ひとしずくの雨にほころぶもの
今回は時系列:前回の論功行賞の会議直後。
ティファリーゼ嬢の現状あれこれといった感じでお送りします。
ティファリーゼ嬢は小林の作品には珍しい真っ当な乙女ってやつでしょうか。
彼女一人だけ毛色が違うというか、一人いるだけでなんか作風狂いますね!
それは、ある日突然に。
耐えられない衝撃を伴って、心を掻き乱した。
その日の出来事は、生涯忘れられないこととなった。
そのくらい、心を揺さぶられたのだ。
わかっていないつもりではなかった。
だけど実感がわかなくて、そうなることの意味も重さも、正確には測りきれなくて。
なのにそうなることは確実で、確かにその時は迫っていた。
想像を超えた重圧。
ただただ重さに圧し潰されそうになる。
もうひと月も経たず、その時はやって来る。
彼女の人生が、身分が、立場が決定的に違えられる運命の日。
――父親の、戴冠式が。
その日を以て彼女の身分は『王女』になる。
否、まだ実は伴わないが、彼女は既にそう扱われ始めていた。
恭しく扱われる度に、その時が近づいていることに気づかされる。
今まで近くにいた人達が、なんだか遠く感じた。
数多くの女性の憧れであろう、『王女』という称号。
だけど多くの場合生まれに左右されるその称号を得られる者は、ほんの一握りだ。
彼女達、姉妹の場合は父親が国王になることで、珍しい事に後天的に与えられる。
今までの、ただの町娘であった自分とは変わる。
身分が変わるだけで、多くのことが一緒に違うものになってしまう。
身分を纏う中身は――少女自身には、何一つ変わることがないというのに。
強いて言えば、心構え。
その精神の有り様くらいしか、変えられない。
それだけで、精神の有り様が変わることで別人のようになってしまう人もいるけれど……。
少女にとって、それは前々からわかっていることでもあった。
父親が多くの人に望まれ、先頭に立ち、そして国に反旗を翻した。
あの時から、父が負けなければいずれそうなるとわかってはいたのだ。
それに合わせて、覚悟も決まっているはずだった。
だけどそれは、十代の少女が抱え、積み上げるにはあまりに重い。
覚悟も、責任も、圧力も。
幸いにして彼女の一家は人々に慕われていたので、悪意を向けられることは殆どなく。
誰からも気遣われ、好意的にいたわられていたけれど。
それでもやっぱり、まだ年若い彼女にとっては急すぎる変化であり、重すぎる期待と圧力の連続だ。
いざ実際に自分がそうなるのだと考え、覚悟を決めたつもりになってはいても……それは『つもり』になっていただけだと、父親が王城を陥落させて否応なく自覚させられてしまった。
まだ柔らかな心は、じわじわと追い詰められていく。
未知の立ち位置『王女』というものに。
そこに追いやられようとしている、自分の現状に。
高い身分も地位も名誉も、財貨も望まぬ清き乙女。
彼女にとって、望んだ訳ではない『王女』の椅子は、酷く不穏に胸をざわめかせるものだった。
父の戴冠式まで、あと何日か……日数を数える度に、時が過ぎるのを感じるごとに、少女の胸の奥で不安は育ち、得体の知れない怪物の様に暴れるのだ。
「どうしよう……」
戦のさなか、こんな風に心臓が騒ぐことは何度もあった。
それこそ父や、兄や、親しい誰かが命を落としたら、と……そう考える度に気分はふさぎ、だけどそれを表に出して周囲を心配させないよう、いつも堪えようと胸を押さえていた。
だけど、一人で堪えることは困難で。
少女はいつも、常に柔らかな微笑を絶やさぬ吟遊詩人に頼ってきた。
いつも優しそうで、実際に吟遊詩人はいつも少女には優しかったから。
だから、ついつい甘えてしまった。
行軍中、黒歌鳥とは何度も話した。
不安で黒く濁る胸の内を打ち明け、何度も宥めてもらった。
涙が止まらなくなった時には落ち着くまで手を握ってくれた。
他愛もない話でも呆れたり嫌な顔をすることなく、いつも真摯に耳を傾けてくれた。
それは少女にとっては少し恥ずかしくて、でもあたたかな思い出。
少し前までだったら、きっと今回も頼っていた。
だけど、今回は素直に頼ることができない。
彼女は自分の身の内で暴れる恐怖を、自分一人で何とかしなくてはならなかった。
だって。
「……黒歌鳥様、私のこと、どう思っていらっしゃるんだろう。私の気持ち、ご存知……なのに」
告白するつもりはなかった。
少なくとも、その時はまだ。
あの時、口から零れ落ちてしまった言葉は、少女のおもいを形にしてしまった。
伝わってしまったはずだ、と、少女もわかっている。
直後に逃げ出すという行動に出てしまったため、もう弁解の……いや、誤魔化す余地すらなくしてしまった。あんな態度をとってしまったら、どんなに疎い人間でも少女の気持ちを悟るだろう。
彼女が吟遊詩人の青年に想いを寄せていることは、もう明白で。
相手にもそれが伝わっているはずなのに。
なのに。
何故か黒歌鳥からは何の反応も、ない。
思いを伝えられる前と、全く何も変わらなかった。
変わらなかったからこそ、少女は戸惑い、黒歌鳥と相対することに怯えた。
どうして何もなかったようにふるまうんだろう。
私のこと、あの方はどう思っているんだろうか。
急にあんなことを言った私のこと、疎ましく思っていたらどうしよう。
何も言ってくれないのは、私のことをそうは見られないから……?
