一章:夜神アリスの学校B
ここ市立櫻田中学は昨年から小中一貫校となり、老朽化の激しかった中学校校舎は半年ほど前から工事が始まり、美しくなったばかりだった。中学校は東校舎と西校舎に分かれており、小学校は「サクラダホーム」という大きな校舎を使用している。当然敷地面積も広く、室内プールやら、人工芝の巨大なグラウンド、さらには乗馬クラブ用の馬小屋まで設置されている。昨年からこのように豪華になり少し入学費用が高くなったそうだ。というのも、この小中一貫校の総校長というのがどうやらできたらしく、その総校長が結構な金持ちで、本人曰く「スクールレボリューション」とやらを目指した結果なのだという。
そんな櫻田中学の中でも夜神アリスは特に成績が良く、何度も生徒会から書記または会計に来ないか、と依頼があるようだが、彼女はそのようなものには一切興味を示さず断り続けている。そもそも、アリスはただでさえ目立ってしまう桃色の髪と、薄いエメラルドの瞳を気にしており、人前に立つのもまっぴらごめんだった。しかも、学校のトップに今誰が立っているのかもあまり知らないし、そんなことを考えている暇があったらゲームをプレイしたり、漫画を読んでいたりする方が何万倍も楽しい。
「夜神さん、夜神アリスさん、起きてますか?問六の答えは?」
ふと声がかけられびくりとする。
(やってしまった。またボーっとしていた。ここは適当に答えておくか。)
「マイナス三です。」
と、頭に思いついた数字を答える。すると、教師は驚いたようにこちらを見つめている。
「よく聞いていますね。流石です。視点はどこに合わせているのか全く分かりませんでしたが、ちゃんと授業は聞いているんですね。えらいえらい。」
女教師はにこやかに微笑むと授業を再開した。一瞬、何が起こったのかアリスは分からなかった。
(え、合ってたんですか今ので。都合がよすぎませんか?)
つまらない問題すぎて、いや、つまらない授業すぎて常にボーっとしている彼女だが、人一倍に勘が鋭いので適当に言った答えが合うのも相当な確率で起こるが、今日は少し都合がよすぎる。先程まで教科書に一切目を通さず、むしろ幽体離脱をしていてもおかしくないくらい何も聞いていなかった時に言った答えが当たる確率は、今日蹴った石ころが隕石だったという確率と同じくらい低い。
(いや、それは言い過ぎか。)
とにかく、都合がいい日や運がいい日は何かしら良からぬことが起きる気がする。
そんなことを考えているうちに気付けば三時間目である。一番憂鬱な時間だ。しかも、体育である。
「こら!アリス!しっかり走るのでありますよ!!」
体育教師、美馬崎華寿子の独特な喋り方がアリスをイラつかせる。華寿子は通称かずっちと呼ばれており、見た目は幼女と変らない。だが、歳は二十八でスパルタ教師である。茶髪のポニーテールは、常にふさふさしており、身長百六十センチメートルのアリスからすれば小動物から指導されているようで、虫唾が走る。自分の妹もロリっ子で可愛らしいが、そこまでロリコンではないし、むしろ体育教師というのが気に入らない。勉強は完璧にこなすアリスだが、唯一体育が苦手で成績はいつも四。
「はあ、はあ、こ、これがウォーミングアップって、、、どれだけ、、走らせれば、、気が済むんですか!」
ただでさえランニングは嫌っているのに、このだだっ広い櫻田小中学校の敷地内の周りを三周も走るのはとても辛い。しかもこのあとハードル走の練習となると、アリスには絶望しか待っていない。
「何を甘いことを言っているのだ!このくらい、すぐ終わるだろう?アハハ!」
運動能力の高い青葉はピンピンした顔で肩に手をかけてくる。
「そうでありますよ。アリス、貴方は諦めが早すぎるのであります。さあ、ハードルの準備手伝ってくださいね。」
ポンポンと、小さい手で頭を叩かれる屈辱。アリスは華寿子の手を払いのけ、さっさと準備に取り掛かった。
「反抗期でありますか?可愛らしいでありますね。」
にこりと幼稚な笑みを浮かべる教師を睨みつけアリスは苛立ちを落ち着かせるために深呼吸をした。
(全く、あの幼女はどうしても好きになれませんね。)
やがて、退屈な午前の授業はあっという間に終わり、給食の時間になった。
櫻田中学の給食は給食センターから運ばれてくるのではなく、朝早くから出勤している調理師や、管理栄養士が調理し、温かい御飯を作っている。アリスは一人で食べるのが好きだが、青葉が一緒に食べようと言うので仕方なく二人で机をくっつけて食べている。
「アリス!今日はカレーライスだぞ!我は凄く楽しみであるぞ!」
うきうきとした青葉にアリスは冷静に返答した。
「そうですね。楽しみにしておきましょう。」
「むうー、あまり楽しみではないのか?」
青葉は顔を歪める。
「、、、。そもそも櫻田小中学校の給食、温かくてとても美味しいですが、考えてみてくださいよ。
まず、米飯は認めますよ。ええ。美味しいです。けれども、パンはどうです?パサパサしていますし、味が全くないじゃないですか。それに、パンの味を緩和する牛乳は水で薄めたかのように不味いです。
パンをスープにつけて食べる行為は高級料理店では禁止されていますし、マナーが悪いです。何故だか知っていますか?パンが不味いという行為だからです。
しかし、この学校の給食風景をよく観察したことはありますか?生徒はおろか、教師さえもパンを仕方なくスープにつけて食べているのですよ。パンの日にスープが出なかった時の皆さんの絶望的なお顔を見たことはありますか?」
