第七章
1
須藤を殺す。それがシノブの計画だ。
シノブからその話を聞いたのは、月曜日の夜、自宅で数学の課題を進めている時のことだった。机の端に置いてあった携帯電話が控えめな主張を始め、それが電話の着信だとすぐに気づいた。画面で電話の主を確認し、シノブの名前を見て安心する。
「はい」
「わたし、いま大丈夫?」
「うん」
シノブからの電話は珍しくない。それどころか、電話をする相手として、シノブの占める割合はかなりのものだ。それでも、彼女の声からは普段の親しさがなく、何か深刻な問題でも発生したのかと心配してしまった。
「あのさ、わたし考えたんだ」
「なにが?」
「三宅と須藤のこと」
その名前を耳にした瞬間、シノブが何を考えていたのか推測できた。彼女の問題ではなく、私の身に起きたことが関係していたのだ。
「考えたって、どういうことよ」
わざと明るく振る舞い、大した問題ではないのだとアピールする。それも、シノブの前では無意味だろう。
「復讐しよう」
「は?」
「やり返そうよ」
シノブの口調から察するに、冗談を言っているのではない。そもそも、この話題に関して冗談を言うほど、彼女は軽率な人間ではないと思っている。それでも、シノブの口から出た言葉を飲み込めないのも事実だった。
私が黙っていると、補足するようなシノブの声が聞こえる。
「須藤をさ、殺しちゃおう」
「殺すって?」
「他にどう言えばいいのよ」
シノブは困ったように笑い、耳に軽やかな音色が響く。それでも、頭の中は踊り出さなかった。
「本気で言ってんの・・?」
「本気よ、マジ。ヤっちゃおう」
シノブが明るい口調で話すのは、私と同じ目的なのかもしれない。「殺す」という非日常的な内容を、少しでも緩和したいのだろう。
「どうやって? 誰が?」
私は勘弁だ。正直、そう思った。
「方法は考える。まだ思いついてないんだよね」
「ハハッ」というのん気な笑い声。いまのはシノブの本音だった。
「誰がやるのよ」
「それはナミじゃないかな。やっぱり、自分の手で復讐しないと」
「イヤイヤイヤ」
「できない?」
シノブの声が途切れ、私に返答を求めているのだと感じた。だが、「できる」なんて簡単に言えるはずがない。人殺しなど経験ないし、今後も経験する予定はない。結婚よりも、自分には縁のないことだと思っている。
「できないよ。そこまでやろうだなんて思ってないし」
「でも、あいつらはナミに酷いことしたんじゃん。それに、人殺しでしょう?」
シノブの言った「人殺し」というのは、チカちゃんの事故に関してだろう。須藤ともう一人の「マーニさん」という人物が乗っていたレクサス。それが、チカちゃんを事故で殺してしまったのを知った。
私が得た情報はシノブにも伝えてある。彼女から教えてもらったサイトを使い、目撃したのがレクサスだと認識することにした。それも伝えてある。
また、そのレクサスによる事故で亡くなったチカちゃんは雑草広場に遺棄され、無惨な姿で発見された。その犯人はまだ捕まっていない。それに加え、ロックを虐めていたのもその二人なのである。
「だからって、私があいつを殺す理由には・・」
「悔しくないの? やられっぱなしだよ?」
憎しみの混ざった声で言われると、心の奥に仕舞った感情が飛び出してくる。
「でもさ・・」
「わたしが考えるから。上手い方法が思いついたら、また連絡するね」
シノブは勢いよく言って、「じゃあね」という言葉とともに電話が切れた。
左手で持っていた携帯電話を置き、天井を見上げてため息をつく。怒濤の展開に戸惑っているが、須藤たちにやられっぱなしで悔しいのも事実だ。殺すのは別として、何かしらの復讐をしてやりたい気持ちは持っている。
今朝、教室で明らかになったこと。