黒歌鳥が何を考えているのかわからなくて、少女は溜息を吐く。
「黒歌鳥様……」
怖い。だけど知りたい。
話を聞いてほしい。否、話をしたい。
困惑と羞恥と緊張に晒され、怯えながらも少女の想いは募る一方だった。
「何も言って下さらないのは、私がちゃんと想いを告げていないから……?」
あれはどう見てもなし崩しの、事故みたいな告白だった。
あの優しい吟遊詩人の事だから……ティファリーゼの気持ちを慮って、なかったことにしてくれたのかもしれない。と、そうも思う。真実はわからないけれど、彼女の知る吟遊詩人なら……それが答えに近いと思えた。
「やっぱり、勇気を出して……ちゃんと、今度こそちゃんと、聞いていただこう」
叶うならば、名実ともに『王女』となってしまう前に。
『王女』に告白されたら、きっと黒歌鳥は困ってしまう。
身分をかさに着て迫る女だとは思われたくなかった。
それに身分を気にして、本意ではない態度を取らせたくもなかった。
『王女』になる前に。
まだ、たったひとりの『ただの女の子』である内に。
やっと踏ん切りのついた少女は、吟遊詩人の姿を探して駆け出した。
探して、見つけた場面で。
あんな会話を耳にしてしまうとは、思いもせずに。
最初に聞こえたのは、彼女の兄の声だった。
「――人間の心っていうのはね、黒歌鳥が思うほど確固たる強さはないんだよ」
「精神論のお話ですか? 哲学の方面にはあまり詳しくないのですが……」
「いや、そうじゃなくて。精神論とかじゃなくて、実際に時間が経てば変容しちゃうんだよ。……今は義憤に燃えて王国を倒す側に立っていても、権力を持ったら変わる人間だっている。倒したいと思われる側になってしまわないよう、黒歌鳥がいてくれたらと思うんだ。君の姿があるだけで、きっと抑止力になるから。だからさ?」
「ヴィンスさん、回りくどくも大事なお話をしているように聞こえますが……正直にお話してみましょう。本当は、違うことを僕に言いたいんじゃないですか?」
「……誤魔化しても無意味かぁ。じゃ、僕と君の中だし正直に言うけどさぁ……黒歌鳥、君、ティファリーゼのことを本当はどう思っているわけ?」
「健気で働き者で、天真爛漫で可愛らしいお嬢さんですよね」
「何その親戚の娘さんを褒める中年男みたいな物言い……。部下の兵士さんと親戚の女の子の見合い斡旋押し付けられた時の父さんみたいなこと言ってるよ」
「閣下がお見合いの仲介ですかー……口が滑って余計な事を口にして、双方の親御さんから睨まれる姿が目に浮かぶようです」
「君さ、うちの父さんにどんな印象持ってるの? 驚きなことに寸分違わず同じ現象が起きてたよ――……って、違う! そうじゃなくって、僕の妹をどう思ってるのかって聞いてるんだよ! はぐらかすな」
「むしろ話題を逸らしたのはヴィンスさんの方じゃ」
「僕の妹の気持ちを知っておいて、ノーリアクションとはどういうことさ!」
「そのことは先にも言いましたが、ティファリーゼさんが忘れてほしそうだったので……」
「でも本当は覚えてたんだろ。あのさ、応える気がないんなら期待を持たせるようなことしたら駄目だよ。せめて思い切れるようにすっぱり振る方がまだ良いよ。忘れたふりとかさ、気がないにしても放置はないから」
「振る、ですか。はっきりと交際を申し込まれてもないのにお断りするのは、思い上がりじゃありませんか? 好きとは言っても色々な形があるでしょう。何を望んでいると言われた訳でもないのに」
それは男同士のくだらない雑談だったのかもしれない。
だけど内容は、ティファリーゼ嬢にとってはまさに気になっていたことそのもので。
もっと言うなら、今から彼女が黒歌鳥に話しかけようとしていた内容で。
まるで先回りをするように、会話の端々から窺えるものは黒歌鳥の気のない素振り。
ああ、自分は空回っていたのか……と、ティファリーゼの胸に何かがすとんとはまりこむ。
腑に落ちるというのはこういう感覚なのだろうか。
どこかぼんやりと遠くそんなことを考えながらも、体の反応は正直だった。
ぼろりと、両目から涙が零れ落ちる。
