番外編 初恋は永遠に 5
祖母の住む母屋は離れと違って冷える。
背中のあたりがスースーする感じだ。
まだ十月だというのにこたつを出している祖母の気持ちがなんとなくわかるような気がした。
遥は祖母の部屋のこたつに入って勉強をしながら、目の前でうとうとしている柊を時折伺い見ては歯がゆい思いに苛まれていた。
遥はこの親戚の女の子を以前にも増して愛おしく思い始めていた。
というのも夏祭りのあの日に抜け出して東京の祖父母の家に行った時、一応の解決策を見出したからというのもあるが、最近遥の親友である藤村と微妙に接近しつつある彼女が実は気になって仕方なかったのだ。
こうなったらいち早くこの鈍感な少女に自分の思いを伝えるべきかどうなのか……。
遥はある意味、早急に決断を迫られてもいた。
ただ遥は、相手の藤村が別の女子にぞっこんなのを知っているだけにどこか腑に落ちない点も感じてはいた。
が、藤村がいつ心変わりするかなんてことは誰にもわからない。
柊はクラスの誰よりもきれいでかわいい。
もちろん、遥の贔屓目もあるがあながち間違ってはいなかった。
遥が柊と仲がいいと思っている連中から、ひっきりなしに彼女の動向を伺うような質問をされるのだ。
中には付き合いたいから間を取り持ってくれと言う者までいて、それこそ油断ならない。
藤村がいつ柊に乗り換えても不思議はないのだ。
そんなこっちの気も知らずに、こくりこくりと船を漕ぎ始める柊に起きろと声をかける。
「遥。少しだけそっとしておいてあげなさい。柊も疲れてるんだよ」 と祖母の優しい声。
だめだ。こんな調子だからこいつの成績は下降の一途なんだ。
遥は内心気が気でない。
このままだと同じ高校に行けないのは目に見えている。
ならば自分がランクを下げて受験するという策も考えたが、それではあまりにも短絡的すぎるのではないだろうか。
祖母の思いやりなど、この際邪魔者以外の何者でもない。
遥はすかさずこたつの中の柊の足に蹴りを入れた。「起きろっ!」 と。
びくっとして目を開けた柊は何事かと遥を見るが、その視線はまだ定まらない。
「いい加減にしろよっ! このネボケ女! 」
遥の暴言にようやく意識をよみがえらせた柊も負けてはいない。
「何よ。ちょっとぼーっとしてただけじゃない。なのに痛いよ! そんなに強く蹴らないで。もうっ! 」
柊の右足キックが遥の左足ふくらはぎを直撃する。
遥はこの時、柊が女の子であるということを一瞬忘れてしまう。
ムキになってもう一発蹴りを入れたところで、祖母の一撃を食らうのだ。
「これっ! 遥、やめなさい! 柊もっ! 」
祖母の手には丸めた朝刊が。
編みかけの帽子を膝の上に乗せて、握り締めた新聞が遥の頭上を直撃する。
「いてっ! ったく、ばあちゃんよお……。わかったよ。でも、俺は悪くないからな」
「つべこべ言わずに、早く勉強しなさいっ! 私はお風呂に行ってくるからね。おまえたち、今度けんかしたら承知しないよ! 」
そうやってどうにか事態が収拾し、また勉強が始まるというのが、ここ最近の遥の日課だ。
柊が口を尖らせ、蹴りあいの結果をまだ不服そうに引き摺りながら数学の問題集を解いている。
そこ、違うだろ? そもそも書き写した問題の数字が間違っているじゃないか。
いろいろ言いたいのをぐっと我慢して、遥は彼女のノートをなるべく見ないように心がける。
これ以上けんかの種を蒔きたくないからだ。
遥がこうやってけんかをしながらも、柊とここで一緒に勉強しているのにはわけがあった。
もちろん、大好きな彼女と同じ空間にいることが第一目的であるのは否定のしようのない事実なのだが……。
もうひとつ大きな理由があったのだ。
遥の祖父はあの夏の逃亡の時、遥にきっぱりと言い切った。
跡継ぎの心配はいらないと。
若いうちは自分のやりたいことを思う存分やれと言った祖父の目はどこか少し寂しそうだったが、遥は宣言したのだ。
自分の思った道を進むと。
そして叱られるのを覚悟の上で家に帰ると、父親はまだしも母親までもがお帰りと言っただけで、それ以上何も責め立てることはなかった。
