番外編 初恋は永遠に 13
遥は家に帰りつくとカバンだけ祖母の住む母屋の納戸に投げ込み、ネクタイを緩めて、裏山の獣道を駆け上がった。
何としてでも柊より先に約束の場所に着きたかったのだ。
今ごろ柊は彼女の家の西側にある農道から続く山道を登っているに違いない。
遥は急な斜面も物ともせず、瞬く間に山の中腹の開けた場所に出た。
落ちている栗のイガを避けるようにして、ふかふかの落ち葉の上に身体を横たえる。
太陽は傾きかけているけれど、朝の寒さが嘘のように、山の中腹の果樹園は暖かい陽だまりに包まれていた。
遥は空を見上げながら、柊にどう話を切り出したものかと考え始める。
まずは柊の話とやらを聞いて、その後、どのようにして彼女を引き止めるのかが第一関門。
そして、どうやって気持ちを伝えるのかが第二関門だ。
引き止めることさえ出来れば、あとは野となれ山となれ、どうにでも出来る。
おまえが好きだと単刀直入に言えばいい。
柊はどんな顔をするだろうか。
また冗談でしょと言って笑うかもしれない。
それでもいい。そうなったら、何も言わず……そっと抱きしめてやればいい。
そして、そして……。
遥はそこまで考えて、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになる。
そういうのは女子の特権だと思っていたが、どうもそうではないようだ。
男であるはずの遥の胸は、ありえないほどの高鳴りに襲われ、もはや鎮めることなど不可能のように思えるほどだった。
目の前の栗の木についている葉がかさかさと音を立てる。
遥は、心地よい風に吹かれながら、地面から伝わってくる足音を背中に感じていた。
右手の方に目をやると、柊が走って来るのが見える。
遥は、腕を頭の後ろに回して寝そべったまま、息を弾ませている柊に声をかけた。
「そっちの方が先に帰ったのに、遅いな。約束どおり来たけど……。何の用? 」
柊は驚いたような顔をしながら、遥の横に腰を下ろす。
まるで遥がそこにいるのが信じられないとでも言うように。
「あの、遥……。忙しいのに呼び出したりしてごめん」
少し恥ずかしそうに目を逸らす柊の横顔をじっと見る。
「実は藤村のことなんだけど……」
ふ、藤村?
いきなり彼女の口からこぼれ出る親友の名前に遥は目を見張った。
遥の心臓がショックのあまり、拍動をひとつ、すっとばした。
「へ? 藤村? 」
遥はまさかとは思いながらも、柊の真意を探るように、その一言一句に集中する。
「うん……。わたしさあ。藤村の恋のお手伝い、もう辞めにしようと思ってるんだけど。だから遥ひとりで応援してあげてって、そのことを頼もうと思ってここに来てもらったんだ……」
なんだ、そういうことか……と納得しながらも、嫌な予感が遥ににじり寄る。
でも、急にどうして? まさか、柊、おまえ、あいつのこと……。
再び、遥の脈拍が間隔を詰め大きな音をたててドクドクと刻み始める。
「えっ? でも柊があいつの力になってやんないと、夢美との橋渡しできねえよ? 」
遥は、枯葉が髪についたままなのも気にせず、ガバッとはね起きた。
「あ、遥、あのね。そ、それが問題なの……」
遥が問い詰めるように近寄れば、柊がずりずりと後ろに下がる。
「実はわたし、夢美の本当の好きな人のこと知ってて……。残念ながら、その相手は藤村じゃなくて。だからその、藤村を無理やり押し付けるようで、夢ちゃんに申し訳なくて……」
遥の心に少しだけ陽が射す。
なーんだ、そんなことなのか、それなら仕方ないなと。
自信を取り戻した遥は、気持ちが沈んでいる柊を救い上げるように明るく答えた。
「そうだったのか……。じゃあ柊は、その夢美の本当に好きな奴との間を取り持ってやりたいんだな」
「え? あ、そうだね。そうしないと……いけないね」
「わかった。そういうことなら俺にまかせておけ。俺は俺のやり方で藤村を応援する。柊は柊のやり方で夢美を応援する。そして後は、二人にまかせる。それでいいな? 」
遥はこれですべて問題は片付いたとでも言うように、晴れ晴れとした態度でその場にすくっと立ち上がり、髪についた枯葉を振り落とすようにして、頭を二、三度振った。
さーて、次はいよいよ……というところで、柊の手が遥のズボンの裾を引っ張る。
「あっ、遥。ちょっと待って」
「ん? 」
別にどこかに逃げ出そうとするつもりはないのだが。
遥は訝しげに柊を見下ろす。
「実はその……。夢ちゃんと藤村の二人にまかせるって、そうもいかないんだ……。夢美を応援したいのはやまやまなんだけど、その相手ってのが……」
