第一話
古の時代に封印された魔王が復活し、絶望に覆われようとしていた世界に、異世界から一人の勇者が召喚された。
──それから五年。
勇者は仲間である魔導士と聖騎士と共についに魔王を打ち破った。
そして、世界に平和が戻って来た──
* * *
「リクト様、何を読まれているのですか?」
「ああ、セレスティナか」
セレスティナが尋ねると、リクトは気さくに持っていた本を軽く上げ、セレスティナに見せてくれる。
リクトが元の世界から召喚された際に持っていたという、この綺麗に装丁された本は、すべてのページが信じられないくらい滑らかで薄く、白い紙でできていた。そしてセレスティナの知る手書きの本とは違い、量産用の『印刷』という技術で印字されたという本には、少しの文字の滲みも見えなかった。
「不思議な文字ですね。これが異世界の文字なのですか?」
「ああ。日本語って言うんだけどな」
「『思ひつつ寝ればや人の見えつらむ、夢と知りせば覚めざらましを』……? 日本語というのは、随分難しい言葉なのですね」
「これは古典だからな。貴方のことを考えて眠りについたら夢に貴方が出てきました。夢と知っていたら起きなかったのに、って意味らしい。まぁ、恋文だな。
それより、セレスティナ、日本語読めるのか?」
「解読の魔法を使いましたもの」
「なるほどな。便利な魔法があるんだな」
リクトは感心したように頷き、セレスティナの頭をくしゃりと撫でる。
「セレスティナでもそんな高度な魔法が使えるのか。オレも負けてられないな」
そう言って、リクトはセレスティナに向かって優しく微笑んだ。
幸せな想いに包まれたまま、ふっと目が覚めた。セレスティナは数度瞬きをする。
すっかり見慣れた自分の寝室と白いシーツが目に入った。
「夢、だったのね……」
セレスティナは独り言ち、嘆息した。『夢と知りせば覚めざらましを』とは、まさに今の自分の気持ちそのものだ。
セレスティナは再度嘆息すると、小さく自分に気合を入れる。そして、傍らに置かれていたベルを使って侍女を呼ぶと身支度を始めた。
蘇った魔王の魔力により暗雲立ち込めていた空が青さを取り戻し、人々に笑顔が戻ってきて数ヶ月。凶暴化した魔物の襲来により荒れていた人里の復興が、世界各地で始まっている。
それはここ、アルバラード王国の王都も同じである。
幸いにも、アルバラード王国の王都は魔王が根城としていた土地からは遠く離れていたために、もともと大きな被害はない。ただ、被害が少ないということは、各地へ物資や人手を供給できるということでもあるため、人々は忙しそうに──しかし明るく力強く──街を往来していた。
身支度を終えたセレスティナは、掃き出し窓からテラスへ出た。
良く晴れていて気持ちがいい。城下は今日も賑わっているのだろう。とても喜ばしいことだ。風に乗って聞こえて来る喧騒に微笑みつつも、セレスティナは今朝見た夢のことを思い出していた。
あの夢は、五年前、リクトが勇者として召喚されて数ヶ月が経った頃の出来事だ。確か、セレスティナは十一歳だったはずだ。
突如召喚され、元の世界に帰れないと知ったリクトは、当初かなり荒れていた。未だ十七歳だったのだから当然と言えば当然である。しかし王城で過ごす内、次第に本来の明るさと前向きでひたむきな性格を取り戻していった。そして、『勇者』としての力をコントロールできるようになるため、そして、戦い方や生きる術を身に着けるため、様々なことを学び始めた。
リクトに魔法の使い方を教えていた魔導士は、セレスティナの師でもあった。そのため、セレスティナはよくリクトと顔を合わせていた。
セレスティナはリクトに懐き、よく共に時間を過ごしていた。
そして、あの夢の出来事があったとき、あのリクトの笑顔を見て、セレスティナは幼いながら恋に堕ちたのだった。
セレスティナは、掃き出し窓の傍らに立つ侍女に向かって微笑んだ。
「今日も素敵な一日になりそうね」
「左様でございますね」
侍女が首肯したのを見て、セレスティナは緑色の目を一層細めた。ハーフアップに結われたはちみつ色の髪が柔らかい風に靡く。
セレスティナは、アルバラード王国の第二王女だ。来週、十六歳を迎える。それは、彼女にとって重要な意味があった。この国では十六歳で成人したとみなされるからだ。
「せめてこの娘が成人を迎えるまでには、魔王を討伐し、世界に平和を」
父であるアルバラード王国国王は、セレスティナが産まれた際、そう切に願ったという。その望みが叶ったこともあり、セレスティナの誕生日の夜には大規模な祝賀会が催される予定だ。
魔王に侵攻されていたために、アルバラード王国ではもう二十年ほど華美な催し物が行われていない。ゆえに、セレスティナにとっては初めての夜会となる。
セレスティナは、それが楽しみである一方で、憂鬱な想いも抱えていた。
その理由は二つ。
一つ目の理由は、その夜会までに、父王がセレスティナの婚約相手を決めることになっているからだ。相手は年齢の吊り合う貴族の誰かになるだろう。そして夜会にて、皆にお披露目されるのだ。
王女という立場から心に秘めてはいるが、想い人がいるセレスティナにとって、別の人と婚約するということは辛いものがあった。