須藤と「マーニさん」の二人が、事件の中心にあるレクサスと関係している。おそらく、二人はそれに乗ることも多いのだろう。レクサスの所有者は「マーニさん」で、須藤は乗せてもらっているだけに思えるが。
私が目撃した、チカちゃんが車に運び入れられている瞬間。あの時、はたして須藤も同乗していたのか。それが明らかになれば、須藤も明確な犯罪者となる。そうすれば、私の復讐心に火が点くような気もするのだが。
自分が何をどうすべきなのか考えているうちに、意識が遠のいていくのを感じた。
事態が進展したのは、私が目を覚ますのと同じ頃だったようだ。後で振り返った時、それを理解した。
机と顔に挟まれていた左腕は痺れていて、ボーッとする頭でそれが消えるのを待つ。目の前にある電子時計は、午後十一時三分を示していた。机の上にはやりかけの参考書が広がっていて、勉強の途中でシノブと電話していたことを思い出した。どうやら、あの直後に眠ってしまったようだ。遅い時間まで寝てしまい、勉強はほとんど進んでいない。
とりあえず、目を覚ますために一階へ下りることにした。冷たい水を飲んで歯を磨く。そんなことで目が覚めるのを期待していた。今日中に終わらせたい課題は、まだまだ残っている。
一階に下り、テレビの音が聞こえてくるリビングへ入る。この時間であれば、両親のどちらかがいるような気がしていた。
案の定、ソファーに座っていたのは母親で、化粧はまだ落としていなかった。
「おかえり」
私の挨拶に頷いて返事をし、疲れた様子でソファーに背中を預ける。おそらく、今日も遅くまで酒を飲んでいたのだろう。その相手が誰なのか、私は知りたくもなかった。
「あんたたち、問題はない?」
「ないよ」
「あんたたち」というところに、愛情の薄さを感じる。それでも、いまさら寂しくも何ともなかった。
「そういえば、さっき帰ってくる時さ。警察が集まってたわよ」
「どこに?」
母親は煩わしいという気持ちを隠すことなく体を動かし、テーブルに置かれたコップを手に取る。それを一気に飲み干し、かすれた声で言う。
「小柴さんとこ。何かあったのかねぇ」
「小柴さん」が誰かわからないが、最近は身の回りで問題が発生し過ぎに思える。無関係と思っていたものまで関連してくるし、いい加減、心のキャパシティが崩壊しそうだった。
「大騒ぎだったの?」
「さぁ。警察の車が数台停まっていたから、案外人殺しでも起きたのかもね」
母親は乾いた笑いを上げ、自分とは無関係であることを確信している様子だった。確かに、どこの「小柴さん」が何をしようと、私たちには無関係だろう。
その考えが間違っているなど、誰に予想できるだろうか。
2
十七日の火曜日、教室には平和が充満していた。ただ、その中の一部、正確には三宅の周囲にだけ、明らかな雨雲が満ちていた。私はそれに関わらぬよう歩き、自分の席に腰掛ける。視界の端に三宅たち三人の姿を捉え、悟られぬよう観察していた。
私が席に着いてすぐ、教室の前方にいたシノブが近づいてきた。
「あのね」
そう言って私の目の前で屈み、机の上に両腕を広げた。肩から上だけが見えている状態だ。
「レクサスの持ち主、逮捕されたって」
「ウソ!」
つい大声を出してしまい、誤魔化すように手で口を隠す。手遅れだが。
「誰だったの?」
シノブに顔を近づけ、周りに聞こえないような小声で尋ねる。
「小柴っていう大学生だって。安城市内に住んでる人」
「小柴」その響きが耳に届くと同時に、昨晩の母親との会話を思い出す。母親が見た光景は、一連の事件の犯人が逮捕される瞬間だったのだ。そうとも知らず、のん気に聞いていた自分が恥ずかしい。
「なんで・・逮捕されたの?」
その理由を知りたかった。
「丸岡チカちゃん、ナミの言ってた子ね。あの子を轢いて、遺体を捨てたからっぽい。わたしも人づてに聞いただけだから・・」
シノブは僅かに緊張した様子で言い、私を見つめたまま黙った。そうかと思えば、決意したように口を開いた。