動揺から体は震え、思わず後退る体は妙に響く足音を立てた。
ハッとした顔で、こちらに向けられた青年の眼差し。
真直ぐと向けられる視線から逃れる様に、少女は身を翻した。
――また、逃げちゃった。
足は止められない。
その場に留まることは出来なかった。
これ以上長居しては、心臓がヒビの入ったガラス細工みたいに砕け散ってしまいそうだったから。
「…………黒歌鳥、今の」
「ティファリーゼさんでしたね」
「あのさ、見間違いじゃないならさ、僕の妹……泣いてなかった?」
「見間違いではなく、泣いてましたね」
「…………………………追わないの?」
「逃げる女性を追いかけるなんて、鬼畜の所業じゃありませんか。逃げるということは、関わりたくないということでしょう? 一人にして差し上げるべk」
そこまで言ったところで、黒歌鳥の声は不自然に途切れた。
原因は明白、ヴィンス青年が吟遊詩人の頭を一発殴ったからだ。
「黒歌鳥のわからずや! 朴念仁! 慰めるって言葉を知らないのか唐変木ー! 顔だけ百戦錬磨あー!!」
そして(黒歌鳥にとっては)意味不明な叫びをあげて、お兄ちゃんは妹の背を追って走っていった。
後に残されたのは殴られた頭を押さえてきょとんとする黒歌鳥と、実は側にいたエディッセの二人だけ。
一連のやり取りを見せつけられて、エディッセは黒歌鳥に憐れみの視線を注いでいた。
しかし、数秒後。
黒歌鳥の表情を見て、エディッセは僅かに驚きを示す。
「……………どうしたんですか。黒歌鳥」
この朴念仁め。
内心でそう呆れていたエディッセが思わず声をかけてしまうくらい、ふと目にした黒歌鳥の顔は難しい顔になっていた。今までにエディッセの見たことがない顔だ。
黒歌鳥は己の胸に手を当て、何かを確かめるようにゆっくりと口を開く。
「どうしてでしょうか。ティファリーゼさんの泣き顔を見てから……なんだか、胸の奥が変なんです。不調を訴えるのとも、また違う。そわそわと、落ち着かないし、気分が妙に沈んでいくような」
行軍中、ティファリーゼさんが泣いているのを目にする度に慰めていたからでしょうか。
彼女の涙を目にすると、止めなくてはと妙に焦る。
要約するとそんな感じのことを、黒歌鳥には珍しくとつとつと途切れがちに零す。
「…………この朴念仁め」
「はい?」
「いえ、つまりはティファリーゼさんに泣かれたくない、ということですよね」
「そういう……ことになるのでしょうか。そうですね。そうかもしれません」
「だったら追いかけないと。黒歌鳥。貴方が原因で泣いているのだから、貴方がなんとかしないと泣き止みませんよ?」
「確かに。そうですね、前後の経緯から見て、僕が原因……ですね」
「さあさあ、行ってきなさい。今すぐ行ってきなさい。変に拗れる前にダッシュ! 話し合いはまた後日にでも!」
黒歌鳥を急き立て、背を押してティファリーゼ嬢の後を追うように強く促す。
エディッセは遠い目で計算を走らせた。
このことが柵となって、黒歌鳥を引き留める鎖にはならないだろうかと。
そう希望的観測を巡らせながらも、思ってしまった。
ティファリーゼ嬢に恋い焦がれていた野郎共、ご愁傷様……と。
黒歌鳥は焼け落ちた王城跡地に、夜、人知れず足を運ぶ。
誰ともなく呼びかけに始王祖は現れる。
黒歌鳥は問う。
自分一人の命では足りない。新しい契約は結べない。
……では、自分と子々孫々の血であれば?
条件次第で可能と、始王祖は告げた。
「ティファリーゼさん、僕がいなくなったら悲しいですか?」
「黒歌鳥様、どうしてそんなことを言うの……? 悲しいに、決まっていますのに」
「そう。じゃあ、悲しくなくなるまで側にいます」
「……それではずっと悲しいままになってしまいます。だって、黒歌鳥様がどこかに行ってしまわれたら、また悲しくなってしまいますもの」
「それじゃあ、ずっと側にいますよ。ずっと」
……というセリフが頭に浮かびましたが、なんか黒歌鳥っぽくないので削りました。
この直後どんなやり取りがあったのかは皆様のご想像にお任せ致します。