この時、母親の様子が少し変だなとは思ったが、それ以上詮索はしなかったのだが。
するとその後みるみる母親の身体の調子が悪くなり、病院に行ったその日に入院ということになってしまったのだ。
父親からは出血したという説明を受けただけだった。
自分のせいで母がどこか悪くなってしまったのだろうかと遥は真剣に悩んだ。
自分が勝手にとった行動がこんなにも母親を傷つけてしまったのだろうかと、自己嫌悪に陥ったのも束の間、父親がとんでもないことを遥に告げる。
母さんは妊娠してるんだよ……と。
てっきり吐血をしたと思っていた遥は、その症状が子を宿したことによる流産の徴候であるとわかるや否や、今度は無性に腹立たしくなってくるのだ。
なんで自分の母親が妊娠するんだと。
十五歳の遥には、それは生々しい現実として受け止められた。
結婚をした女性が子どもを産むのは別に不思議でも何でもない。
でも、それとこれとはわけが違う。違いすぎる。
仮にも、長男である自分はもう十五歳なのだ。
クラス中の誰にも、そんな小さい兄弟がいる者はない。
おまえの母ちゃん、やるなあとひやかされるのは目に見えている。
退院してきた母親はすっかり顔色もよくなり元気になったように見えたが、高齢出産のリスクも考えて、医者の進めどおり引き続き家庭で療養することになった。
病欠と産休を取って仕事を続けるという選択肢もあったが、どういうわけかきっぱりと仕事を辞めてしまったのだ。
遥自身も小さい頃はいつも母親が家にいる友達がうらやましく思ったものだが、実際それを経験してみると、うるさいことこの上ない。
今しようと思っていたことをいちいち口出しされて、やる気をそがれるのだ。
おまけに妹の希美香とスクラムを組んで責められるのはもうたくさんだと、逃げおおせた地がこの祖母の部屋だったというわけだ。
もう集中力が無くなってしまったのだろうか。
柊がさっきからテレビ台の方をちらちらと見ている。
テレビはもちろん消してあるのに……だ。
遥は英語の教科書から目を離し、不審な動きをする柊を見た。
「ねえ、遥。ちょっと訊いてもいい? あのさあ、その録画したビデオ、いつ見てんの? 」
突如柊の口から飛び出す疑問に、遥はなんだそのことかと、テレビ台の中に納まっているビデオデッキに目をやりながら答えた。
「夜中に宿題やりながら見てる。主に金、土の晩に、みんなが寝静まってから、離れのリビングでCMぶっとばしながら見るのがいいんだよな」
「ふーん、そうなんだ」
「そうだ。今夜、柊も見に来ないか? 今週の特番二つほどたまってるんだ。うちの父さんも母さんもノリ悪すぎなんだよな。希美香は料理番組にしか興味ないし……。 俺あの家ですんごい疎外感、味わってる。ねえ、お願い、ひいらぎさま。一緒に見ようよ、ね? 」
遥は両手をこすり合わせて拝むように頼み込む。
どうせ勉強しないのなら、ビデオでも見たほうが楽しいに決まってる。
それでいい雰囲気になったら……。
告白してもいいかなと遥の脳裏に自分勝手なシナリオが浮かび上がった。ところが……。
「ええっ? いいよ、そんなの。だって、遥の趣味にはついていけないんだもん。お笑いなんかどうでもいいよ。見たくない! 」
それはないだろ、ひいらぎさま……。
あまりにも速い柊の拒絶に、遥は力なく項垂れる。
なんで俺の気持ちがわからない! と逆切れするのはお門違いで。
柊が自分のことなど全く意中にないのは百も承知の上で、何度も拝み倒して、恐る恐る顔を上げてみると……。
どういう風の吹き回しだろう。
急にニヤニヤし始めた柊が、頬を上気させながら、ねえ遥と言った。
「ねえねえ遥。やっぱりさっきの返事、取り消すよ。今夜、一緒にビデオを見る。その代わり、今度はわたしのお気に入りのドラマも一緒に見てよ」
「えっ? ドラマ? 」
「そう。だって、うちの両親ったらドラマ嫌いでさ、いつもバラエティーばっかりなんだ。ほんと、ノリ悪すぎ! あんたの両親と入れ替わってたらよかったのにね……」
遥の心臓がこの時再びリズミカルに鼓動を開始したのは言うまでもない。
遥は心の中で何度も何度も柊ありがとうと繰り返した。