「方法、思いついたよ」
「なんの?」
「復讐の」
一段と小さい声で言い、力のある目で私を見た。シノブが何を言おうとしているのか理解し、体温が僅かに上昇するのを感じる。
「どうやるの・・?」
実行する気はないが、話を聞くくらいならいいだろう、そう思った。
「雑草広場へ呼び出すの。あそこ、チカちゃんが捨てられた場所じゃない。証拠があるって呼び出せば、嫌でもやってくるはず」
「それで、どうすんのよ」
「バレないようにヤる、それだけ」
「いやいや・・」
不可能だろう、心からそう思った。
私とシノブのどちらでも、例え協力したとしても、男である須藤に勝てるとは思えない。私を襲ったあの男は、ケンカに慣れているような動きだった。勝てるイメージなど、一ミリも浮かばない。
「雑草広場には小屋があるの。知ってる? そこに呼び出しておいて、あいつが扉を開けた瞬間に襲う。できそうでしょ?」
「ムリでしょ」
「無理じゃないわ」
シノブの目から本気が伝わってくる。だが、私は同意できなかった。
まず、自分たちが人を殺せるとは思えない。それは実力的にも、人道的にもだ。さらに、小柴という大学生が逮捕された。それならば、警察が須藤の元へ辿り着くのも時間の問題に思えたのだ。
「警察に任せようって思ってる?」
考えを読まれたことに驚きつつ、引き攣った顔で頷く。すぐにシノブの顔が横に振られ、私の意見は否定された。
「ダメよ。自分の手でヤらないと。それに、撮られた写真はどうすんのよ」
須藤の携帯電話で撮影された、私の半裸。須藤を殺して、データを削除する。話は簡単だが、そう上手くいくと思えない。データ自体は、別のところにも保存されている可能性が高い。それこそ、三宅の携帯電話にも。
「わたしには許せない。須藤も、三宅も。逮捕された小柴ってやつも」
どうしてシノブがここまで復讐しようとしているのか、私にはイマイチ理解できない。私のため、だけなのだろうか。
「ナミがヤらないなら、わたしがヤるわ」
そう言ったシノブの目は本気で、とめても無駄だと確信した。おそらく、須藤を呼び出すのも彼女なのだろう。あとは、実行するのが私かシノブか、という問題だけなのだ。決して認めたくはないが。
「少しだけ考えさせて。そんなこと・・、簡単にできるなんて言えない」
「うん。でも、今日にでも呼び出すかもしれない。決断は早いうちにお願い。あと・・、襲うためのモノも用意してね」
シノブはそう言って立ち上がり、真剣な顔で私を見下ろす。最後に一瞬だけ優しく微笑み、背を向けて歩き出した。離れていくシノブの背中を眺めながら、自分の心に尋ねる。須藤にされたことは許せない。彼とその仲間のしたことも許せない。この思いは、人を殺してしまえるほどだろうか。
顔を僅かに右に向け、三宅の様子を伺う。
背もたれに背中を預け、不満そうな様子の三宅が目に入る。イライラした様子だが、その中に僅かな不安が混ざっているようにも見える。おそらく、「小柴」という須藤の仲間が逮捕されたことが関係しているのだろう。その人物と同じように、須藤が逮捕されないかと心配なのかもしれない。いったい、何のために須藤の味方をするのか。
一瞬だけ私と目が合い、三宅はあからさまに不満げな顔をした。敵意を丸出しにした野生動物のようで、必死に平静を努めている自分がバカバカしくなる。
そうか、復讐してしまえばいいのだ。
誰にも見つからないように、うまいことヤッてしまえばいい。
須藤は悪なのだ。私の行いは、それを罰する正義となる。
実行することをを決意し、シノブからの連絡を待つことにした。
3
校舎を出て、雑草広場へ向かう。
普段通りの授業が終わり、いつもと変わらぬホームルームを終えた。生徒会の仕事をしようと教室を出る頃、携帯電話に連絡が入った。
