番外編 初恋は永遠に 15
体育館でバスケットボールを手にしたのは何日ぶりだろうか。
高校受験が終わった後、三月いっぱいは中学校で後輩達を相手に藤村と共に連日汗を流していたが、四月に入って高校の入学式までの間は、一切、ゲーム形式のバスケはやっていない。
ちょうど身体がうずうずしていたところだった。
たとえわずかな時間でも、コートの中をところ狭しと動き回った後の爽快感は何ものにも代えがたい。 藤村も自主トレをやっていたのだろう。
遥に負けず劣らず、俊敏な動きは健在で、対戦相手の二年生を本気にさせるのに充分なボール捌きを見せていた。
バスケの体験入部を終えたばかりの遥は、さわやかな春の風を受けながら、家に続く坂道をゆっくりと上っていた。
それにしても夕べは……。
遥は昨夜の出来事を学校で何度思い起こしたかしれない。
同じ教室で机を並べる恋人でもある彼女が、大胆にも自分に抱きついたのだ。
遥自身、どれほどそうしたかったか。
彼女が怯えるようなことだけはしたくない、まだ時期尚早だと彼女の顔色を窺ってばかりいた自分はいったい何だったのだろうと、情けなく思えるありさまだ。
今でもはっきりとその柔らかな感触を思い出す。
首筋にかかる彼女の髪がむずがゆく、そして彼女の頬が当たった肩甲骨が、蕩けてしまうのではないかと感じるくらい甘やかな一瞬だった。
いったいあいつは何を考えているのか。
遥はますます女心というものがわからなくなっていた。
確かに、去年の秋……。
子どもの頃からの思い出がいっぱい詰まった栗の木の下で、将来を誓い合ったはずなのに、幼なじみの彼女は遥にずっと冷たかった。
二人っきりになっても、甘えてくれるでなし、頼られるでもなし……。
二人の距離は縮まるどころか、逆にどんどん広がっていくようにさえ感じていたのだ。
もちろん、人前でベタベタするのは遥の本意ではない。
ただ二人だけの時くらい、わがままを言って欲しかったし、悩みがあれば相談して欲しかった。
手のかからないある意味優等生な彼女だからこそ、遥はさまざまな邪念を押しのけて、必死にバランスを保ってきたのだが、もう我慢も限界というところまで来ている。
でも……。体勢を変えて遥が抱きしめたとたん、彼女は身を翻し、逃げ帰ってしまった。
これから先、彼女とはどうやって付き合っていけば良いのか、遥自身も方向性が見出せないでいるのだ。
同級生に自分たちが付き合っていることを知らせてもいいかと柊が相談に来たのだが、内容が内容なだけに、遥はなかなか首を縦に振ることができなかった。
付き合って以来念願の彼女からの相談だったにも関わらず……。
余計なことをして、火に油を注ぐような結果を招かなければいいがと、内心穏やかではなかったのだ。
もうすぐ家の門が見えてくるところまでたどり着いた時、遥の怖れていた事態が、すでに火蓋が切られていることに気付かされる。
遥を好きだという中学時代の同級生、白石史絵が、血相を変えてこっちに向かってくる。
遥と目を合わせたとたん、彼女が立ち止まり、口を開いた。
「ど、堂野君」
「白石? 」
そこにいたのは、いつも正々堂々として真面目一本やりのオーラを振りまいていた遥の知っている白石ではなかった。
彼女は遥を見たとたん、視線を彷徨わせ、落ち着きなく手を動かし、指を開いたり閉じたりしている。
緊張しているのだろうか。
あの白石が?
遥はまるで別人のような彼女にびっくりしたが、白石の背後からパタパタとサンダルの音をたてながら走ってくる恋人の姿にもっと驚かされた。
「ひいらぎ……」
急激にスピードを落としたため、前につんのめりそうになりながら立ち止まる。
柊は息を弾ませながら、振り返った白石を気まずそうに見た後、すがるような視線を遥に向ける。
遥の方に向き直った白石は、勇気を振り絞るようにして、再び口を開いた。
「堂野……君。あ、あの……。今、ひいらから訊いたんだけど……あなたたちのこと」
やっぱりそうだったのかと遥は思う。
不器用な柊は、ストレートにすべてを言ってしまったのだろう。
ならば、包み隠さず言った方がさっさとこの場を収拾できると踏んだ。
「ああ……。悪いけど、多分柊の言ったとおりだ。じゃあ……」
こういう時、言い訳はしないほうが後腐れがない。
頭のいい白石なら、これですべてを悟るだろうと思った遥は、その後、間髪いれずに家に向かう手段を選んだ。
判断力の鈍っている柊の手を取り、家に連れ帰る。
その時、白石が柊に何か耳打ちしたようだが、そんなことはどうでもよかった。
とにかく、目にいっぱい涙をためて震えている柊を、安心させてやりたかったのだ。
玄関に入り戸を閉めた瞬間、遥は柊を抱きしめていた。
いつものようなためらいや葛藤はどこにも無かった。
ただ目の前の彼女がいじらしくて、そうせずにはいられなかったのだ。
「ちゃんと、言ったんだろ? 」
腕の中で震えている柊に訊ねると、こくっと頷く。
「おまえがあいつに俺達のこと言うって決めたんだろ? だったらもう泣くな。あいつのことだから、明日になったらケロっとしてるさ。あんなやつ、放っておけばいい。あいつは俺のことより、おまえに対してライバル心があるだけだろ? 勉強も何もかも誰にも負けたくないんだよ。な? 」
今、遥が柊に言えるのはこれだけ。
もっと気の利いた甘い言葉を掛けてやれたらと思っても、こういう状況に慣れない遥は、これが精一杯の愛情表現だったのだ。
余程辛かったのだろう。自分と付き合ったがために、柊にこんな思いをさせてしまったことに、激しく自責の念に駆られる。
遥は自分の胸に顔を押し当ててむせび泣く柊の背中を労わるように延々と撫で続けた。
どれくらいそうしていたのだろう。
ようやく泣き止んだのか柊がごそごそと動き出し、おもむろに顔を上げた。
真っ赤になった目と鼻が、小さい頃の柊と重なる。
よくけんかをして泣いていたあの頃の顔と一緒だった。
柊がじっと遥の視線を捉える。すると、俄かに遥の心は乱れ始めるのだ。
柊、たのむから、そんな目で俺を見るな。
遥の心音は、あたりに共鳴してるのではないかと思えるくらい激しく鳴り響く。
このまま彼女と唇を合わせてみたい……。
そんな衝動に駆られた時、もう一人の自分が、いまはまだ、やめておけ……と耳元でまるで天使の使いのようにささやくのだ。
「さっ、なんかうまいもんでも食って、病院に行くか」
抱きしめていた腕をほどいて、柊の肩にポンと手を載せる。
「おまえも赤ん坊、見に行くだろ? 着替えて来いよ。それにしても、おまえがそこまで制服好きだったとはな……」
遥は柊を離した直後に、もう後悔していた。
なんで願ってもないせっかくのチャンスをフイにするんだと。
自分の愚かさにガックリと肩を落とす。
わざわざこんな時に、母親と生まれたばかりの弟の見舞いに行く必要がどこにあるというのだろう。
遥の高校生活は始まったばかり。
どこまでもどこまでもスローな恋路も、まだ始まったばかりなのだ。
前途多難な青春の日々はこれからも長く苦しくそして時々甘く続いていくのだった。