「あら」
侍女の呟き声が聞こえて、セレスティナは首を傾げた。
「どうかして?」
「いえ、あちらにアナスタシア様がいらっしゃいましたので」
侍女の示す方を見ると、テラスから見える庭に、セレスティナの姉であるアナスタシアの姿があった。
アナスタシアは、セレスティナの実の姉だ。同時に、勇者と共に魔王を打ち破った国内随一の魔導士でもある。
はちみつ色の髪と緑色の目はセレスティナと同じだが、背が低く童顔なセレスティナとは異なり、大人びて見える顔立ちと、それに負けない身体のラインを持っていた。そんな外見に反し、性格はサバサバとしていて、何事もポジティブに捉えて行動できる。
さらに、生まれながらにして強力な魔力を授かっており、特に攻撃系の魔法に関しては十六の齢になる頃には右に出る者がいないほどになっていた。王位継承権保持者の筆頭でありながら、リクトと救世の旅に出ることになったのは、そのような理由があったからだ。
セレスティナは姉のことが自慢で大好きだし、アナスタシアもセレスティナのことをとても可愛がってくれる。
姉妹の仲は非常に良好で、アナスタシアが勇者と共に旅立つと聞いた日、セレスティナは最愛の姉を失うかもしれないという恐怖と別れの悲しさで泣いて過ごし、アナスタシア自身に「そんなに泣かないでよ」とセレスティナが慰められてしまうほどだった。
姉に声を掛けたかったが、離れたところから大声で呼び掛けるのは淑女として大変はしたない。後で朝食の時に話せるのだし、と思い直したとき、庭を歩く姉の隣に誰かいるのが見えた。
黒い髪に浅黒く焼けた肌、それは、今朝夢で見たばかりのリクトだ。二人は笑い合いながら歩いている。
凱旋後、この世界にて身寄りのないリクトは、以前と同じようにやはり王城に身を寄せていた。だから、城内に彼の姿があっても不思議ではない。だが、よく──本当に頻繁に──リクトとアナスタシアが仲良さ気に一緒にいる姿が、よく目撃されていた。まるで、恋人同士のように。
アナスタシアは勇者一行として四年も共に旅をしたのだ。苦楽を分かち合ったその長い時間の内に、勇者とアナスタシアが愛を育んでいてもまったくおかしくはない。父王は世界を救った勇者の望みを無下にできないだろうし、いずれはアルバラード王国の王位を継ぐ予定である第一王女と、民の畏怖と尊敬を集める勇者との結婚であれば反対する理由がない。
そして素の世界に戻る術を持たない勇者も、この世界での後ろ盾が欲しいはずなのだ。
だから、噂されているのだ。セレスティナが憂鬱である二つ目の理由。夜会にて、救世の勇者であるリクトと、セレスティナの実姉であり勇者一行の魔導士として活躍したアナスタシアとの婚約が、正式に発表されることになるのではないか、と。
「セレスティナ様、そろそろ朝食の準備が整う時間ですわ」
侍女の声に、セレスティナは我に返った。いつの間にか、アナスタシアとリクトの姿は見えなくなっている。
セレスティナが自分の部屋に戻ろうと歩き出したとき、ふわりと風が吹いた。
その風に乗って、白いものがこちら目掛けて飛んで来る。それは、セレスティナの足元にふわりと舞い落ちた。
「あら……?」
それは紙飛行機だった。
それを拾い上げて辺りを見回してみるが、誰もいない。当たり前だ、ここはセレスティナのプライベートな部屋にあるテラスなのだから。
「どこから飛んできたのかしら」
「年若い使用人たちが休憩時間に遊んでいたのかもしれませんね。後で使用人頭に注意しておくよう言っておきます」
掃き出し窓近くに控えていた侍女がセレスティナに歩み寄り、その手から紙飛行機を受け取ろうとする。が、セレスティナはそれを制した。紙飛行機に、文字が書かれているのを認めたのだ。
確かに、城に出入りしている使用人の中には、紙飛行機で遊ぶような年齢の少年たちもいる。だが、彼らが字の書かれている紙──つまり、書物や書類や手紙──を遊びに使用するとは考えにくい。文字は読めずとも、文字が書かれている紙は主たちが大切にしているものだと知っているからだ。
セレスティナは不思議に思って紙飛行機を広げると、折れ線の入った羊皮紙に目を通した。
渡せないとわかっているのに、こうして想いを綴りたくなってしまう。
使命を帯びた旅の途中でも、気が付けば貴女のことばかり考えてしまう。
貴女がオレの名を呼ぶ声に癒される。
共に過ごした時間を思い、幸せになる。
貴女と、貴女の生きるこの世界を、心から守りたいと思う。
オレはこの世界の人間じゃないし、身分もないけれど。
それでも願わずにはいられない。
魔王を倒したそのときには、貴女の前に跪いて、手を取って、その指先に口付けて。
貴女に告げてもいいだろうか。共に生きて欲しい、と。
思った通り、それは手紙だった。それも、恋文だ。差出人も宛名もないが、紛れもなく男性から女性に宛てて書かれたもの。そして、この羊皮紙に記されているのは普通には読めない『異世界の不思議な文字』だった。この文字には見覚えがある。
セレスティナは読まなければよかったと後悔した。
そう。この手紙は、リクトがアナスタシアに宛てて書いたものだ。