その携帯電話は、週末に新しく購入したものだ。それまで使っていたものは、須藤にカードを抜き取られ、本体は便器に投げ捨てられた。二度と使うことはできず、仕方なく新しいものを購入したのだ。当然ながら両親には相談できず、自分で解決しなければならないのが面倒だった。
その携帯電話に届いたメールの差出人がシノブだと確認し、心が揺れるのを感じた。それは喜びか、僅かな恐怖か。どちらにしろ、メールを確認して全てを理解することとなった。
シノブは、体調が悪いと言って昼休みのうちに早退した。体調が悪いというのが本当かわからないが、このタイミングでメールがきたことが重要だ。おそらく、今朝の会話と関係している。彼女が一人で何かを計画していることは明らかなのだ。
校舎を出たのが午後四時過ぎ、雑草広場へ到着するのは四時半を回った頃だろう。自転車を走らせながら、シノブからのメールを脳内で復唱する。
( 決行するよ。放課後、雑草広場にきてちょうだい )
それだけのシンプルなメール。文章の短さが、これが冗談ではないことを確信させてくれた。余計な言葉を並べるのはナンセンスなのだ。
シノブから指示されていたことがある。須藤を襲うための道具を持ってこいというもの。凶器と呼ぶべきものだ。
学校の中で、それに適したものを探した。結局、私が選んだのは花壇の側に落ちていた金属棒だった。レンガの欠けた部分に、代用品として置かれていたのだろう。長さは二十センチほど、円柱状で七センチほどの太さの棒だ。選んでみたものの、本当にこれを使って実行できるのだろうか。そんな不安がまとわりついたままだ。
小学校の側を通過し、人気の減った田舎道を進む。
次第に到着する雑草広場には須藤がいるはず。シノブがどうやって呼び出したのかはわからない。須藤が雑草広場のどこで何をしているのかもわからない。それでも、私の足はペダルを踏み続ける。やがて到着する雑草広場が、レースのゴール地点であるかのように。
行く先に雑草広場が見えてくる。
シノブが待っていてくれるのだろうか。私に何をさせる気なのか。はたして、私は本当に須藤を殺せるのだろうか。
そんな不安を拭えないまま、雑草広場の入り口へ近づいた。
その名の通り、広場の中は雑草が生い茂っている。周囲はフェンスで囲まれているのだが、その部分が見えないほどに枝が飛び出している。ここまで放置するのも大変ではないだろうかと推測するのだが、いまとなっては、誰も手入れをしようと思えないほどの状態だ。
入り口付近には、自転車が一台だけ停められている。須藤のものかと緊張しかけ、すぐにそれが間違っていることに気づいた。
大きさは私のものと大差ないが、自転車の雰囲気が幼い。マウンテンバイクというやつだろうかと想像した。まるで小学生が利用するもののように、端々にブルーのカラーリングが施されている。これがシノブのものでないことも明らかだ。無関係な別の誰かのものだろうか。こんなところへやってくる子供がいるとは考えていなかった。
そのすぐ隣で自転車をストップし、またがったまま携帯電話を取り出す。シノブからのメールが届いている。僅かに緊張しながら画面を操作し、内容を確認する。
( すぐに到着する。須藤は小屋の中にいるはずだから、一人で頑張って )
ずいぶんな放任主義だ。そう思いながらペダルに力を掛ける。入り口から少し離れた場所に自転車を停め、角度的に広場の入り口からは見えないようにしておいた。
自転車に鍵も掛けずに歩き出し、再び入り口へ近づく。
広場の中を覗くと、右手の奥に寂れた小屋が見えた。あの中に須藤がいるのだろうか。私には信じられない。あの乱暴で横暴な須藤が、シノブの言うことを聞くのか。小屋の中で大人しくしている須藤の姿を想像するのは容易ではなかった。
