番外編 初恋は永遠に 3
翌日の午後、うだるような暑さの中エアコンの冷房スイッチすら入れる気にならず、遥はベッドの上に仰向けに横たわりながら夕べの両親の会話を思い出していた。
自分には何も知らせられないまま、勝手に進められている将来のことを。
小さい頃から、おまえは大きくなったら祖父の店を継ぐんだよと言い聞かされてはいたが、まだまだ先のことだからと、真剣に受け止めたことはなかった。
ただおぼろげに、いつかはそうするのだろうと思っていただけだった。
ところが夕べの両親の話は違った。
来春から東京に行き、向こうの学校に通えと言うのだ。
いったい何を言ってるのだろうと耳を疑った。
部活で身体がぼろぼろになるほどの厳しい練習に耐え、時間をやりくりして勉強に打ち込んだのは、東京に行くためではない。
親を喜ばすためでもない。
ましてや名誉や人気を得るためでもない。
遥は、思いを寄せる彼女に認められたくて、彼女を守れる強い人間になりたくて。
柊のことだけを考えて中学校生活の二年と数ヶ月を過ごしてきたというのに。
なのに、そんな自分の気持ちなど一切理解されず、大人の敷いたレールの上を歩かされることに、ただただ憤りを覚えていた。
遥は夕べ夜遅くまで練った計画を、今こそ実行に移すべきだと決意を固めると、ベッドから身体を起こしクローゼットの中から大き目のスポーツバックを取り出した。
今夜は村の祭りだ。夕方から夜にかけて、家の中は誰もいなくなる。
その時を見計らって、ここを抜け出す。
遥の計画は、いよいよ現実味を帯びてくる。
タンスから着替えを出し、カバンに放り込む。
問題集や参考書を買うためにと、銀行に預けずに封筒にしまっておいたお年玉の残りの千円札と五千円札を、全部財布の中に押し込んだ。
後は家族が出払うのを待つだけだ。
遥は汗の滲む額をTシャツの肩の部分で拭い、ベッドに腰を下ろした。
その時、ドアをコンコンと叩く音がする。誰だ?
カバンを隠そうと立ち上がったと同時に、遥の心臓の鼓動を一番乱れさせる声がそこから聞こえてきた。
「遥、いるんでしょ? ここ開けて」
いつになく優しいその声は、確かに彼女のものだ。
遥はありえないほどの心音を部屋中に響かせながら、息を潜め考えを巡らせる。
ドアを開けるべきか、それともこのまま彼女を追い返すべきか……。
外側のドアノブに彼女の手がかかった瞬間、遥は自らドアを開け、柊の腕を掴んで中に引き入れていた。
「ちょ、ちょっと、何すんの! 」
浴衣姿の柊が、遥の手を振りほどこうと身体をよじる。
「いいから、黙って中に入って……」
なだめるようにそう言って、遥はドアを閉めた。
柊が室内を見回し、ある一点にその視線を集中させる。
その場ににつかわしくない衣類の詰まったカバンが柊の思考を混乱させているのだと手に取るようにわかる。
遥は覚悟を決めた。
「俺、今夜、逃亡するから……」
柊の目を見てはっきりと言った。
「と、逃亡? 」
柊が呆然としながら遥を見つめ返す。
「お、おい。そんなに怖い顔すんなよ。ちょっと、考えてることがあるだけなんだ」
「でも、逃亡って、その、逃げるってことでしょ? 」
「ああ、そうだ。今夜。夜行バスで東京に行くことにした」
「東京? ちょっと待ってよ、東京って……」
「だから、俺がバスに乗り込んでから、みんなにそのことを言って欲しいんだけど……」
「へ? 何それ。おじちゃんとおばちゃんには黙ってここを出て行くの? 意味わかんないよ。ちゃんとワケを話してから行けば? 」
柊が詰め寄ってくる。
「そうはいかないよ。だって今日は祭りだろ。本当のことを言ったら最後、絶対に村から出してもらえないに決まってる。どうしても今夜発ちたいから、柊の協力が必要なんだ。帰ったら理由を全部話すから……」
