番外編 初恋は永遠に 4
もうすぐ九時になる。
遥は履きなれたスニーカーに足を入れ、スポーツバックを肩に担ぎ上げた。
部屋の電気はつけたままにして、そっと玄関から外に出る。
いつもならランニングを終えて帰ってくる時間帯だ。
小高い裏山から木々がこすれ合う音と、虫や猫の鳴き声くらいしか聞こえない静かな家の周辺が、今夜は少しばかり違った。
家のすぐ下を通る県道にはひっきりなしに車が通り、姿は見えないがどこからともなく人の声も聞こえる。
遥は辺りの様子を窺いながら玄関のドアを閉め、鍵をかける。
そして祭り会場とは反対方向の農道を、なるべく足音をたてないように注意しながら静かに下っていった。
遥は祖父に会ったら自分の今の気持ちをすべてぶちまけるつもりでいた。
本当は店を継ぎたくないんだと。
祖父も祖母も穏やかで優しい人達だ。
蔵城の祖母と違って年に数回しか会えないが、遥は彼らが大好きだった。
でもそれとこれとは話が違う。自分の一生のことなのだ。
自分に後を継ぐ意志がないことをはっきりと伝える必要がある。
遥にはやりたいことがあった。それはテレビ局に勤めることだ。
俳優やタレント、アナウンサーなどの表に出る仕事ではなく、番組を作る仕事がしたいのだ。
この仕事にあこがれたきっかけは、皮肉なことに、祖父に連れて行ってもらったテレビ局の見学ツアーだった。
東京には様々なテレビ局がある。
テレビの画面だけでは知り得なかったことが、そこで次々と明らかになり、自分で番組を作ってみたいと強く思うようになったのだ。
そして地元の地方局に勤めることができれば、柊と離れることもない。
遥の脳裏にはそんな青写真が出来つつあった。
そうなれば柊にこの想いを告げられる時がくるのではないかと。
遥は何が何でも、祖父と話の決着をつけなくてはならなかったのだ。
ちょうど家と駅の中間地点まで下りて来た。
遥は少し歩くスピードをあげる。
三叉路にさしかかろうとしたところで、角の所に立っている黒っぽい浴衣姿の女性が視界に入る。
どこかで見たような青い帯が暗闇にぼんやりと浮かび上がった。
街灯がまばらなのではっきりとはわからないが、どうもその前方の彼女が自分を見ているような気がするのだ。
遥は目を凝らしてじっと彼女を見つめ返した。
……柊じゃないか。
遥は半信半疑のまま彼女に近寄る。
どうしてこんなところに?
希美香がしきりにうらやましがっていたかわいいお団子ヘアの柊が、満面の笑みを浮かべてそこに立っているのだ。
後れ毛が白いうなじに貼り付き、目のやり場に困りどぎまぎする。
柊ではない別の大人の女性がいるような錯覚に囚われ思わず息を呑んだ。
さっき、彼女にタオルケットを掛けてもらった時に遥の鼻先をかすめた甘い香りが再び彼を包み込み、またもや心臓が暴れ出す。
「おい、なんでおまえ、こんなところに居るんだよ」
柊のことをそんな風に見てしまった自分をどこかに追いやるように、遥は精一杯のそっけなさを装って訊ねる。
「やっぱり、遥だった」
「希美香は? どこに行ったんだ? 」
「さっきまで一緒にいたんだけど……。今は友達のところに行ったよ。でもね一時はどうなるかと思って、いろいろ大変だったんだ」
「どうしたんだ? 何かあったのか? 」
「希美ちゃんがね、足が痛いから、家に帰ろうって言い出して……。ホント、どうしようかと思った。でも助かった。希美ちゃんの友達と出会ったおかげで、帰らずに済んだんだ」
「そうか。……心配かけて悪かったな」
危機一髪だ。もし希美香が戻って来ていたなら、今ここにいなかったかもしれないのだ。
遥はほっと胸を撫で下ろした。
「それより、遥。あんたお金とかあるの? 」
柊の丸い目が心配そうに遥を捉える。
「金? それなら心配ない。今年のお年玉や貯金をかき集めたから。往復の旅費くらいはなんとかなる。それに俺、中学生には見えないだろ? この前なんか、高二に間違えられたくらいだから、別に何も心配いらないさ」
スポーツ用品の店にバスケシューズを見に行った時、店長にそう言われたのだ。
一緒だった藤村は遥より十センチ以上も背が高いにもかかわらず、すぐに中学生だと見抜かれていた。
これは遥にとって最近滅多にない痛快な出来事のひとつだった。
自己満足の笑みに浸っていると、急に柊の手が遥の手に添えられ、何かをねじ込んでくる。
「これでジュースでも買って。……じゃあ気をつけてね。こっちのことはわたしにまかせて。みんなにはうまく言っとくから」
次の瞬間、もう柊は坂を駆け上がっていた。
遥は自分の手に視線を落とす。
そこにはクシャクシャになった千円札があった。
おばあちゃんにでももらったのだろうか。
いつも整理整頓にうるさい几帳面な柊が持っていたとは思えないようなしわだらけの夏目漱石に、遥はふっと口元を緩めた。
柊は祭り会場で何も買わなかったのだろうか。大好きな綿菓子すらも?
柊が怒るとわかっていて、いつも彼女の綿菓子をわざと横取りしていたのを思い出した遥は、何も買わずに自分に千円をよこした彼女の心遣いに胸が熱くなった。
柊の姿がだんだん小さくなっていく。
急に立ち止まった柊が両手を大きく振って叫んだ。きっと電話してよと。
遥がおおっと返事を返すのとほぼ同時に、夜空が明るくなる。
少し時間差をおいてドーンと重い音が響き渡った。
今夜最後の打ち上げ花火が遥の背後で大輪の花を咲かせていた。
読んでいただきありがとうございます。
今は野口英世ですが、当時(11年前)の千円は確か夏目さんだったと記憶しています。
綿菓子のことですが、不思議ですね。テレビのドラマ等ではほとんど綿飴と表現されていますし、私もそう書こうとしていました。が……。気になって調べてみると、関東より東は綿飴と言って、西は綿菓子となっていました。こんぺいとうの舞台は一応東よりの関西方面と設定していますので、ここは綿菓子にしないとと、書き改めた経緯があります。
こうやって文を書いていますといろいろな面で新たな発見があり、それがまた楽しくもあります。