番外編 初恋は永遠に 14
遥は柔らかくてしなやかなその手を離したくなかった。
ずっとそのまま握っていたかった。
でも、時は待ってはくれない。
それは無情にも誰の前にも平等に、そして瞬く間に過ぎ去ってしまう。
夕日が沈みきってしまう前に、柊を家に帰さなくてはいけない。
いつまでも栗の木のところに踏みとどまっているわけにはいかないのだ。
「そろそろ帰るか」
遥が栗の木を見上げながら言った。
「うん。帰ろう」
遥を窺うように見ながら柊が答える。
隣にいるのはいつもの柊のはずなのに、心の中をさらけ出したとたんこんなにも意識してしまい、うまく話が続かない。
気持ちが通じ合った今、いったいどうすればいいのだろう。
そんなこと、教科書にも載っていないし、もちろん誰も教えてくれない。
お互い、口をつぐんだまま、山を下り始めた。
帰りは柊が登って来た方の道を選び、ゆっくりと下っていく。
柊も同じ気持ちなのだろうか?
このまま時が止まってしまえばいいと思ってくれているのだろうか?
遥はまだ尚湧き上がる不安に、我ながらあきれてしまうのだった。
山道を下りると軽トラック一台がやっと通れるくらいの狭い農道に差し掛かる。
あと数百メートルも行けば、彼女の家が見えてくるはずだ。
そうなる前にこの手を離さなければならない。
こんなところを誰かに見られでもしたら、蔵城家の一大事だ。
ためらいがちに柊をそっと覗き見る。
同じようにこちらを見た彼女が、一瞬だけ目を合わせたのち、頬を赤らめてそっぽを向く。
ついさっきまでは、ただの親戚の女の子でしかなかったのに、今はこうやって指を絡ませ手を繋ぎ、心を通わせているのだ。
時折ぎゅっと握り締めてくる彼女に応えるように遥もその手に力を入れる。
もちろん痛くない程度に。
彼女を包み込むように、ありったけの想いを込めながら手のひらで会話をする。
まさかいきなりプロポーズまでしてしまうなんて、遥自身、予想外の出来事だった。
ただひと言、柊のことが好きだとだけ言うつもりだったのに、夢美のことを口走ってしまった彼女に便乗するように、一気に結婚の約束まで取り付けてしまった。
遥はそれを全て受け入れてくれた柊に、ますます愛おしさを感じていた。
直接言葉にすることこそなかったが、もし柊の相手が俺ならば、その話乗ったと言った時、彼女は真っ直ぐに遥を見て、何度も何度もコクコクと頷いたのだ。
わたしが好きなのは遥だよと訴えかけるような目をして。
遥はもうこれ以上のものは何も必要なかった。
柊の姿を見ればそれで充分だった。
彼女の気持ちがわかった以上、もう怖いものなんて何もない。
大河内の毒牙にかかる前にしっかりと彼女を繋ぎ止めておくには、結婚の約束しかなかった。
好きだなんて言葉はいつだって言える。
でもプロポーズは遥にとって、それ以上の価値のある崇高なものだったのだ。
柊は俺のものだという確固たる証明。彼女への忠誠のあかし。そして未来への展望。
遥の柊への想いは、このプロポーズにすべて凝縮されていた。
とうとう柊の家の裏庭が見えてきた。
遥は彼女の手を引き寄せるようにして立ち止まり、名残惜しそうに一本ずつ指を解き、その手を離した。
彼女のぬくもりが次第に薄れていく。
そして、いつしかまた指が氷のように冷えていくのだ。
何も言わずに見詰め合っている彼女の目が、少し潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
瞳が微かに揺らぎ、吐息が漏れる。
こういう時こそ、何か気の利いた言葉でもかければいいのだが、今の遥にはこうやって彼女と見つめ合うのが精一杯で……。
その時、急に伏目がちになった柊が、ぼそっとつぶやくように言った。
「遥……」 と。
「ん……? 」と訊き返す。
「今日は、ありがと。わたしね、十五年間生きてきて、今日が一番嬉しかった」
遥の心が震えた。
柊の何気ないひと言ひと言が、遥を天にも昇らせてしまうのだ。
「ああ……」
俺も……と言いかけて、黙り込む。
プロポーズは出来ても、小さなひと言がその何百倍も恥ずかしく感じるのはなぜだろう。
心の中で、柊、ごめんなと謝る。
「母さんが心配するから、帰るね。後で、おばあちゃんちに行くから……。じゃあね! 」
そう言って少し首を傾げ、にっと笑う。
そしてバイバイと手を振りながら、家まで走り去って行った。
遥は立ち止まったまま遠ざかる彼女を見送る。
本当は追いかけて、もう一度その手をつなぎたかった。
いや、この腕で抱きしめたかった。
出来ることなら、その唇も奪いたかった……。
けれど、十五歳の遥には、それはエベレストに登るよりも難しいことのように思えて……。
当分はこのままでいいんだと自分に言い聞かせる。
柊もきっとそんなことはまだ望んでいないはず……と都合のいいように解釈しながら。
遥はすっかり太陽が沈みきった西の空を眺め、いつしか鼻の奥がツンとするのを必死で堪える。
そして、大きく息を吸いこんだあと、涙が一筋頬を伝ったのを知る。
嬉しさと愛おしさで胸がいっぱいになる。
人を想って涙を流したのは初めてだった。
自分の想いを伝え、そしてそれを返してもらうことがこんなにも幸せだとは今の今まで知らなかったから。
遥は制服の袖で涙を拭い、両手の拳を握り締めて、よっしゃあっ! と叫んだ。
そしてそのまま直接祖母の家に駆け込む。
満面の笑顔と共に……。
ようやく結婚の約束まで書き終えることができました。いかがでしたでしょうか?
この後、高校生になった遥も少しだけ追っていけたらいいなと思っています。