急に口をつぐんだ柊が、遥をまじまじと見る。
柊の色素の薄い茶色の瞳が微かに揺れる。
「俺はこのあと、ますます気分が悪くなって、祭りに行けないことにするからな。九時ごろこっそり家を出るつもりだから、家の者を祭りの会場に留めておいてくれ」
「いや、だから、それは無理だって」
「特に希美香が忘れ物をうちに取りに帰ったりしないように、しっかり見張っておけよ! 」
強い口調の遥に、柊も決して負けてはいない。
「わけも訊かないで、遥を逃亡させるわけにいかないよ! いったい何があったの? どうして東京なの? 」
遥の理不尽な反乱を認識した柊が、執拗に遥を責め立てる。
「今は言えない……。そんな簡単なことじゃないんだ。そうだ。じゃあ……。柊も一緒に行く? 行けばわかるよ」
柊が承諾するはずがないとわかっていながらも、そう訊かずにはいられない。
もしも柊が一緒に行ってくれたなら、勇気も倍になるかもしれない。
遥は一パーセントの確率に全てを賭けた。
「そんなあ……。理由もわからないのに行けないよ。そんなことしたら、大騒ぎになるって。……わかった。遥がそれほどまで言うのなら協力する。みんなになんて言われようとも、バスの出る十一時までは何も知らないふりしてる」
それは彼女らしい答えだった。
遥はほっとため息をつきながらも、目の前で小首を傾げる柊から目が離せない。
すると、柊のどこか甘えたような声が遥の耳をくすぐり始めるのだ。
「ねえ、遥。ひとつだけお願いがあるんだけど……。東京に着いたら、うちに電話して。どんなに朝早くてもいいから。だってみんなが心配するもん……」
「うち? それってどっち? 柊の家か? それとも俺の家? 」
柊の言う「うち」とは時と場合によって、その意味合いが変わる。
学校で友達におばあちゃんの話をする時の「うち」は遥の祖母の家を指す。
希美香と遊んでいる時の「うち」は、遥のとんがり屋根の離れを意味する。
柊にとっては自分の家も含めて、三つ全部が「うち」なのだ。
遥はたちまち混乱し始める。
「どっちでもいいから。とにかく連絡すること! いい? わかったら早く寝る! 気分悪くて、今夜はお祭りに行けないんでしょ? 夏バテってことにしておいてあげるから」
結局どこに電話をかけるのか、はっきり答えがでないまま、遥は無理やりベッドに寝かされる。
柊が手にしたタオルケットが、ふわりと遥の身体に掛けられた。
その時、彼女の浴衣の袖が遥の顔をかすめ、甘い香りが漂う。
パウダースプレーの香りだろうか?
遥の心臓が大きく跳ねた。
「柊、助かるよ。そ、その……。一緒に夏祭りに行けなくて、ごめん……」
こんなことを言うつもりではなかったのに。
遥は自分の言ってしまったことに驚きを隠せない。
「はあ? 別にいいよ、そんなこと。中学生になってからは、いつも別行動だったじゃない。何よ、いまさら……」
「あはは。そうだよな。でも、今日の柊、ちょっとイケテルぞ。馬子にも衣装とは、ホントよく言ったもの……」
「ど、どの口がそんなことを言うの! 病人は黙って寝る! 」
ますます気が動転して、ぽろっととんでもないことを口走った瞬間、真っ赤になった柊が足元に転がっていたバスケットボールを拾い上げ、遥に向かって投げつけてくる。
「おっと危ない。セーーフ! 」
反射的に手が前に出て受け止める。
顔面直撃だけはなんとか回避できた。
「じゃあ、よろしくな」
寝たまま片手を上げて、彼女に言った。
すると、浴衣を着ているとは思えないような大胆な歩みで、彼女が素早く部屋を出て行った。
──イケテル? 俺、なんであんなこと言ってしまったんだろ。
遥は咄嗟に口にした自分の言葉に動揺するあまり、しばらくの間、顔にかぶったタオルケットをそこからはがすことが出来なかった。