アリスの毒舌な解説が青葉を更に戸惑わせる。
「ま、まあ、そこまで言わなくてもいいだろう?た、確かにお主の言う事は正しいと思うぞうん。
だがな、き、今日はカレーライスなのだ。ほ、ほらもう少しテンションを上げていかねばな。アハハ、。」
焦りながら強引に言う青葉が可哀想で、アリスはこれ以上給食についてとやかく言うのをやめた。
「そうですね。では取りに行きましょうか。」
「う、うむ!」
(あー、困った顔を見るのは楽しかったですが、追い詰めすぎると面倒なのであのくらいがちょうどいいですね。ふふふ)
スパイスと、野菜の香りが漂い、微かに鼻をついてくる。
アリスと青葉は、とやかく言っていたが、食べ始めると無言になった。
暫くして、青葉が目を輝かせながら言葉を放った。
「う、上手いぞ!前に食べたときよりも更にばーじょんあっぷしている!」
「そうですね。まあはしゃぐ必要はありませんが。あと、口に食べ物を含んだ状態で話すのをやめてください。行儀が悪いですよ?」
「いいではないか。うみゃいにょりゃきゃりゃ(うまいのだから)あむあむ。」
青葉の反省してない感の言葉が少し腹立たしい。
「、、、。私の言っていることが分からないんですか?その頭に詰まった脳味噌をフル回転させて理解してください。汚いです。」
「分かってるって。我は幸福に満ちているのだ!だから、もうしゅこしらけ(もう少しだけ)喋りたいのだ!」
アリスはため息をついた。すると、突如、青葉の背後からスラッとした腕が伸びる。
「分かってないでしょ!姉さん、あんまりアリスを困らせると怒るよ!」
黒田青葉の双子の妹、黒田茜が青葉の両頬をぐいっとつねる。
「い、痛いのだ!ひいいい。」
「姉さん、私家でも言ってるよね?口閉じて食べろって。なのにさ、アリスも言ってるのに、なんで分かんないの?ねえ、分かった?」
「うう。痛いのだ。それに、皆見てるから恥ずかしいだろう?」
青葉の場違いな返事に、茜は目を丸くした。そして、さらに指に力を入れ、
「姉さん、分かったって言えないの?」
睨み付ける。そのやりとりをアリスは楽しんでいた。
「ひいいいいい。わ、分かったのだ!ちゃんと行儀よくするから、手をはなすのだ!」
「ん。分かったらもうやらないでね。あと、アリスありがとね。」
ニコニコとしながら茜は手を離し、二年二組の教室へ向かった。
「いえいえ。いつものことですから。」
まだ頬をさすり、涙目を浮かべる青葉は給食を片付けると、そそくさと、運動場に遊びに出かけた。
アリスはその様子を見送りながら、不味い牛乳を一気に飲んでしまい、片付け、そして多目的ホールに向かった。だだっ広い校舎の一階の奥の方にある、古臭いホールだ。リニューアルした多目的ホールは、別舎の体育館の横にあり、この旧多目的ホールは使われることも滅多になく、人気さえしない寂しい場所なのだ。
旧多目的ホールのさらに奥へ進むと、薄暗い部屋の奥からピアノが見える。アリスはそこへ向かって真っ直ぐに歩き出した。昼休みの二十分間、アリスは薄暗くさびしい部屋の奥のピアノをひっそりと弾くのが日課であった。感情を表に出すのがあまり好きではない彼女が、自分を一番表現できる場所なのだ。
調律はほぼされなくなったため、音が微かに鈍い。だが、そんなことも気にせず、アリスは椅子を引いて鍵盤に指を置く。
途端に流れ出したのは、有名な交響曲の一部である。独特な始まり方と、テンポの移り行きが美しく、聴く者の心を鷲掴みにする。激しい曲の揺れがふと、滑らかに収まり、かと思いきや高く淡々としたメロディーが始まる。曲の折り返しが来ると、ある人はなんだまた初めからか、というのではないだろうか。
しかし、彼女の細かく正確なメロディーが再び戻ってくると、また聴ける、またあの壮大な部分が聴ける、と思わず感嘆の声を上げたくなるだろう。そして、初めてのメロディーが耳に流れ込む。一見全く違うように聴こえても、案外すっと頭に入り込んでくる。
さあ、いよいよ終盤に差し掛かった。古いピアノのせいか、彼女の力強さのせいか、ペダルを踏むたびに耳障りな音がする。かといって、それほど気になるわけでもなく、どんどん激しく感情が高ぶる音にドキドキする。まるで誰もいない空間を明るく包み込むように、彼女の演奏が、掃除開始のチャイムと共に終わりを告げた。
アリスは椅子を引き、鍵盤の上にカバーを被せ、ピアノを元の状態に戻した。片付ける時にもやはりギシギシとピアノは鳴った。相当古いようだ。
アリスが掃除場所に向かおうと、旧多目的ホールを出ようとすると、
「やあ。綺麗なピアノだったね。聴き入ってしまったよ。君、二年の子だよね?」
出口付近のソファに座っていた男子生徒が話しかけてきた。
「ええ。二年三組の夜神アリスです。お褒め戴き、有難うございます。」
「かしこまっちゃって可愛いね。僕は三年四組の谷田春香。女っぽいだろ?」
彼の質問に、アリスは戸惑うが時間を気にしながら冷静にこう言った。
「いえいえ。スッキリしたお名前ですね。では、掃除に遅れてしまいますので谷田先輩も早く行った方がいいですよ。では。」
「そうだね。また聴きに来てもいいかな?」
「ご自由にしてください。いつでもこの時間にここにいますから。」
そう言い残して駆け足で教室に向かう彼女を、春香は見つめていた。