それでも、私にはシノブを信じるしかない。ここまできてしまった以上、実行せずに帰ることはできない。
カバンは自転車のカゴに置いてきたが、その中にあった金属棒は忘れずに取り出しておいた。これで、須藤の頭を殴る。突然襲われれば、さすがの須藤も防御できないだろう。そう期待している。
広場の中を進みながら、自分の決意が揺るぎそうになるのを抑える。膝上まで伸びる雑草を踏みしめながら、須藤から受けた行為を振り返る。彼の言葉、動作、それらが頭に浮かぶたび、憎しみも倍増していく。あいつをこの手で葬り去らないと、安心して生活することもできない。
小屋が目の前に迫ると、金属棒を握る右手に力が入った。
もう引き返せない。
この中にいる須藤を殺す。
そうすることで、私はこの負の荷物を下ろすことができる。
それ以外に方法はない。
音を立てぬよう歩き、小屋の扉の目の前で立ちどまる。左耳を扉へ近づけ、小屋の中の様子を伺った。僅かに聞こえてくる、何かの移動する音。人の声は聞こえないが、確かに何かが存在している。おそらくは、須藤で間違いないだろう。
左手を持ち上げ、目の前の薄汚れた扉に近づける。左手の甲を扉に向け、中指の第二関節を尖らせる。それを素早く二度叩きつけ、中にいる須藤に合図をする。
心が緊張しているのを感じる。
目の前の扉が開き、おそらくは緊張している須藤が出てきたら。私は、右手を振り下ろさなければならない。そうすることで、この世から問題を消し去らなければならないのだ。
緊張と沈黙の二秒間。
小屋の中から足音が聞こえ出すと、呼吸を整えることも難しくなった。下半身に忍び寄る、悪寒と尿意。それらが背中を伝い、首の後ろに広がっていく。頭の中には巨大な蛇の姿が現れていた。雑な足音が耳に届くが、それが須藤のものかどうかすら判断できない。私にできるのは、扉が開いた瞬間に殴り掛かることだけだった。
私のへそと同じ高さにある取手がガチャリと音を発し、目の前の扉が開き出した。小屋の中の様子は、真っ暗で見えない。私の立っている外界の光が、僅かに開いた扉の隙間に忍び込む。その光に照らされた誰かが姿を現わすのを感じる。
冷静に判断する間もない。
人間がいることだけを認識し、本能が理性を封じ込める。
右手を大きく振りかぶり、目の前に差し出された頭部に叩きつける。
これで、すべてが終わるはずだった。
4
ありえない。
須藤の体が縮んでしまったのか。
いや、それもありえない。
私は小屋の入り口で立ち尽くしていた。私の目の前で、幼い子供がうつ伏せで倒れている。上半身だけが小屋の外に飛び出している状態だ。
これは誰だ。
何故ここにいる。
誰にやられたのだ。
私?
小屋の中を覗き込み、他に誰かいないか確認する。不思議なことに、精神的な動揺はない。冷静に、周りに目を向けるくらいの落ち着きは側にいてくれた。中は暗くて見えにくかったが、そこに誰もいないことは明らかだ。広場の中には、小屋の周囲を含めて誰もいないはず。私の姿を誰かに見られている心配もなさそうだ。
私は小屋の中に足を踏み入れる。その際、倒れている少年を跨がなければならなかった。申し訳ないという気持ちが半分、これは誰だという疑問が半分だった。
小屋は六畳ほどの広さで、様々な道具が散々としている。奥の壁には窓があるが、その前には棚のような物が置かれている。そこには、様々な工具や木箱、ロープなどが保管されていた。外からの明かりを頼りに確認すると、奥の窓には鍵が掛かっていることがわかる。
振り返り、倒れている少年を見下ろす。
この少年は、この場所で何をしているのだろう。何故、小屋の中に隠れていたのか。
彼に近づき、伸びている両脚に手を伸ばす。そのまま引きずるように小屋の中へ運び、回り込んで扉の隙間を狭める。僅かな隙間だけから光が入ってくるようにし、外からは異変に気づかれぬよう工夫した。
