月15日の夜、オラシオ・デ・マトスは六歳になる娘と散歩をしていたところを、地元の警察官ビセンテ・ディアス・ロス・サントスによって背中から撃たれて死んだ。享年四十九歳。
ディアスは裁判にかけられたが無罪となり、またディアスは自分ひとりの犯行だと言い続けた。
釈放後、襲われて、ブラジルから逃げたが、まもなく謎の死を遂げている。
結局、背後関係があるのかないのかすら分からなかった。
これ以降、コロネリズモは新体制のなかで解体され、オラシオ・デ・マトスのような優れた指導者が出ることはなかった。
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ところでサンパウロ州がコーヒーで富と権力を築いていたが、バイア州はというと、カカオで富と権力を築いていた。
つまるところ、これまでオラシオ・デ・マトスがバイア州で行った血生臭い抗争の数々はカカオの作付面積に関わるものだったのだ。
どうですか? チョコレートがおいしく感じられたでしょう?