もうその話は終わったんじゃないのかと訊ねたいのを堪えて、遥はまだ冴えない表情の柊をじっと見る。
夢美のその相手というのが何か問題でもあるのだろうか。
遥はもう一度その場に屈みこみ、柊と目線を平行にする。
「その相手? おまえが困るような相手って、そんな奴がいるのか」
柊の瞳が微かに揺れる。
遥は自分で訊いておきながら、彼女の口から自分以外の名が語られることに恐怖を感じていた。
たとえば、あいつだとしたら……。
「何途中で黙ってるんだよ。その相手ってのが、いったい誰だっていうんだ? 」
「そ、それは……」
「ったく、はっきり言えよ。それともあれか? 柊が困るような相手ってことだとしたら……。うーーん、誰だ。もしかして大河内? 大河内なのか? おい、白状しろよ。そうなんだろ? 」
遥は、どうか違うと言ってくれと祈るような気持ちで、その名を口にした。
すると柊の目がぴっと焦点を合せてくる。
「ち、が、い、ま、すっ! そんなわけないでしょ。もし夢ちゃんが大河内君が好きなら、こんなに悩まないよ。それに言っとくけど、わたしが大河内君と仲良くするのを邪魔するのは遥、あんたなんだからね! これ以上、進展のしようがないっていうの! 」
遥は柊の剣幕に胸を撫で下ろす。
夢美の相手が大河内じゃないとわかって、随分と気が楽になった。
そうだよな、大河内が柊に近付かないように最大限の注意を払っているのは自分だったと、遥は改めて我が身を振り返った。
「あ、あれは邪魔とかじゃなくて、柊のためを思って、その……なんだな? そうそう、柊に特定の人が出来ると不便だから……あ、いや……」
遥は完全に舞い上がってしまった。柊が不信感を募らせた視線をよこす。
「わたしに特定の相手が出来ると不便? それってどういう意味? 言葉通りだとすれば、わたしは遥のために、一生特定の人を作れないってことだよね? 恋人もいないまま寂しい学生時代を過ごせっていうの? 」
「い、いや、そうじゃなくて」
「ねえ、遥。そういうのってなんかおかしくない? わたしみたいに地味な人間はこの先誰からも相手にされない可能性だってあるわけだし、おまけに数少ない出会いを前みたいに阻止されて、未来永劫、ずーーっと一人ぼっちで寂しく生きていかなくちゃならないってことだよね? 」
ここで彼女を怒らせると後々の計画がうまくいかなくなる。
遥は、あわてて弁解モードに入った。
「何もそんな大げさな意味で言ったんじゃないよ。柊に本当に好きな人ができたら、それはそれできっと応援するから。俺はいつだって柊の味方だ。なっ? ……だけど大河内はだめだ! あいつだけは絶対に許さないっ! 」
これだけは譲れなかった。大河内だけは遥のなかで最高にNGなのだ。
もちろん他の誰が相手であっても、応援する気など、さらさらないのだが。
すると、急に目の前の柊の顔がほわっと和らいだ。
「遥、それなら安心して。実はわたし、その、あの……。す、好きな人いるから。だから、大河内君には何があってもなびかないよ。大河内君には友だち以上の気持ちは持てない。どう? これなら文句ないでしょ? 」
遥は、柊の眩しい笑顔に気をとられて、うっかり聞き逃すところだったのだ。
「そうか、それなら安心だな……って、おい! おまえ好きな人いるのか? そんなの聞いてないぞ。誰だ、誰なんだっ! 」
もう黙ってはいられない。
これは遥にとって、大ピンチだ。
遥は半ばやけくそになって、柊に詰め寄っていた。
「柊、誰なんだ? なあ、教えてくれよ。なあ。俺とおまえの仲だろ? 大昔に言ったじゃないか。二人に隠し事はなしだって。じゃあ、俺も教えるからさあ。ねえ、ひいらぎちゃん、お、し、え、て! 」
柊の顔色がさっと変わる。
遥はちょっとやりすぎたかと反省するが、もう遅かった。
「わたしはね、遥の好きな人なんて聞きたくもないし、だからわたしも教えない。いい? わかった? 」
「わからん! 」
敵のガードは鋼のように堅い。
少々のことでは破れそうにない。
遥は、今日もまた気持ちを伝えることなく、悶々とした寂しい夜を迎えるのかと落胆しかけた……その時だった。
「遥のわからずや。もうっ、なんでこんな話になるんだろ。だから、今話してるのはそんなことじゃないでしょ? 夢ちゃんと藤村のことだったはず。ほんとに、遥はのんきなんだから……。なんで夢ちゃんは、こんな人がいいのかなあ。はあ……っ……」
柊がため息と共に発したその言葉。
こんな人とはつまり、遥のこと。
ってことは、夢美が好きなのは俺?
で、柊はそんな夢美を応援したくない……。
それって、柊は俺のことが……。
遥は一瞬にして、柊の言葉のカラクリを理解した。