少年の隣に屈み、顔を覗き込む。
幼い少年が、額から血を流して倒れている。目を瞑っていて、さほど苦しそうには見えない。まだ生きているのか、それとも即死してしまったのかもわからない。
この状況を見ても、自分が冷静でいられることが恐ろしかった。もっと叫び出すとか、一目散にこの場から逃げだしてもいいだろうに。
そんなことを考えながら少年の顔を見ていると、どこかで見たことのある顔に思えてきた。体は少し大きいが、小学生のような雰囲気。年齢としては、ショウタと同じくらいではないだろうか。
そんなことを考えていると、ある場面が目に浮かんだ。
小学校の前で、三人の少年と会話をしている自分の姿。目の前で倒れている少年が、その中の一人に思えてきたのだ。確か、最も体の大きな、リーダー格の少年だった。彼は、ショウタのことも、チカちゃんのことも知っているような素振りだった。
彼の頭から流れている血液は、遠慮することを知らないようだ。小屋の入り口付近にも、溢れ出た彼の血液が付着しているはず。すでに、手遅れのように思える。救急車を呼ぼうという善良な市民はいない。すでに転居済みだった。
私はゆっくりと立ち上がり、彼を殴った金属棒をしっかりと握り直す。このまま、ここから退散してしまおう。誰にも言わず、シノブにも話さない方がいいかもしれない。
それにしても、シノブは何故、私をここへ呼んだのだろう。須藤はおらず、シノブもいない。その代わりに、ほとんど何も知らない少年が一人いただけだ。彼は、完全に不運な被害者ではないか。
もしかすると、私をここへ呼ぶというのがシノブの計画なのだろうか。私をこの場所へ誘導し、シノブ自身は別の場所で何かを実行している。その計画に、この少年は無関係なのでは。偶然、不運に巻き込まれてしまったのだとしたら・・。
少年に対して申し訳ない気持ちがふつふつと浮かびながら、私はこの場を離れることに決めた。少年を小屋に残したまま、金属棒を持って歩き出す。光が射し込む僅かな隙間に顔を近づけ、外の様子を伺う。先程までと変わりない外界を目に焼きつけ、扉に触れている掌に力を加える。
滑らかに体を動かし、外の空気を体全体で味わう。周囲を観察し、誰もいないことを確認して走り出す。広場の入り口まで一直線に走り、小屋を振り返ろうとも思わなかった。あの出来事は、全てなかったことにしたかった。
入り口へ到着した時には息が激しく乱れていた。それでも立ちどまるわけにはいかず、垣根の向こう側に隠してある自転車へ駆け寄る。鍵を掛けなくてよかった、一秒でも早くこの場を離れることができる。
自転車の側で立ちどまり、必死に理性を保ちながらまたがる。そのままペダルに力を加え、立ち漕ぎの状態で自転車を走らせる。グングンと自転車を走らせながら、広場の入り口を通り過ぎた。このまま、自宅までとまるつもりはない。
それなのに・・。
進行方向から、自転車に乗った誰かが近づいてくる。その人物の姿を認識できるようになると、私の理性は崩壊し始めた。
ショウタだ。
あの子が、雑草広場へ向かってきている。
最悪のタイミングだ。
神様のイタズラに不満を感じる暇もないまま、私は判断を下さなければならなかった。
5
部屋のエアコンを点け、湯気のような空気を吹き飛ばす。
午後五時半、私は状況を理解できていなかった。先程、私が少年を殺してしまった後。ショウタが雑草広場へやってきた。ショウタはクラスメイトの多田くんに呼び出されたらしい。それに従うように彼はあの場へやってきた。
それは知っている。理解できる。
わからないのは、なぜ須藤があの場におらず、シノブは私をあの場に呼び出したのか、である。全て彼女の嘘なのか。何を意図した上での行動なのか。結局、雑草広場から自宅までの間、私の頭は混乱し続けていた。
