特別編 借り物競争 ~あの頃二人は……
「ねえねえ、ひいら。また来てるよ、堂野君」
夢美がわたしの耳元で、どこか楽しげにささやく。
「ええーー! また? んもうっ! いったい何なのよ! 」
さっきの休み時間も国語の辞書を借りに来たばかりだというのに。
今度は何だろう。
家に帰ったらただじゃおかないんだから。
わたしは不機嫌さをめいっぱい顔に出しながら、遥が立っている廊下に駆け寄った。
「で、何の用? 」
実はわたしたち、中学生になってからはほとんど口を利いていないのだ。
希美香と一緒に遥の部屋におしかけても、いつも完全に無視されている。
というか、迷惑そうな顔をして、すぐにどこかにいなくなるのが常日頃のあいつの態度。
なのに遥ときたら、ほとんど毎日のように忘れ物をしたと言っては、あれ貸せこれ貸せと、隣のクラスからやって来るのだ。
「おい、シャーペンの芯! 」
手にしたシルバーのシャープペンシルをかちゃかちゃと落ち着きなく動かしながら、投げつけるようにそれだけ言う。
ごめんね、とか、悪いけど、とか。
わたしを気遣う言葉はもちろん、前置きも何もない。
借りたいものの名前を最短の文章で唱える。
わたしはあきらめにも似たため息をつきながら自分の席にもどり、筆箱から芯の入った小さなケースを取り出した。
おばあちゃんにもらったお小遣いで先月買ったものだ。
するとわたしの前の席に座っているクラスメイトが振り返った。
「蔵城、どうしたの? 」
彼はいつもそうやってわたしを気にかけてくれる。
なかなかいいやつなのだ。
でもまあ、それだけのこと。
別に好きだとかそういった特別な感情は全くない。
「あっ、大河内君。なんでもないよ。ちょっとね。えへへへ」
わたしはこの生徒会長でもある大河内に、私生活を詮索されたくなかった。
ここは適当に笑ってごまかして、急いで遥のところに芯を届けに行くのが得策だ。
考えてもみてよ。
あんな風に忘れ物ばかりする不真面目な人がわたしの親戚だなんて、クラスメイトである大河内には絶対に知られたくないからね。
はいこれ、と言って遥に芯の入ったケースを渡すと、その直後、まるで歴史の授業で習った仁王像のような怖い顔で睨まれた。
渡した芯が気に入らなかったのだろうか。
そりゃあ新品じゃないもの。
あと数本しか入ってないのは仕方ない。
でも、家に帰ったら、遥の机の二段目の引き出しに新しいのがちゃんとあるんだってこと、知っているんだから。
学校ではそれだけあれば十分でしょ?
ったくもう。遥のわがままにはこれ以上付き合っていられない。
「ちょと遥。なんであんたに睨まれなくちゃならないの? 貸してあげたんだから、お礼ぐらい言いなさいよ」
こんな会話、他の人にはあまり聞かれたくない。
できるだけ小さな声で、彼に催促してみる。
だって、事情を知らない人から、蔵城って意外と生意気なんだ、堂野をいじめてるって誤解されたらいやだもん。
実際、生意気でわがままなのは、この堂野遥の方なのにね。
「ねえ、ありがとうは? 」
だんまりを決め込んだ遥にもう一度催促してみる。
なのに遥ときたら、冷ややかな目でわたしを見て、黙ったまま芯の入ったケースをズボンのポケットに仕舞いこむ。
なんて奴だろう。
「ねえ、遥。お礼の言葉は……」
周囲を気にしながら声をひそめ、半分息の混じったかすれた声で言う。
声は小さいけれどあくまでも口調は厳しく、まるで子犬をしつけるかのように、遥を見下ろして言い聞かせ……た。
が、本当に見下ろしていたのは去年まで。
遥の背がどんどん伸びてきて、今はほんの少しだけ見下ろしている。悔しいけどね。
「遥ったら。何とか言いなさいよ! 」
「はあーー? うっせえんだよ。おまえ、何様? 」
ますます怖い顔になった遥が、低い声で唸る。
精一杯の威嚇。全くたちの悪い子犬だ。
ついにありがとうの言葉を聞くことなく、そんな捨て台詞だけを残して、教室の前から立ち去っていった。
な、なんなの? こっちこそ、あんたは何様のつもりだと言いたい。
無性に腹立たしくなる。
わたしはその場で思いっきり、足を踏み鳴らしてやった。
頭のてっぺんからは湯気がもくもくと出ているに違いない。
この怒りが収まる方法があれば、すぐさま教えて欲しい。
夢美が心配そうな顔をしてこっちにやって来た。
「ひいら、どうしたの? 堂野君に何か言われたの? 」
瞳を潤ませピンク色の頬をした夢美が遠慮がちに訊いてくる。
けどわたしは容赦しない。
誰が何と言おうと許せない。
あいつのせいで、はらわたが煮えくり返るほど悔しいのだから。
「んもうっ! あいつったらひどいの。人に物を借りといて、ありがとうの一言も言わないんだよ。サイテー! ありえない。家に帰ったら、おばあちゃんに言いつけてやるんだから! 」
「ひ、ひいら。わかったから。だから、ちょっと落ち着いて」
夢美がわたしの手を取り、怒りを鎮めようとなだめる。
何の罪もない夢美にまで迷惑をかけて申し訳ないけど、でも、そんな簡単にあいつを許すことはできない。
ここが休み時間の教室であることも忘れて、頬をぷうっと膨らませ、夢美の手を振りほどいたわたしは、鼻息も荒く自分の席に戻った。
どさっと腰を下ろし、前を見ると。
生徒会長が特上の笑顔で出迎えて……くれた。
「蔵城、君は笑顔の方がいいよ。嫌なことがあっても、スマイルで。もしかして、君のシャーペンの芯、ケースごと堂野に持って行かれてしまったんだよね。よかったら、これ使って」
大河内がHBと書かれたブルーのケースをわたしの机の上に置いた。
そして前を向き、何もなかったかのように教科書を開いている。
これはいったい……。
「お、お、お……」
おおこうち……くん……。
わたしは、感動のあまり声が出なくなってしまった。
遥とのこの違いはなんだろう。
片や子犬よりわがままで、片や中学生とは思えない大人な態度。
結局、大河内にありがとうと言えないまま、始業のチャイムが教室に鳴り響いた。
すぐさま、時間にうるさい英語の先生が教室に入ってきて、委員長の号令でみんなが一斉に立ち上がる。
三時間目の授業が始まってしまったのだ。
大河内に何も言えず、時間だけが過ぎていく。
大好きな英語の授業なのに、それすらもちっとも頭に入らなくて。
さっき、遥にありがとうと言えって、あれほど厳しく言ったのに。
やだ。このままだとわたし……。
あいつと一緒じゃない。