関係のない少年を殺してしまった。私は犯罪者だ。何かの間違いとはいえ、須藤や小柴とやっていることは大差ない。少年を助けることもできたはずなのに、それをせずに逃げた。まるで、轢き逃げをした犯罪者と同じではないか。
雑草広場でショウタと出会い、最低限の接触だけであの場から離れることができた。彼に私の姿を目撃されたし、それは仕方なかった。小屋の中で少年を発見したショウタの気持ちを考えると、恐ろしくて真実を話せない。襲われたクラスメイトを自分の目で目撃する。それはどれほどの衝撃だろうか。
帰り道、公衆電話を使って警察に連絡することにした。携帯電話を使うことはためらわれ、足のつきにくい公衆電話を選択したのだ。細かい内容は省き、雑草広場で少年が倒れている、とだけ伝えた。
家に着くまでに、もう一つの大きな疑問が生まれていた。それを確かめるためにも、シノブと話をするべきだろう。カバンから携帯電話を取り出し、汗や砂利で汚れた指で操作する。手を洗うことや汗を拭うことですら、時間の無駄に感じていた。
シノブに電話を掛ける。しばらくして、私の耳に届いていた電子音が途切れた。
「もしもし」
シノブが普段と同じような口調で言う。それでも、私には彼女が通常運転ではないことがわかる。
「いったい、何をしたの?」
「何って?」
「どうしてあそこに須藤がいるなんて言ったの!」
感情を抑えられなかった。
人を殺した罪悪感と恐怖。それらが脚に絡みついて動けない。
「うん・・」
「はやく!」
返事をして欲しい。
「須藤がいるっていうのは嘘」
「嘘って・・なんのためよ」
シノブからの返事はない。耳に入ってくるのはエアコンの静かな作動音だけで、私の期待している音ではない。
「ナミを・・」
小さな音が聞こえる。鳥のさえずりよりも小さい。
「守るためよ」
「・・守る?」
それ以上、シノブは言葉を続けてくれなかった。
「守る」とはなんだろう。須藤たちから、ということなのか。だが、私が須藤を殺してしまえばいいだけなのだ。私を騙して、シノブにメリットはあるのか。
「さっき、私が雑草広場にいる間。シノブは何してたのよ」
私が出会ったのはショウタだけ。補足するなら小屋の中にいた少年もだが。
広場の入り口付近でショウタに気づき、慌てて隠れようとしたところまではハッキリと思い出せる。その後は、細切れの出来事のような映像が頭に浮かぶだけで、自分が緊張で混乱していたのだと自覚させられた。
「違うところにいた」
「どこよ」
「言えない」
「はぁ?」
何故だ。シノブは私を騙して雑草広場へ行かせた。それには理由があるはずで、彼女は何かを実行していたに違いないのだ。少なくとも、何かをしたかったはずだ。
「明日になれば全部わかる」
「いま教えて!」
シノブからの返事はない。答える気がないのか。
私は我慢できずに、一方的に電話を切った。大きく息を吐き、涙が零れ落ちそうになるのを堪えていた。首を伝うのは汗だろうか。それでも、心が泣いているのはハッキリとわかる。
叫び出したい、全てを投げ出して逃げてしまいたい。
右手には、いまも少年を殴った時の感触が残っている。右腕を切り落としてでも、それを忘れ去りたい。人殺しになった事実をシュレッダーで削除してしまいたい。
だが、そんなことは不可能なのだと私が一番よく知っている。
いや、一つだけ方法があるか。
本当に消え去ってしまえばいい。そうすれば、須藤から受けた暴力も、撮られた写真のことだってどうでもよくなる。少年を殺した事実も、私には関係なくなる。
死んでしまうのが、最も簡単な方法じゃないか。
私は再び携帯電話を手に取り、シノブに最後のメールを打つ。指が滑らかに動き、迷いなく文字を刻んでいく。
この瞬間は幸せだった。
ゴールが見え、最後の力を振り絞るような爽やかな苦しみ。
それがやがて終わると知っているため、私の指はとまらなかった。